五木寛之『音楽小説名作集』(東京書籍、2023年)
いろんなジャンルの名作を集めたシリーズもので、音楽小説が集めてあるというので借りてみた。『さらばモスクワ愚連隊』、『海を見ていたジョニー』、『老兵たちの合唱』、『われはうたへど』、『帝国陸軍喇叭集』、『暗いはしけ』が収録されている。
五木寛之といえば、私には映画になった大竹しのぶの「シンシュケしゃん」で有名な『青春の門』の原作者で、ほとんど歯磨きをしないだの、髪の毛を洗わないだのという逸話(嘘か真か知らんけど)の小説家で、さすがに『さらばモスクワ愚連隊」だけはタイトルだけでも知っていたので、一度は読んでみたいなと思っていた。
音楽関係とくにジャズの仕事をしていたというのはまったく知らなかったが、なんか『かもめのジョナサン』という翻訳本の大ヒットといい、『青春の門』の映画化といい、なんかもう流行作家の象徴みたいなものという世間的な見方が邪魔して、あまり作品の世界に入っていけない。
もちろん巻末にある対談でも話していたが、「十年後には忘れられているような小説」を書きたいというのが五木寛之の考えであったという。つまりそれだけ時代に棹さした、時代の刻印を受けた作品を書きたいということなのだろう。
もちろん作品が時代を超えた価値を持つということはある。古典と言われるような作品がそうだが、そういう作品であっても、書かれた時代に作品を置き直して読み返すことが重要ということは、研究の分野であっても、しょっちゅう言われることだ。
ましてや「十年後には忘れられているような小説」というのなら、そういう読み方が必須なはずで、おそらく『さらばモスクワ愚連隊』だって、これが書かれた冷戦時代の米ソや日ソの状況に置き直して読まなければ、この作品の価値は浮かび上がってこないだろう。
私がこれらの作品にあまり感慨を抱かないのもそういうことが原因なのかもしれない。それに短編というはとくにそうした時代の刻印を受けているにもかかわらず、長編と違って、作品にしっかりと書き込まれるということがない、ごくわずかの言葉や言い回しにそれが刻まれているので、読み手にもそうとうの知識が必要とされる。
まぁそういうわけで、名前だけは知っているが、読んだことがないという「名作」を読んでみたという感想である。
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いろんなジャンルの名作を集めたシリーズもので、音楽小説が集めてあるというので借りてみた。『さらばモスクワ愚連隊』、『海を見ていたジョニー』、『老兵たちの合唱』、『われはうたへど』、『帝国陸軍喇叭集』、『暗いはしけ』が収録されている。
五木寛之といえば、私には映画になった大竹しのぶの「シンシュケしゃん」で有名な『青春の門』の原作者で、ほとんど歯磨きをしないだの、髪の毛を洗わないだのという逸話(嘘か真か知らんけど)の小説家で、さすがに『さらばモスクワ愚連隊」だけはタイトルだけでも知っていたので、一度は読んでみたいなと思っていた。
音楽関係とくにジャズの仕事をしていたというのはまったく知らなかったが、なんか『かもめのジョナサン』という翻訳本の大ヒットといい、『青春の門』の映画化といい、なんかもう流行作家の象徴みたいなものという世間的な見方が邪魔して、あまり作品の世界に入っていけない。
もちろん巻末にある対談でも話していたが、「十年後には忘れられているような小説」を書きたいというのが五木寛之の考えであったという。つまりそれだけ時代に棹さした、時代の刻印を受けた作品を書きたいということなのだろう。
もちろん作品が時代を超えた価値を持つということはある。古典と言われるような作品がそうだが、そういう作品であっても、書かれた時代に作品を置き直して読み返すことが重要ということは、研究の分野であっても、しょっちゅう言われることだ。
ましてや「十年後には忘れられているような小説」というのなら、そういう読み方が必須なはずで、おそらく『さらばモスクワ愚連隊』だって、これが書かれた冷戦時代の米ソや日ソの状況に置き直して読まなければ、この作品の価値は浮かび上がってこないだろう。
私がこれらの作品にあまり感慨を抱かないのもそういうことが原因なのかもしれない。それに短編というはとくにそうした時代の刻印を受けているにもかかわらず、長編と違って、作品にしっかりと書き込まれるということがない、ごくわずかの言葉や言い回しにそれが刻まれているので、読み手にもそうとうの知識が必要とされる。
まぁそういうわけで、名前だけは知っているが、読んだことがないという「名作」を読んでみたという感想である。
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