読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「葦と百合」

2006年10月06日 | 作家ア行
奥泉光『葦と百合』(集英社、1991年)

雛本教授のもとで哲学を研究する「ぼく」、中山、佐川、そして途中で医学部に入りなおして春から病院勤務医となる式根の四人が雛本教授が買った飯豊温泉の別荘に行く所から物語は始まり、途中の小国で一人分かれて、かつて自分も一夏を過ごしたことがある「葦の会」の農場を訪れる予定の式根が遭遇する不可思議な体験を書きとめた物語である。

式根は学生時代に、恋人だった鴻之池翔子と、自給自足のコミューンを形成していた「葦の会」に参加したが、翔子はそこで時宗という男を愛するようになりそのままコミューンに残った。その後、このコミューンが新潟の小国の山中に移ったことを葉書で知ったが、式根は行くこともなかったのだが、いま自分が結婚を前にして、気持ちの清算のために訪れようとしている。鬼音という集落に着いてコミューンを探しているうちに出会った草壁というカメラマンの勧めで、この集落の主のような岩館家の屋敷に泊めてもらうことになる。そこでこの家の高校教師の直也や親戚の大学生の衛藤有紀子からこの村に残る言い伝えや「葦の会」のことなどを聞く。そして彼らの勧めで次の日には長者岩に登るとともに、かつて「葦の会」があったところに残る建物で一夜を過ごすことになる。だがその夜に式根は時宗の亡霊に出会い、次の朝には草壁が長者岩から転落して死ぬというような事件が起こり、彼も毒キノコにあたって入院することになる。雛本教授の別荘からやってきた中山や佐川とともに長者岩の隠れ洞穴を調査することになり、そこにはいってみると白骨化した人間の死体が発見されることになる。最後は、この作者特有の、現実と幻想の融合した、訳のわからない描写によって、はたして何が現実だったのかと思わせるところで物語は終わる。

あらすじをまとめるのはすごく難しい。それよりも「葦の会」という自給自足をめざすコミューンというものについての議論とか、草壁が披瀝する絵描きとしての自分の堕落の姿などが、社会と人間の関わりや、芸術の価値はなにかという問題についての興味深い議論を喚起する点で、面白かった。

コミューンの議論にあったように、どんなレベルの社会でも、分業なしには成立しない。全ての一から作り出す、自給するということは不可能なのだ。かならず否定した社会との交換が必要になる。つまり資本主義社会を否定しても、けっしてそんな社会から自律することはできない。つまり社会を否定することは、そこから抜け出ることを意味しない。むかしよく言われたことがある。資本主義社会を批判するなら、日本から出て行って他の国の国民になればいいじゃないかという議論。これは批判者を批判するための議論だが、このコミューンは自分から出て行って自給自足の社会を作ろうというもの。だが、それは不可能だ。要するに、今住んでいる社会を否定することは、そこから出て行くことを意味しない。社会のありようを変える道しかない。むかしそんなような議論を戦わしたことを思いだしながら読んだ。

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