仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

教育格差の正体

2015年05月25日 | 現代の病理
『産経新聞』(27.5.24)に評論家稲垣真澄氏の“時評論壇”が掲載されていました。この方はお東の寺院出身の方です。その中に次のような記述がありました。

今月も格差論が目立った。「中央公論」(2015/06月号)は特集「教育格差の正体」を組んでいる。吉川徹「親の学歴差が生み出す教育機会の不平等」は冒頭でまず、格差や貧困を 「所得の多寡」 「財布の中身」に還元して語る格差論を「拝金主義的な俗流解釈」だと断じ、「不平等を、モノの消費行動と同列に扱うことの浅薄さ」を強調する。たしかに他社会で格差、不平等といえば、民族、移民、宗教ノ地域といった「解決の難しい社会構造」と密着している場合がほとんどで、俗流解釈はそうした真に向き合わねばならない「解決の難しい社会構造」を力ネのバールで押し隠してしまうからだ。(中略)

親の経済力によって子供の教育チャンスが奪われるのは痛ましい。しかし教育格差を生むのは親の経済力だけではない。何か。たとえば親の学歴。文化的再生産や学歴下降回避、学歴同類婚など、学歴のもつ象徴的価値によっても、大卒世帯の子供はやはり大学進学しやすいのである。
 たしかに教育格差論は、一方で 一学歴差一が生み出す格差を認めつつ、「教育格差」を解消する手立てを求めるという二律背反から免れない。それでもカネとモノ以外にも。もう1つ”の価値を見いだすことによって「解決の難しい社会構造」を直視しようとする点は注目される。(以上)

希望格差という言葉があります。『希望格差社会』(きぼうかくさしゃかい)という2004年(平成16年)に筑摩書房から出版 された山田昌弘の著書によって認知されたことばです。

確かに、日本だけでなく資本主義社会と言うのは、経済的格差がそのまま、教育格差となり、希望格差となってしまう社会です。文化の中に経済という軸と違った軸があるべきでしょう。このもう1つの軸が地方が再生する主軸となるものでしょう。

コメント
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