読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『お金がなくても平気なフランス人』

2016年07月30日 | 評論
吉村葉子『お金がなくても平気なフランス人』(双葉社、2003年)

『フランス人は太らない』だとか『フランス人は10着しか服を持たない』とか『フランスの赤ちゃんは夜泣きをしない』といった、フランス人をリスペクトした本が最近良く出ている。この本はそうした系列の本の走りのようだ。

ファッションの国、ヴィトンやエルメスなど、パリジェンヌの生き方など、フランス人はファッションやヴァカンスなどにお金をかけている国民と日本人から思われているようだが、そんなことはないですよ、フランス人は堅実で、人間づきあいにしても物やお金のやり取りで済ませるような国民ではなくて、お喋りをとおして人間関係を大事にする国民ですよということを教えてくれる本である。

お金の使い方
日本ほど、いかにしてお金を使わせようと頭をひねっている国はない、ということはよく言われる。とにかくお金がなかったら楽しめない国が日本だ。だから、田舎暮らしでお金を使わないような生活をしている人が紹介されていたりすると、けちくさい、しみったれた人みたいに思ってしまう。

香典、お祝い金、冠婚葬祭にお金のやり取りをする国民も珍しい。その香典やお祝い金でまたそのお返しをするのだから、最初から、そんなもの貰わなければいいのにと思う。フランス人は意味のない出費は一切しないという。合理的にできているのだ。

服でもバッグでも、欲しいから買うのではない、自分の身の丈にあったものだけ、必要なものだけを買うのだという。

でも週一あるいは月一の、夫婦水入らずで、レストランでの食事みたいなものにはちょっとお金を掛けるのだろう。

人間関係
自宅に招待したり、招待されたりすることが、信頼の証。成人したら家を出て自立する、そしてパートナーができたら、親しい人たちを自宅に招待することで一人前になったことを示すのだという。そのパーティーもたいていは立食形式の、ざっくばらんな、フレンドリーなもの。

日本のように、主婦が料理作りに忙しくて、ホステスとしての役割を果たせないというようなことはけっしてない。場合によっては、招待された人たちが飲み物や簡単なツマミやデザートを持参してくれる。とにかくお喋りで相手を知ることが一番の目的。日本のように、豪華な料理を振る舞うことが礼儀というようなものではない。

でも、この本の冒頭にも書いてあった。フランス好きのフランス人嫌いがいるという。私なんかさしずめこれだな。

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プー太郎している私

2016年07月29日 | 日々の雑感
プー太郎している私

やっと仕事も一段落した。急に思い立って昨年から書き始めた第三著作のほうも、昨年の夏と今年の春休みに作り上げた書下ろし部分と、これまですでに紀要などに発表してあった論文をまとめて一つにする作業も、この春から何度も何度も書き直しを行ってやっと、形になった。欲を言えば、あと一章欲しいところだが、もう体力も気力も集中力も減衰して、とても書き通せるような状態にはないので、やめにした。もうこれでいい。

あとは出版してくれる出版社を探すだけだと、いくつか候補を挙げてみたものの、この出版不況にどこの出版社が企画物として出してくれるものかと、現実を見つめなおして、三度自費出版にすることにした。現在その見積もりを作ってもらっているところなので、私のほうでは、何度も読み返して細かい修正をするばかり。

その上、体はあちこちにガタが来て、本当なら、一つ一つ修復をしていくべきなのだろうが、それができない。とにかく解決を先送りにするしかなく、QOLを下げないためには、そうするほかない。でもまた別のところに問題が発生。今は休みだから、いくらでも病院通いできるという強みがあるとはいえ、気持ちはもう落ちまくり。ただ、ただプー太郎して過ごす毎日。

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『カミュを読む 評伝と全作品』

2016年07月22日 | 人文科学系
三野博司『カミュを読む 評伝と全作品』(大修館書店、2016年)

奈良女子大学の三野さんのカミュ読本が出版された。最近はサン=テグジュペリ関係の本ばかり出しているように思っていたので、もうカミュは卒業したのかなと思っていたのだが、日本でカミュ研究者ということで言えば、この人をおいて他にはいないようだ。

まえがきなどを読むと、2013年はカミュ生誕100年の年で、フランスやヨーロッパではさまざまなイベントがあったようだが、日本では新聞記事さえあったかどうか、というほど忘れ去られてしまった。

三野さんも書いているが、日本でのカミュ人気は新潮社の『カミュ全集』が出版された1970年代初めがピークだったというから、1974年に大学の仏文科に入って、卒論にカミュの『異邦人』を取り上げた私は、まさに流行に乗っかっていたのだということが、いやというほどよく分かる。自分はいつも遅れてきた人と思っていた私だが、意外と流行に乗っていたのだね。

私にとってカミュの魅力は初期作品とくに『裏と表』で詩情豊かに描かれるアルジェリアの地中海世界に生きる若者の、死を見つめた、生にたいする官能的な世界と『異邦人』につきる。これらで描かれる無関心の世界、本当は生に対する執着があるのだが、死を宣告されたために、無関心を装っている、その態度が、世俗の煩わしさを拒否して、自分にとって大事なもののためだけに生きていこうとする、世間知らずの若者には魅力的だったのだと思う。

日本の太宰治のような、青春の一過性の病気のようなものだと言ったら、言い過ぎだろうか。だから、いずれは忘れ去られてしまうものだと思う。その意味で、中期から後期の作品は私にはつらすぎる。そしてその中途半端に見える政治的態度がまた若者を遠ざける原因ともなる。もちろんそうしたカミュの中での変化は、『コンバ』の編集長として正義を振りかざして対独協力者に断罪を下していた自分のせいで死刑執行を受ける人間を出してしまったという反省から、正義は必ずしも正義とは限らないというどっちつかずの態度に変わった経緯によって説明されるのだが。(西永良成の『評伝アルベール・カミュ』がそれを明らかにしたことは有名。)

社会主義諸国の崩壊によって正義などというものはないということが現実になってきた時代において、だからといってカミュの政治的態度が注目を集めるのかというと難しいところだと思う。



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