仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

五体満足

2016年04月12日 | 苦しみは成長のとびら
市の図書館で書棚を見ていたら『これが ぼくらの 五体満足』(先天性四肢障害児父母の会 1999/12)が目に留まりました。乙武さんの不倫騒動で、「五体不満足」が、たびたびマスコミに取り上げられているので、何か面白そうと借りてきました。

アマゾンの内容(「BOOK」データベースより)には、

私は私がいちばん好き!100人の私の元気のひ・み・つ!3才から小・中・高・大学・大人まで全員実名、写真+文。(以上)とあります。

「五体満足」とは普通ということです。先天性の四肢欠損の人にとって、欠損していることが普通で、その普通を生きている人という意味が「これが ぼくらの 五体満足」というタイトルの意味です。良い本でした。そしてみんな登場人物が、人として素晴らしい。

本の中から一部分だけ転載してみます。

「71“人の心の痛みがわかる人”田川勇気(福岡県)20歳」とある中の一描写です。


幼稚園に入った時、私は初めて多くの『健常なからだ』と知り合いました。それまでなんとなく自分では気づいていた「特別な自分」を、より確固たるものにした私は、自分から『障害者』というレッテルをはりました。好奇心からくるイジメ、泣きながら必死に左手をポケットに押しこんで歩きながら 「障害者である自分」をうらむことができず、「障害者の自分を産んだ母親」にその怒りをぶつけるようになりました。
 ある日、とうとうたえられなくなった私は母に「バカ、なんでぼくみたいなの産んだと?死にたい…」と、その最後の言葉と同時に父の平手が飛んできました。父は唇をぐっとかみしめて無限で。母は私の言葉を聞いて「そうね、私さえちゃんとしていればね」と目に涙を浮かべて、私の「障害」をすべて自分の責任のように言いました。
 その時初めて私は気づいたんです。左手の指のないぼくを本当に愛してくれていることを。左手の指のないぼくよりも、何倍も悲しい思いをしていることを。そして誰よりもくやしかったことを。(以上)

悲しみが深まるということがあります。障害者であることの悲しみ。その悲しみが「なんでぼくみないなの生んだの」という言葉になる。そう悲しんでいる自分を、自分以上にいたわり涙してくれている人がいる。「私さえちゃんとしていればね」と、涙する母の悲しみが、障害を悲しんでいる自分そのものが、悲しみの存在として受け入れられていく。それは悲しみが深まっていくことを通して、優しさに触れていくことでもあるようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする