仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

不謹慎狩り

2016年04月25日 | 現代の病理
ネット等で「不謹慎狩り」を引き起こしているという。有名人がブログで「自粛します」などと書きもむと「善人ズラするな」とは、逆パターンもあるようです。


自分を正しい場におき、正義の刃で相手を切り捨てる。それは自分の評価を高める、自己高揚という動機に基づく下方比較といっても良いかもしれません。

この下方比較は、自尊感情の低い人ほど行いやすいといわれるので、私を含め現代に生きる多くの人たちの自尊感情が低下しているのかもしれません。

古い本(1967年発行)ですが『偏見の構造―日本人の人種観』(我妻洋・米山俊直著・NHKブックス)に次のようにあります。

自我が未熟な、権威主観的性格に、しばしば認められる、もう一つの特徴は、他人や特定の集団を見下し、その劣等性を軽蔑し.自分の方が優秀なのだという、根拠のない優越感を抱き.これにすがりつくことによって、辛じて自己内心の弱小感や無力感や劣等感をカバーし.補償しようとする傾向である。弱く未熟な自我は、憎しみのフり向けに加えて.しばしば.他人を軽蔑し、さげすむことを必要とする。これが偏見の心理の第二の側面である.
 個人の自信や誇りというものは.本来、自己の能力や実績についての確かな認識や、自分が社会にとって有用な存在であり、仕事を通して社会に貢献している(あるいは将来そうなる)という自覚や将来への見通しや希望や、自己および周囲の人々に対する、愛情とか信頼とか.生命の充実感とかを基礎とし、これに支えられて、個人の内面から湧きでてくるものである.
 しかし.個人が、何らかの不幸な理由によって、しばしば無意識に、根深い弱小感や無力感を持ち.劣等感を抱いているばあい.(即ち.自我が弱く未熟であるばあい)、あるいは.志が挫折して自信を喪失したばあい、個人は、自信や誇りの支えとなるものを、その内面に持たないから、それを外的な因子に求めようとすることがある.例えば、たまたま自分が上流階級や貴族の生れであるという.本人の実力や能力とは無関係のことに.自己の誇りの基礎を置こうとしたり.政治的、あるいは宗教的権威と自己とを同一視し、自分が、自分を越えた強大な権威の一部になったように感じることで.弱小感から逃れようとして.その権威への奉仕に使命感を見出したりする.社会的に不遇な人々が、新興宗教に参加して.急に希望と自信がでてきたというばいには、うした心理過程を辿っていることがよくある.(以上)

上記の本は、古い本ですが、名著です。
コメント
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