仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

日経ラジオ

2015年05月26日 | 苦しみは成長のとびら
日経ラジオ(http://www.radionikkei.jp/)というラジオ放送があります。短波放送なのか、初めて聞くラジオ局ですが、昨日、種村健二朗医師と東京ビハーラの仲間で、虎の門の放送局へ行って、東京ビハーラの活動を収録してきました。放送局は、小さいながら放送スタジオが6つあり、メインのスタジオでは、株価について、いつも放送しているらしく女性のアナウンサーが、株価をしゃべりつづけていました。そのスタジオルームを8名くらいのスタッフがとりまいていました。

私たちの収録された放送の、ホストは医師の川越厚先生で、先生の担当しているコーナーへの出演。放送は6月14日で、インターネット(http://www.radionikkei.jp/)で、その日、以降はいつでも聴けるとのことでした。私たちの活動が放送1回分、種村先生の放送が2回分の収録でした。

その放送の中で、種村医師が東京新聞の執筆された二回分、「私を変えた患者さん」の掲載原稿をアナウンサーが読んでくれました。

下記のその一部です。

種村健二朗 たねむら・けんじろう  2015年3月14日(土曜日)東京新聞

医師の意識改革


予測を超える力

苦しみからの解放 

 がん治療医から終末期医療の担当医になるきっかけは、1987年に「がん患者・家族語らいの集い」の立ちあげに加わったことだった。がん患者さんや家族、遺族が東京・築地本願寺に集まり、その苦しみを話し合う会である。
 死ぬという終末期状態の告知は定まっていなかったが、すでに本当のことを話し合っていた私は、その会に喜んで参加した。ところが私が、がんの専門医と分かると、家族や遺族は怒った。治療で体験した医師の言葉や態度への不満や怒りがいっぱいだったからだ。一方、死ぬことを自覚した患者さんたちは、優しかった。彼らは、心置きのない死に場所を望んでいた。
 二十世紀の終わりに緩和ケア病棟の担当医となった。病棟に入院する要件を「本人が希望すれば、誰でも入棟できる」とし、うそのない病棟を目指した。「死ぬ状態で苦しんでいるうえに死ぬことなんか告げるな」「死ぬ病棟に自分から入る患者さんはいない」と反対されたが、患者さんへの信頼と敬意を大切にして趣旨を変えなかった。その病棟で出会った患者さんがいた。
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 三十歳代のS子さんは、胃がんだった。治癒を目指す病棟の入院を断られ、やむなく緩和ケア病棟の入院を希望した。家には帰れない事情があった。「再発したこと」も「治らないこと」も説明された。治療手段も尽きたと伝えらえたが、治ることをあきらめなかった。
 「まだ死ねない。治りたい」と、怒ったきつい表情で一点を見据えた。病棟のスタッフたちともなじまなかった。彼女には、小学二年生の娘Aちゃんがいた。金曜日になると、夫がAちゃんを連れてくる。夫は観光地のラーメン店主で、多忙になる週末に娘を置くとすぐに帰った。Aちゃんは、病室の長椅子でおとなしく遊び眠った。彼女がくると、S子さんの表情が穏やかになった。少し笑顔もみえた。病棟のスタッフは、Aちゃんが好きだった。
 しかし娘さんが帰ると、苦悶の表情に戻った。病棟ではカンファレンス(会議)を繰り返し、苦しみから解放する手段を探して実践したが、効果はなく、病状は進行した。上半身を動かせるだけになった。
 「小さい子どものいる母親なら、どんな状態になっても治りたいと思うのは当然だ」。私たちはケアをあきらめた。その後、Aちゃんが「ママは、わたしを嫌いになった」と小さな声で言ったのを聞いたと、スタッフの一人が伝えてくれた。「ママは、抱いてもくれないし、お話ししてもくれない」と。驚いた。Aちゃんが苦しんでいると、考えたこともなかった。
 「S子さんに、自分の死ぬことをAちゃんに話してもらおう」。これが私たちの話し合いで導き出された結論だった。「生きたい」と切望する患者さんに「自分が死ぬこと」を娘さんに伝えてもらうことで何が起こるのか予想もできなかった。本当のことを話し合うなかで新しい展開を期待したのだが、不安だった。どんなに怒られようとお願いすると心に決めて話し始めた。が、その内容を聞いた瞬間、彼女は怒った。なおも真剣にお願いを続けた。やっと納得し、承知してくれた。
 「ママは、Aちゃんがだーい好き」と笑顔で話し始めたことを同席したスタッフが報告した。抱くことのできなくなった腕を回し、精いっぱいの力で抱いた。S子さんは自分の傷痕や膨らんだ腹部も娘に触らせて、死んでゆくことを伝えたという。
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Aちゃんは、再び子供らしい姿を取り戻した。もっと驚いたのは、その後だった。険しい顔つきで天井を見つめ続けていたS子さんの姿が消えた。家族も次々に訪れた。「ありがとう」と、誰にでも彼女は言った。あのS子さんが苦しみから解放されていた。亡くなったのは七夕の二日前だった。「ママ だいすき」と書かれたAちゃんの短冊がササに下がっていた。
 S子さんは、死ねないというこだわりを、あっという間に手放して苦しみからの解放を成し遂げていった。どんなに別れたくなくても別れなければならない現実を母娘が共有したとき、まったく予想しなかった親子の安心のある日常が目の前に展開した。
 思慮が尽きたとき、予測できない新しいケアの働きがうまれてくることを、私たちに彼女は気付かせてくれた。
 苦しみは成長する力であり、苦しみからの解放は予測できない展開である。
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教育格差の正体

2015年05月25日 | 現代の病理
『産経新聞』(27.5.24)に評論家稲垣真澄氏の“時評論壇”が掲載されていました。この方はお東の寺院出身の方です。その中に次のような記述がありました。

今月も格差論が目立った。「中央公論」(2015/06月号)は特集「教育格差の正体」を組んでいる。吉川徹「親の学歴差が生み出す教育機会の不平等」は冒頭でまず、格差や貧困を 「所得の多寡」 「財布の中身」に還元して語る格差論を「拝金主義的な俗流解釈」だと断じ、「不平等を、モノの消費行動と同列に扱うことの浅薄さ」を強調する。たしかに他社会で格差、不平等といえば、民族、移民、宗教ノ地域といった「解決の難しい社会構造」と密着している場合がほとんどで、俗流解釈はそうした真に向き合わねばならない「解決の難しい社会構造」を力ネのバールで押し隠してしまうからだ。(中略)

親の経済力によって子供の教育チャンスが奪われるのは痛ましい。しかし教育格差を生むのは親の経済力だけではない。何か。たとえば親の学歴。文化的再生産や学歴下降回避、学歴同類婚など、学歴のもつ象徴的価値によっても、大卒世帯の子供はやはり大学進学しやすいのである。
 たしかに教育格差論は、一方で 一学歴差一が生み出す格差を認めつつ、「教育格差」を解消する手立てを求めるという二律背反から免れない。それでもカネとモノ以外にも。もう1つ”の価値を見いだすことによって「解決の難しい社会構造」を直視しようとする点は注目される。(以上)

希望格差という言葉があります。『希望格差社会』(きぼうかくさしゃかい)という2004年(平成16年)に筑摩書房から出版 された山田昌弘の著書によって認知されたことばです。

確かに、日本だけでなく資本主義社会と言うのは、経済的格差がそのまま、教育格差となり、希望格差となってしまう社会です。文化の中に経済という軸と違った軸があるべきでしょう。このもう1つの軸が地方が再生する主軸となるものでしょう。

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母よ!殺すな

2015年05月24日 | 日記
一昨日の続きです。

横塚晃一著『母よ!殺すな』について、「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年1月号に「文学にみる障害者像」に鈴木雅子さんが執筆されています。転載して紹介します。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n342/n342020.html

1935年に埼玉県で生まれた横塚は、生後10か月の時一週間続いた高熱で脳性マヒになった。全身が不自由で言語障害もあり、歩けるようになったのは5歳の時だったという。16歳で板橋区の整肢療護園に入園し小学6年に編入したものの、児童福祉法の適用切れにより中学2年の途中で学校教育をあきらめなければならなかった。その後1年間、国立身体障害センター(現国立障害者リハビリテーションセンター)に入所し、退所後は自宅で養鶏業を営んでいたが、1964年、28歳の時に茨城県石岡市で「マハラバ村」身障者共同体運動に参加する。この生活共同体で僧侶、大仏空(おさらぎあきら)と出会ったことが人生の大きな転機となった。横塚はここで障害者としての自覚に目覚め、思想的基盤を確立する。
やがて共同体では複数のカップルが誕生し、横塚も同じ障害をもつ関口りゑと結婚した。ところが69年に共同体が崩壊したため、仲間とともに川崎市に移り、脳性マヒ者団体「青い芝の会」の運動に加わることになる。
当時、日本では親による障害児殺しが社会問題となり、事件のたびにマスコミは、「施設がない故の悲劇」「可哀そうな親を救え」という論調を繰り返していた。
1970年に横塚らが最初に取り組んだのは、重症児殺し告発運動である。この年、横浜市で母親による脳性マヒ児の絞殺事件が起き、子育てに疲れ絶望的になった母親への同情が、地元町内会などの減刑嘆願運動となって現れた。これに対して横塚らは、「重症児に生きる権利はないのか」「罪は罪として裁け」と訴えたのである。

横塚はこう主張した。
なぜ彼女が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり“この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ”と思ったという。なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとするこの人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。
(「母親の殺意にこそ」より)

「施設があればあのような事件は起こらない」という世論に対し、横塚は、障害者を「劣った存在」「価値のない存在」とみなし、だから生きていても仕方がないと考える健常者の価値観(差別意識)こそが問題の根底にある、と喝破したのである。
「殺される側」の障害者からの発言は大きな反響を呼び、裁判では、当時としては異例の(執行猶予つき)「有罪」判決が出た。横塚らの運動が初めて社会を動かした瞬間であった。
さらに横塚は、施設さえあれば障害者問題は解決するといった当時の風潮にも異議を唱える。
障害者の収容施設とは何であろうか。一口に言ってしまえばそれは生け贄であり、みせしめである。……施設にいる障害者(特殊人間)はたいがい外出外泊の自由もなく、所持品や衣服に至るまで制限を受け、必要によっては肉体、生命までも医学の進歩とやらの人身御供に差し出さなければならない。……現在はこれに花園のイメージのベールをかぶせてはいるが、権力者の目的は労働力の確保であり、予算の節約であり、それに伴う棄民施設なのであるから、どうとりつくろってみたところで所詮むりな話である。
(「母親の殺意にこそ」より)

基本的には府中センターのような巨大な施設を求め、どんどんつくろうとする社会の人々の考え方を変えていかなければなりません。
(「障害者と労働」より)
当時、日本各地で巨大施設の建設が進められる一方で、東京都の府中療育センターでは障害者の人権侵害が大きな問題となっていた。その実態を知る横塚は、巨大施設は障害者の人権を無視し、経済成長の邪魔になる障害者を社会から排除・隔離するものだとして、痛烈に批判したのである。
では、このような社会で障害者はどう生きるべきか。この点について横塚は次のように述べている。
駅の階段やいろいろの建築物など町そのものが私たちの存在を無視し、そこで私たちが生きていくことを拒否しているのです。そこで私達の運動は街に出ることから始めなければならないと考えたのです。それは私達のありのままをさらけだすことであり、強烈な自己主張であります。……私達脳性マヒ者には、他の人にない独特のものがあることに気づかなければなりません。そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり世に問うことができたならば、これこそ本当の自己主張ではないでしょうか。
(「脳性マヒとして生きる」より)

横塚は、障害を克服して少しでも健常者に近づこうとする障害者の意識を批判し、むしろ、障害者にしかない独特な考え方や物の見方を確立することが必要だとした。その上で、社会から排除されている脳性マヒ者がありのままの姿で街に出ていき、自らの存在を自己主張することを通して社会のあり方を変えていく。これが横塚の目指す障害者の生き方=障害者運動であった。

また、横塚は理想の社会について次のようにも述べている。
我々脳性マヒ者、精薄者の生活形態は……やはり他の人……がそうであるように、それぞれの地域に住み、自分自身の生活を営むということが原則になるべきである……より基本的には障害者をとり囲む社会の一人一人が障害者の問題を我が事として考え、その地域にいる障害者を仲間として隣人として受け入れ、折々は言葉をかけ、暇があれば下着一枚でも洗ってやるような精神風土がなければならない。いや、そうではなく、そういった精神風土を我々の力で作っていかなくてはなるまい。
(「施設のあり方について」より)

横塚が目指したのは、障害者と健常者が対等な立場でともに生きる真の共生社会であった。そして、その実現のためには、障害者が運動(自己主張)を通して助け合いの精神風土をつくっていくべきだとしたのである。
このような横塚の主張に共鳴したのは、障害者ばかりではなかった。高度経済成長期の能力主義教育に反発する学生など若者たちの共感を集め、彼らが支援者として参加することで青い芝の会は急速に拡大した。1972年、横塚は全国青い芝の会の会長となり、74年には会が反対していた優生保護法「改正」案が廃案に追い込まれた。この頃が青い芝の会の絶頂期であったといえよう。
しかし、学生運動の流入や若い会員の急増などを背景に、その後、運動が急進化し、会は妥協のない差別糾弾闘争へと突き進んでいく。青い芝の激しい闘争スタイルは社会の注目を集める一方で、青い芝=過激派集団とみなされる原因にもなった。
一方、横塚はがんを患い、75年頃から入退院を繰り返すようになった。そして78年夏、運動の行く末を案じながら息を引き取ったという。
横塚の死後、青い芝の運動はかつてのような輝きを放つことはなくなったが、横塚らの問題提起は21世紀の今日も色あせていないのではないだろうか。
横塚の死から約30年後の2007年、関係者待望の『母よ!殺すな』の再刊(生活書院)が実現した。再刊に尽力した立岩真也氏はこの本を「前の世紀に出た最も重要な本の一冊」と評している。
(すずきまさこ 静岡県近代史研究会会員・障害者運動史研究者)


障害者差別について多くの示唆を与えている文章です。
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伝統と青春と未来

2015年05月23日 | 日記
新聞の広告欄に、『女性セブン』“佳子さま 八ヶ岳合宿の逆風 素肌だと着こなしに異論百出、平成のプリンセスが直面する「伝統と青春と未来」”という内容が掲載されていました。

『週刊文春』(2015.5.28号)も、同じように佳子さまの服装にまつわる記事を掲載していました。おそらく両雑誌とも、ゴシップ扱い記事なのは、週刊誌の宿命でしょうが、文化と歴史といった側面から考えると興味のある出来事です。

伝統的なイスラムのブルカという女性の顔の覆いを指すヴェールは有名ですが、
日本でも、女性が自分の素肌を見せないことが奥ゆかしくたしなみ深く、教養であるという文化は、まだ残っているようです。

「中世の武家社会の時代には、妻が家族以外の男性に素肌を見せるのは良くないこととされており、人前に出るときは白粉などで肌を隠すことがたしなみとされてきた」ともあります。

現実的に、皇室の成年女性が、水着姿で大衆の前に出るということは、現在の日本の保守層にとっては、まだまだ厳禁でしょう。

この肌を隠すという文化は、仏教にもあります。


平安時代末期、比叡山などで裹頭(かとう)という。白い五条袈裟で頭を裹(つつ)み、袈裟に付いている紐で結んで固定した姿のお坊さんがいました。

裹頭は僧兵だけのものではなく、法会では高位の僧や稚児なども裹頭していましたともありあます。今でも浄土真宗以外の宗派では、裹頭をもちいています。

女性セブンの記事の話です。皇室の成人女性としては、本人の自制も時には必要でしょうが、学校行事等では、マスコミも含めて周囲の者が“儀礼的無関心”という配慮が必要でしょう。見る側も見られる側も抑制の美学が求められます。
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仏事ハラスメント?

2015年05月22日 | 現代の病理
昨日(27.5.21)読売夕刊に、“血液型 ハラスメント”の話題が紹介されていました。コメントで「身体的特徴である血液型で他人と比較することは差別につながる。期限には人種差別のあることを思いおこしてほしい」という研究所のコメントを掲載していました。

ネットで見ると、血液型ハラスメントを「ブラッドタイプハラスメント(通称ブラハラ)」と言うらしい。「血液型と性格を関連付ける科学的根拠がないのにも関わらず、血液型と性格に関連があるかのように、差別、偏見、嫌がらせをすることである。」とあります。

またハラスメントで検索すると、あるわあるわ、色々なハラスメントがあります。私は思わず『仏事ハラスメント』と入力して検索しました。仏事の強要がハラスメントになっていないかと思ったのです。

仏教の門徒をやめたいです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13107483173

仏教の門徒をやめたいです。
こんにちは。うちは浄土真宗です。
私は、個人的にいのちへの畏敬のようなものは持っていますが、どこの神様を信じるとかはありません。法事などで仏壇に手を合わせるのは、身内が心底信じて大事にしてるものだから、ないがしろにしてはいけないと感じるからです。
でも、手を合わせろ、寺の人に頭さげろと言われ、そうしないと最低の人間のように非難される日々、「私は信仰していない」とカミングアウトしたい気持ちでいっぱいです。私ばかりか2歳の息子も勝手に門徒になってるようで、腹が立ちます。でも、門徒をやめる イコール 今後は身内でなくなる、ということのように思います。(仏様を祖末にする奴には遺産相続はないと言われてます)
門徒はどうやってやめるのか、どうしたら穏便にカミングアウトできるのか、アドバイスお願いします。

ベストアンサーに選ばれた回答
2013/5/2000:18:50

信仰を強要されるのがつらいというわけですね。普通一般の人ならよく理解できる感情だと思います。
ご両親はあなたに仏様とともに生きてほしいと思われているのでしょう。ご自身、仏様におすがりしなければどうにもならない目にあわれて、そして何とかなった経験をお持ちなのだと思います。岩山をよじ登るならザイルを持っていけ、です。
穏便にというのであればそこをおつきになればいいかと。ザイルは持っているからうるさく言うな、です。あんまり言うと捨てちゃうぞ。子を思う親心、ザイル捨てて山に行かれるよりは、口をすぼめて見守るほうが得策と思うことでしょう。2つにひとつ、選んでもらえばあなたは今より楽になるのじゃないでしょうか。(以上)

門徒への教化を、ハラスメントと感じ始めているようです。5年後には「仏事ハラスメント」という言葉が生まれていても不思議ではありません。
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