読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「プラトン学園」

2006年10月05日 | 作家ア行
奥泉光『プラトン学園』(講談社、1997年)

9年前になるので、多少古い作品と言わなければならないのだろうが、おそらくインターネットでのパソコン通信が一般的になる頃に、パソコンのなかに構築された仮想現実と現実とのあやうい関係を、小説という言語による世界構築に利用した作品といえる。

小説の世界はあるいみすべてが虚構なので、書かれたことだけが真実となる。逆に言えば、書かれたことは、真実と見なされるということだ。だから、明確な時間的指標なしに書かれると、時間的な前後関係が分からなくなり、AとBがならべられるとA→Bという前後関係は論理関係として読者から認識される。ところがそう思わせておいて、じつは違っていたというような作為をすることも可能なのだが、それはある意味危険と隣り合わせで、読者は混乱してしまって、作品世界の構築を台無しにしてしまいかねないことになる。もちろんそうした混乱を意図して作られることもあるかもしれない。

この小説はそのような種類の小説といえる。いわゆる作品世界の現実と「プラトン学園」というパソコン内のソフト――ヴァーチャルリアリティーによって構築された世界――が最後には、作品世界の現実をなぞるようになると、どちらが現実なのか、木苺は石黒なのか、イシグロがキイチゴなのか、そして木苺なる人物はそもそも存在したのかということ自体が疑わしくなる。結局、小説の最後には、それまで構築されてきたかに見える作品世界が、完全に崩壊して、木苺もプラトン学園も千石聡子も最初から存在しなかった、というか『プラトン学園』という小説そのものが内部で自己崩壊して、ただの文字の羅列にすぎないものになってしまうのである。普通の小説なら、どんなに奇妙奇天烈な登場人物であれ、最後にはなんらかの像を結ぶのだが、この小説では最後に自分で自分の電源を切って、それまで書かれていたものが消滅するように、消滅する。でも紙の上に文字だけは残っている。なんとも、一時期一声を風靡したフランスのヌーヴォーロマンの小説のようである。

紙の上に印刷された言葉は、それ自体では黒い染みであり、インクのかたまりに過ぎない。しかしそれを読むと、読んだ人間の頭のなかに、その言葉からなんらかの人物や情景や行動――つまり作品世界――が形成されてくる。それはそれを読んだ読者の頭のなかにしか存在しない。しかし書かれていることが何でもいいわけではなくて、一定の約束事にのっとって書いてなければ、それは明確な像を結ぶことがない。そしてその像をできるだけ魅力的で明確なものにするために作者はあれこれと努力するのだ。ところがこの小説ではずっと通常の作品上の現実構築のために書かれてきたと思われる部分が、後になるとたんにパソコン上のヴァーチャルリアリティのなかでの出来事ということになる。すると、どこで現実が仮想現実と入れ替わったのか訳がわからなくなり、何が現実で何が仮想現実なのか分からなくなる。結局、作品そのものがたんなるインクの黒い染みにもどってしまうのだ。

これは言葉によって作られる文学というものの自己崩壊だとしか考えられない。もちろんそうすることで文学という虚構のありようをわれわれに見せるということにはそれなりの意味があるのだろうが、はっきり言って、面白くもなんともなかった。

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