『バベル』(2006年)
北アフリカのモロッコの荒涼とした土地(明らかにアフガニスタンとかイラン・イラクのテロリスト達が跳梁させる地域をイメージさせる)に住む貧しい一家の主が同じような羊飼いの主からライフルを買う。子供たちにそれをもたせて羊を襲うジャッカルをやっつけるためだ。試し打ちしているうちに、弟のほうが打った弾が通りかかった欧米人たちのツアーバスにあたり、ケイト・ブランシェットの肩を打ち抜いてしまう。通訳の若者が自分の村にバスを誘導して治療にあたらせるとともに救急車を呼ぶがなかなか来ない。そのあいだにバスに乗っていた欧米の旅行者たちが怒り出し、ブラッド・ピットとけんかになる。しかし彼らは立去ってしまう。やっと赤十字のヘリがやってきてケイトを大きな町の病院に運び、緊急手術が施され、一命を取り留める。
ケイトが病院に収容されて多少とも落ちつたブラッドは子どもたちのいるアメリカの自宅に電話する。その日は代わりのベビーシッターが来るはずだったのにこれなくなる。アメリアはその日に息子の結婚式がメキシコで行われるので出席すると告げていたのだ。結局代わりが見つからず、ブラッドに電話で押し切られる。アメリアは仕方なくブラッドの子どもたちを連れてメキシコの結婚式に出かける。アメリアの甥が車で連れて行ってくれるのだが、子供たちは何も知らない。結婚式も終わりその日のうちに帰ってくるために飲酒運転の甥の車にのって深夜の国境を越えようとするが、白人の子どもを乗せているために怪しまれ、尋問される。甥は警備員を振り切りアメリカ側に入るが、パトカーが追ってきたので、アメリアと子供たちを下ろして、行ってしまう。翌朝、荒涼とした平原に残された三人。アメリアは救助してくれる車を探しに出かけるが、警察に連行されて戻ってみると、二人の子どもたちがいない。やっと見つかるが、アメリアは不法就労を咎められ強制送還されることに。いくら事情を話しても理解してもらえない。
東京の見晴らしのいい高層マンションに住む美保は聾唖者。ただそれだけでなく、他人とのコミュニケーションが取れないことに苛立つ。すぐ喧嘩腰の物言いになる。性によってコミュニケーションを取ろうとするが、父親のことを話したいと呼び寄せた刑事にも拒否され、絶望的になる。
この映画の主題はなんなのだろうかと考える。コミュニケーションの不可能性?菊地凛子ふんする聾唖の美保を見ている限りでは、そうなのかなと思う。人を見かけで判断する人たち、そしてそれが裏切られたときに怪物でも見るように態度を変える人たち、コミュニケーションによってそうしたずれを乗り越えようとする努力は存在しないことへの苛立ち。何のために言葉があるのか?というのが凛子の心の叫びだろう。
だが言語が違えばなにも理解されない。なぜ何百何千もの言語があって、相互の意思疎通を不可能にしているのか?言語は何のためにあるのかという苛立ちがブラッドの叫びだろう。なんとも絶望感漂う映画だ。いまの世界情勢を反映していると言ってもいい。
北アフリカのモロッコの荒涼とした土地(明らかにアフガニスタンとかイラン・イラクのテロリスト達が跳梁させる地域をイメージさせる)に住む貧しい一家の主が同じような羊飼いの主からライフルを買う。子供たちにそれをもたせて羊を襲うジャッカルをやっつけるためだ。試し打ちしているうちに、弟のほうが打った弾が通りかかった欧米人たちのツアーバスにあたり、ケイト・ブランシェットの肩を打ち抜いてしまう。通訳の若者が自分の村にバスを誘導して治療にあたらせるとともに救急車を呼ぶがなかなか来ない。そのあいだにバスに乗っていた欧米の旅行者たちが怒り出し、ブラッド・ピットとけんかになる。しかし彼らは立去ってしまう。やっと赤十字のヘリがやってきてケイトを大きな町の病院に運び、緊急手術が施され、一命を取り留める。
ケイトが病院に収容されて多少とも落ちつたブラッドは子どもたちのいるアメリカの自宅に電話する。その日は代わりのベビーシッターが来るはずだったのにこれなくなる。アメリアはその日に息子の結婚式がメキシコで行われるので出席すると告げていたのだ。結局代わりが見つからず、ブラッドに電話で押し切られる。アメリアは仕方なくブラッドの子どもたちを連れてメキシコの結婚式に出かける。アメリアの甥が車で連れて行ってくれるのだが、子供たちは何も知らない。結婚式も終わりその日のうちに帰ってくるために飲酒運転の甥の車にのって深夜の国境を越えようとするが、白人の子どもを乗せているために怪しまれ、尋問される。甥は警備員を振り切りアメリカ側に入るが、パトカーが追ってきたので、アメリアと子供たちを下ろして、行ってしまう。翌朝、荒涼とした平原に残された三人。アメリアは救助してくれる車を探しに出かけるが、警察に連行されて戻ってみると、二人の子どもたちがいない。やっと見つかるが、アメリアは不法就労を咎められ強制送還されることに。いくら事情を話しても理解してもらえない。
東京の見晴らしのいい高層マンションに住む美保は聾唖者。ただそれだけでなく、他人とのコミュニケーションが取れないことに苛立つ。すぐ喧嘩腰の物言いになる。性によってコミュニケーションを取ろうとするが、父親のことを話したいと呼び寄せた刑事にも拒否され、絶望的になる。
この映画の主題はなんなのだろうかと考える。コミュニケーションの不可能性?菊地凛子ふんする聾唖の美保を見ている限りでは、そうなのかなと思う。人を見かけで判断する人たち、そしてそれが裏切られたときに怪物でも見るように態度を変える人たち、コミュニケーションによってそうしたずれを乗り越えようとする努力は存在しないことへの苛立ち。何のために言葉があるのか?というのが凛子の心の叫びだろう。
だが言語が違えばなにも理解されない。なぜ何百何千もの言語があって、相互の意思疎通を不可能にしているのか?言語は何のためにあるのかという苛立ちがブラッドの叫びだろう。なんとも絶望感漂う映画だ。いまの世界情勢を反映していると言ってもいい。