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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『音叉』

2022年12月04日 | 作家タ行
高見沢俊彦『音叉』(文藝春秋、2018年)

バンドのアルフィーのメンバー高見沢俊彦が初めて書いた小説ということで新聞などで知っていたのだが、たまたま図書館の返却コーナーにあったので読んでみた。

とにかく文章が読みやすい。本人の実際に経験したことを回想風にそのまま書いたせいなのか、もともと文才があるせいなのか、読みやすい。

しかも書かれている時代が私の学生時代とほぼ同じということもあって、時代の雰囲気がよく分かる。もちろん私にはこれほどの女性遍歴はまったくないので、その辺のことを差し引いても、「私にも書けるんじゃないか」という気にさせるような、いい小説だ。

実際アルフィーも74年くらいにデビューしてから、メリーアンがヒットする80年の初頭まではたいへんな苦労をしたらしいが、その後はずっと一線を走っている。

とは言っても私は彼らにはまったく関心がなかったのだが、この5・6年くらい前からBS7チャンネル(テレビ東京か?)で「あの年あの曲」とかいう番組があって、曲のアナウンサーの隣に出ていたのが、アルフィーの坂崎幸之助と高見沢俊彦だった。とくに坂崎幸之助はもうあらゆるフォークソングを知っているのではないかというくらい、つねにギターを抱えていて、ちょこっと弾いて歌ってみせるので、気に入った。

この頃には高見沢俊彦はもう長髪の宝塚女子って雰囲気で、面白い人だなくらいだったのだが、新聞で『音叉』という小説を書いたのを知って、多才だなと感心したものだ。

とにかく音楽業界の一線をこれほど長期に走っているバンドも少ないので、これからも活躍してほしいし、高見沢俊彦の他の小説も読んでみようかなと思っている。

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『日本文学盛衰史』

2020年09月18日 | 作家タ行
高橋源一郎『日本文学盛衰史』(講談社、2001年9

明治時代の文学者たちによる、言文一致体を獲得するための格闘や、大逆事件によって幸徳秋水たちが死刑に処せられた明治44年(1911年)という明治末期の「閉塞された状況」についての石川啄木たちの格闘を軽妙な文体や重厚な文体で描き分けた小説。

私には二葉亭四迷が『浮雲』やその他で言文一致体を獲得することに絶望していた様子が、もう少し具体的な格闘の中身まで描いてくれるとよかったのにと残念だ。

また高橋源一郎自身が経験したらしい胃潰瘍によるタール便と一時的危機的状態を自分の胃カメラ写真まで使って書いたところも、かつて私もタール便を経験したことがあるので(高橋ほどの重症ではなかったけど)興味深かった。

そして何と言っても一番興味深かったのは、漱石の『こころ』の謎の解読のところだった。『こころ』解釈本はいくつか読んだことがあるが、はやり時代との関係をここまで追求したものはなかったと思う。啄木の「時代閉塞の現状」と関わらせて、自らが啄木に依頼して書かせたにも関わらず、またその内容を決して否定的に見ていたのではなく、自らも賛同していたにも関わらず、朝日新聞には掲載できなかったことをその契機として『こころ』が生まれたという推理はかなり説得力がある。

そしてこの本の圧巻は、小説風に書かれた朝日新聞社の大浴場での啄木と漱石の会話である。

「違います。わたしが不正義といったのは、社会正義が行なわれていないという意味ではありません。幸徳はただ書いたのです。彼は空想しただけです。彼はなににも参加していません。だから、なんびとも彼を罰することはできない。彼の空想をもって、彼を言葉でもって裁くことはできない。わたしは社会主義のことをいっているのではありません。幸徳は、書いたがゆえに処刑されたのです。わたしはもう、先生にお渡ししたあの論文のことなんかどうでもいいと思っています。でも、幸徳たちの処刑を許すことはできない。そのことは書かれればならない。想像力を罰することはできない。先生はそのことを書ける場所にいらっしゃる。なのに、先生はなにも書かず、なにもおっしゃらないのですね」(472頁)

こう問い詰める啄木に漱石は「いままでと同じように書く」という「俗物のような言葉」しか返さなかった。それが漱石を苦しめ、『こころ』の「私」の自殺の原因であったという推理なのだ。たぶん決して検証されることができない推理なのだろうけど、実に興味深い。

これだけでもこの本を読んでよかったと思う。

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『ゆゆのつづき』

2020年04月27日 | 作家タ行
高楼方子『ゆゆのつづき』(理論社、2019年)

うちのトイレにカミさんが読みかけの雑誌を置いていて、トイレのときにたまたま手にとって見たところにこの本の書評があった。

新型コロナの影響で、図書館で本を借りれない状況がなかったら、決して読むことがなかった本だ。だって、わざわざ古書のサイトでこれを見つけて買うなんて、普通ならありえないことだから。

57歳の由由(ゆゆ)は翻訳家をしている。たぶん住んでいるのは函館だろう。坂の上の家から海が見える。市電がある。龍彦さんは暑い東京を避けてやってきてひと夏を過ごすことになる、というのだから。町の風景の描写がなかなか素敵だ。

私も函館には二回ほど行ったことがあるがいいところだと思う。この函館を舞台に、由由が11歳の時の夏休みに経験したことを思い出し、その時に一度だけ会った「たつひこ」さんとの思い出を、46年後の夏に「龍彦」さんに「再会」して、当時の自分の恋心を生き直すという話である。

やはり少年と少女の違いなんだろうか。あるいは単に私の感性がにぶいだけのことなのだろうか。私にも少年時代のいろんな思い出がある。今から思い出しても不思議な気持ちになる思い出とか、あの頃に帰りたくなるような思い出とか。11歳といえば、小学校の4年生か5年生だろうか。でもこんな風にその続きを生き直してみたいというような思い出ではない。

それにしてもデュラス(フランス人女性作家)といい、ランパル(フランス人フルーティスト)といい、似たような時代を生きてきた同世代の人だということはわかる。

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『遙な町へ』

2018年07月25日 | 作家タ行
谷口ジロー『遙な町へ』(小学館、2005年)

東京でデザイン会社を営む中原博史は48才、妻と二人の娘がいる。京都に出張した帰りの日、疲れからか東京行きの新幹線のかわりに、自分の故郷の倉吉行きの「スーパーはくと」に乗っているのに気づく。

そのまま倉吉まで行き、生まれ育った家の前まで行くが、そこはもう誰も住んでいない。48才で亡くなった母の墓に行くと突然睡魔に襲われて倒れてしまう。

そして目覚めたら、意識は48才のままの自分だが、体だけが14才(中学生)の自分に戻っていた。夢の中で14才の4月から、父が失踪する8月30日までを、回想する、というか生き直すというか、そういう不思議な体験をすることになる。

倉吉といえば、私が子供の頃、私の叔母の家族が住んでおり、2つ年下の従妹もいたことから、時々祖母に連れられて遊びに行った町だ。その子も夏休みに私の田舎に遊びに来たりして、一緒に夏祭りを楽しんだ思い出もある。

最近も上さんと倉吉の白壁に地区を歩いたりもした。そういうところが舞台になっているし、時代的にも私の子ども時代と同じなので、懐かしい思いを感じながら読んだ。

結局、博史が父を引き留めようとした時に父がいろいろ思いを話すし、それを聞いた母もよく15年も我慢してくれたと感謝の気持ちを口にするが、博史の父が家族を捨てて出奔する理由は明かされない。そんなもんだろうか、と私は不思議に思う。家族を捨ててまでしたいことがあったとは思われないのに。

中年の男がたいていは遭遇する少年時代の思い出への郷愁が、この作品の肝のような気がする。

谷口ジローはフランスのシュヴァリエ賞を受賞したほどの漫画家で、一度読んでみたいと思っていた。念願達成。

『共食い』

2015年10月30日 | 作家タ行
田中慎弥『共食い』(集英社、2012年)

平成23年度の芥川賞を受賞した作品である。図書館に返却に行ったら、見つけた。ちょっと出だしを読んでみると、すーと頭に入ってくる。こなれたいい文章だったので、借りてきた。私は小説については、出だしを読んでみて、すーと頭に入ってこないようなものは、まず読み続けることはしない。

高校生なのに同級生の千種とセックスに明け暮れ、毎日それしか考えていない遠馬。彼の父親はセックスの時に妻の仁子を殴ったことから、仁子は離婚して、近くで魚屋をやって暮らしている。今は琴子が父親の妻になっている。最近妊娠したことから、琴子も家を出るつもりにしている。

琴子がいなくなった祭りの日、父親は社にいた千種を強姦する。遠馬は父親殺しを決意するが、それを聞いてもっと早くに私がなんとかしなければならなかったと呟く仁子が先に遠馬の父を殺してしまう。

このいかにも昭和、昭和した世界は何なのだろう。セックス中に相手を殴ることで快感をえる父親、父親に彼女を奪われた息子、父親殺しのテーマ。頻繁に描かれる川のゴミ溜めのような世界は、この作品世界を象徴している。

潮が引くと見えてくる醜い世界こそ、真実の世界だと言わんばかりの作品だ。まるで「波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬくいが黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立っていた」という描写によって死というものの真実を象徴的に表そうとした安岡章太郎の『海辺の光景』の最後の部分とそっくりではないか。

この意味でも、この小説は昭和時代の、戦後文学の世界の再現以外の何ものでもない。

『八朔の雪』

2012年06月02日 | 作家タ行
高田郁『八朔の雪』(ハルキ文庫、2009年)

FUJI XEROXが発行しているGRAPHICATIONという雑誌がある。GRAPHICATIONというのはGraphic communicationをもとにした合成語で、イメージによって情報を伝達する方法を総称した言葉らしい。

そのとおり、読み物が主体とはいえ、写真やイラストが多数挿入されており、読みやすい。毎号特集があり、最新号の180号は干潟や湿原が取り上げられている。もちろん連載ものもあって、そのなかで知らず知らずに読んでは面白いなと思っているものに、高橋敏夫という人の「時代小説のなかの現代」という連載である。

前回は少し前に直木賞をとった葉室麟の『蜩ノ記』を取り上げて、その決定的な弱点をついていた。180号には高田郁の「みをつくし料理帖シリーズ」の最新号の『夏天の虹』が取り上げられて、絶賛されている。それで読んでみようという気になって、このシリーズの最初の作品である『八朔の雪』を読んでみた。

時は江戸時代。澪は5・6歳の頃に、大坂を襲った大水で両親を亡くし、さまよっているところを助けてくれた天満一兆庵のご遼さん芳の計らいで、この料理屋に奉公に入ることになる。これからという矢先に今度はこの天満一兆庵がもらい火で消失し、主人もその後になくなり、ご遼さんと二人で江戸に出てきて、蕎麦屋の「つる家」で手伝いをしている。作品は、澪が周りの人々との関わりのなかから創りだした庶民的な料理にまつわる話を春は「ぴりから鰹田麩」、夏は「ひんやり心太」、秋は「とろとろ茶碗蒸し」、冬は「ほっこり酒粕汁」と季節に絡ませて、綴っている。

前述の高橋がいたく賞賛するのは、この主人公の澪の、まっすぐで、弱いもの視点の生き方であり、食べることでは誰もが同じという料理をステージに「弱い者の民主主義」が生起するというところである。

子供の頃に、人生に苦労が絶えず艱難辛苦が次々襲ってくる相を持っているといわれた澪に、そのとおり、次々と難題が振りかかる。この小説では、江戸の名料理店の「登龍楼」が澪の料理の人気を妬んで、邪魔立てをしてくる。ついには家まで焼かれて、店じまいをしなければならないような事態にまでなるのだが、…。だが澪の雲外蒼天というのは、艱難辛苦を乗り越えた後には真っ青な空が見えるというものでもあるという希望がある。

澪の性格は、澪を応援している小松原が澪をからかいながら言う、まさに「下がり眉」なのだ。優しさと芯の強さで生きている庶民の世界を描く、の王道を行っている作品だ。評者の高橋によると、若い女性たちに人気で、このシリーズの前作が出た時には累計で150万部も売っているらしい。

『ヒルクライマー』

2010年06月16日 | 作家タ行
高千穂遙『ヒルクライマー』(小学館、2009年)

ロードバイクでも見ごたえもあるし、やりがいもあるのは、やはりヒルクライムだと思う。たとえばツール・ド・フランスのデュエーズ峠への登りでもうみんなが疲れきって意識朦朧状態で上がっている側を、まるで平地を走るみたいに、ダンシングでぐいぐいと追い越していくランス・アームストロングの姿やマルコ・パンターニのつるつる頭姿は、本当にかっこいい。

私自身も、ロードバイクを始めてからまら2年にならないし、平地ではどんなにがんばってみても40Kmくらいしか出せないけれど、ヒルクライムなら、どんなにゆっくりでもとにかく諦めなかったら上がれるし、また峠についたときの達成感がたまらない。もちろんどんな急斜面でもくるくると快適に回して上がる人を見ると不思議でならないが、それはそれでまた面白い。

私はこの小説のように、仕事以外のすべてをヒルクライムに捧げてなんてことはするつもりもないけど、住んでいる場所が1時間も走ると山になってしまうから、どうしてもヒルクライムになってしまうということもあれば、平地を走っていても面白くないということもある。ここで何度も書いたが、まさか自転車で金剛山のロープウェー下まで行けるなんてことは、金剛登山に行きだしてもう20年か30年になるけど考えてもみなかった。遠くに行くのも面白いだろうけど、私にとっては1時間くらいでヒルクライムをして帰ってくるというのが、手軽で面白いロードバイクの楽しみ方として一番合っていると思う。まぁ人それぞれだから。

『三銃士』

2009年03月24日 | 作家タ行
アレクサンドル・デュマ『三銃士』(岩波文庫)

佐藤賢一の『褐色の文豪』を読んだことで、またデュマにたいする興味がわいて『三銃士』を読んでみた。以前読んだのは子どもの頃に子ども向けにリライトしたものだったので、原作を翻訳したものはこれが初めて。もっと波乱万丈の出来事が次から次へとでて来るのかと思ったら、意外にそうでもなかった。

文庫本の上巻にあたる前半部は、まずダルタニャンと三銃士の出会いという形でこれらの主人公たちを紹介する部分があって、それがルイ13世の宮廷内でのルイ13世とトレヴィル殿にたいする枢機卿リシュリューの対立として描かれているのは興味深かった。

前半のメインは、王妃アンヌとイギリスのバッキンガム公との恋愛がらみの出来事だ。王妃アンヌにほれ込んでしまったバッキンガム公がやっとの思いで王妃と会うことができたとき、王妃が記念にダイヤモンドが12個もついた飾り紐をバッキンガム公に贈るのだが、それはルイ13世が王妃のために贈ったもので、それを知った枢機卿リシュリューがパーティーを開催して王妃にその飾り紐をつけて参加するように王から提案させる。困った王妃は侍女のモナシュー夫人に相談すると彼女がダルタニャンにバッキンガム公から返してもらってくるように働きかける。ロンドンまで行くダルタニャンと三銃士とそれを阻止せんとする枢機卿側の策謀ははらはらどきどきがなくもないではなかった。

1844年に『三銃士』は書かれ、新聞に連載された。まったく無名の男が王位を簒奪したナポレオンの帝政期をへて、大地主の利益に依拠した王政復古期、そして1830年の7月革命によってルイ・フィリップによる立憲王政期にあった。これらの時代は、いわばまったく無権利だったブルジョワジーが経済力をつけ、王政をフランス革命によって倒したが、そのまま自分たちの権力へは直結せず、そのあらぶるエネルギーを暴力的に発散していた時代であるといっていい。そういった秩序とか安定などをぶち壊してまで、自分の信ずるところを猪突猛進する人間形象が、『三銃士』のダルタニャンであり、三銃士たちであるといえるのではないだろうか。

ルイ14世統治下のがっちりと秩序と序列が決まった、息の詰まるような時代になる前の、まだおおらかな時代というのは実際そうだったのだろう。しかしだんだんと真綿で首を絞められるように、あれはするなこれは礼儀に反すると秩序という名によって自由な行動が狭められていくのを感じながら、大暴れするダルタニャンに、せっかく革命を起こして王政を転覆して自分たちの時代が来たと思っていたのに、思うに任せない新興ブルジョワジーのエネルギーの発露を描いたものであったればこそ、19世紀の前半にデュマの小説がたいへんな人気を博したのだろうと思う。

こう考えれば、デュマ自身があまりルイ13世統治下のフランスのことを熟知していたわけではなかったこともあり、この時代のことがそれほど綿密に描かれていない理由もうなずけるのだが、もう少しこの時代のことを知りたかった私としては不満が残った。

『オリンポスの果実』

2009年01月28日 | 作家タ行
田中英光『オリンポスの果実』(新潮文庫、1951年)

田中英光なんていってもほとんど知る人などいない、忘れられた作家だろう。1913年東京生まれで、早稲田大学在学中に1932年のロサンゼルス・オリンピックにボート(エイト)選手として出場したが、予選で敗退した。大学を卒業して横浜ゴムに就職し、日本統治時代に京城と呼ばれていた現在のソウルに派遣され、そこで朝鮮人文学者との交友が生まれる。1940年、ロサンゼルス・オリンピックに出場したときの経験をモチーフにして書いた『オリンポスの果実』を文学界に発表し第7回池谷信三郎賞を受賞する。終戦前に静岡に引き上げ、終戦後太宰治の自殺に衝撃を受けて薬物中毒になり、49年に太宰の墓前で、睡眠薬服用の上、手首を切り自殺した。太宰に師事し彼と同じように同棲をしたり薬物中毒になったりして「無頼派」と呼ばれる。

40年に『オリンポスの果実』で新人作家として認められてから49年に自殺する10年弱のあいだしか作家生活がないわけだが、一応11巻を数える全集が出ているので、けっこうな量を書いていることになるが、『オリンポスの果実』でしか知られていない、というか、このしょうせつだってほとんど知られていないに等しいだろう。私が知っているのは、高校生のときに同じくボートをやっていたので、部員の一人がこんな小説があると教えてくれたからだった。この前の朝日新聞の日曜版に電子化された小説を読むためのソフトの紹介があり、そのなかに電子化された小説の一つとしてこの小説のタイトルを見て、急に懐かしくなって、図書館で借りてきたのだ。

ボートの練習とか試合の場面というのはほとんどない。全編、選手団で日本を出帆してハワイに寄航したあとロスに着き、そこでの歓迎会や自由時間に観光して、日本にもどってくるという経験のなかで、選手団の一人でハイジャンプの選手であった熊本秋子を好きになって、彼女とのやりとりやら同僚選手からのさまざまな冷やかしなどのなかで感じたことが、まるで高校生か大学生の日記のごとくに綴られている。本人は同僚選手たちから体ばかり大きくて(当時の日本人としては大柄な180センチくらいあったようだ)技術のともなわないと馬鹿にされていると思っていたようだが、その純真な性格からきっとみんなから親しみを感じ愛されていたのにちがいない。新潮文庫版の解説を書いている河上徹太郎は当時の「文学界」の編集長で彼がこの小説の掲載を決めたようだが、その解説を読んでもどうしようもないぼんぼんだけど憎めない奴みたいな愛情が感じられる。

高校生だった私たちにも、自分たちが夢中になっているボートという、一般にはマイナーで、オリンピックのテレビ番組にも出てくることがないスポーツが舞台になっているだけでなく、それこそ当時の高校生が体験するような淡い恋心のようなものが描かれている小説として、まるで自分たちの心情が小説になっているというような気持ちになったのだろう。私だって他のクラスに好きな子がいても、とても声をかけることなんかできず、遠くから見ているだけみたいなものだったので、主人公の気持ちに共感できたのだろう。この年になってみると、大学生にもなってまるで高校生の馬鹿騒ぎだなと醒めたところがあるのは当然だろう。

テレビでボートの試合が放送されることはまずないので、オリンピックのボートレースなどを見たことはないが、なぜか私には外国人のボート選手がシングルススカルを片方の肩に担ぎ、もう片方の手に恋人(あるいは妻)をつれて練習場を歩いているというイメージがあり、どうしてかなと思っていたら、まったくそれと同じ情景がこの小説に描かれていることが分った。なるほどこの小説を読んだことで、そんなイメージが出来上がっていたんだなと納得。やっぱわずかなページ数の描写でもボートに関わる部分は強烈に残っていたんだね。

田中英光を紹介しているサイト(作家などの回想文が掲載されている)

『ウルトラ・ダラー』

2008年11月03日 | 作家タ行
手嶋龍一『ウルトラ・ダラー』(新潮社、2006年)

北朝鮮による100ドル紙幣偽造とそれを追うアメリカのシークレットサービスや日本の政府関係者のスパイ映画もどきのやりとりを、日本で稀有なインテリジェンスの人といわれる、元NHKワシントン特派員の手嶋龍一が小説化したもの。「わが国に初めて誕生したインテリジェンス小説」と書かれている。解説も、少し前に対談をした相手の、佐藤優が書いている。

私のような国際政治オンチにはどこがすごいのだかよく分からないが、出てくる登場人物はみんなスマートでかっこよくて、言葉というもののもつ機微を裏の裏まで理解しており(つまり言葉の魔術師のようでもあり)、その上に国家情報の要職にある。たぶん読むべき人が読んだら、BBCのジャーナリストのスティーヴンと太平洋州局長の瀧澤や官房副長官の高遠などとのやりとりがいかにすごいかということがわかるのだろうが、私には普通の会話にしか見えないのが残念だ。

北朝鮮が100ドル紙幣の偽造をしているとか、外貨獲得のために大麻を栽培して大量に外国で売りさばいているとかというのはよく知られた話だ。そのために、日本から腕のいい若い印刷工やハイテクのエンジニアを拉致したり懐柔したりして協力させているというのは事実なのかどうかは知らない。ただ、東アジア政治における中国がとくに台湾海峡問題においてアメリカおよび日本にたいして優位に立つために北朝鮮を利用しているらしい、つまり北朝鮮にウクライナが巡航ミサイルを影で売却するのを手助けすることで、北朝鮮が日本を核威力でにらみをきかせることを期待しているということは、ありそうな話だ。

手嶋龍一でしか書けない部分がなにか見えてこなかった(たぶん私がなにも知らないから)のは残念だ。