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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

ボランティアは親鸞の教えに反するのか

2016年04月29日 | 浄土真宗とは?
今年度から大谷大学学長に就任された木越康教授の著書『ボランティアは親鸞の教えに反するのか-他力理解の相克-』(法藏館)を読みました。

結論は“「支援活動は聖道の慈悲に基づく自力だから行くべきではない」という、一見真宗的に思える見解も、実は罪福信に則った発想であって、決して親鸞の思想に基づくものではない。これは、悪行を離れようとする罪福信に等しい。また、「災害にあっても「ただ念仏」のみが真宗としては正統的態度である」という主張も、実は罪福信に基づいて善行を求める態度であって、決して親鸞の語る思想と一致するものではない。”というものです。

“「罪福信」とは、罪を犯せば悪果が訪れ、善を為せば善果か得られると信じてさまざまな実践を行おうとする行者の態度”で、“罪福信に基づく念仏は、念仏することが浄土往生のための善行だと知って、これを意図的に行おうとするのだから、他力の念仏とは異なる恣意的念仏となる。仏の本願に触れて自然に湧き起こる念仏(他力の念仏)ではなく、念仏者の思惑に基づいてなされる自力の念仏となる。それが。「本願の嘉号をもって己が善根とする」態度であり、善因善果の分別に由来する、自力の念仏なのである。”という。


“真宗者が真宗者であろうとするかために起こる実に解決困難な、悩ましい問題だと言える。これらは、真宗者か真宗者であろうとするがためにかえって堕することになる、落とし穴的問題だと言える。”とあります。


つまり、『歎異抄』にある、
(4)
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。の教えにしたがって「聖道門的利他の実践は慎むべきである」と”

あるとおり、ボランティアは「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」聖道の慈悲的行為であるという非難に対して、歎異抄の言葉に従って「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」をいさめること自体が、善行を積む行為(「罪福信」)に他ならないというものです。

罪福心の論説は、その通りだと思いますが、ボランティアの行動理念を、宿業に求めている点が、もっと論及してほしいが…という感想を持ちました。
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