日経ラジオ(http://www.radionikkei.jp/)というラジオ放送があります。短波放送なのか、初めて聞くラジオ局ですが、昨日、種村健二朗医師と東京ビハーラの仲間で、虎の門の放送局へ行って、東京ビハーラの活動を収録してきました。放送局は、小さいながら放送スタジオが6つあり、メインのスタジオでは、株価について、いつも放送しているらしく女性のアナウンサーが、株価をしゃべりつづけていました。そのスタジオルームを8名くらいのスタッフがとりまいていました。
私たちの収録された放送の、ホストは医師の川越厚先生で、先生の担当しているコーナーへの出演。放送は6月14日で、インターネット(http://www.radionikkei.jp/)で、その日、以降はいつでも聴けるとのことでした。私たちの活動が放送1回分、種村先生の放送が2回分の収録でした。
その放送の中で、種村医師が東京新聞の執筆された二回分、「私を変えた患者さん」の掲載原稿をアナウンサーが読んでくれました。
下記のその一部です。
種村健二朗 たねむら・けんじろう 2015年3月14日(土曜日)東京新聞
医師の意識改革
予測を超える力
苦しみからの解放
がん治療医から終末期医療の担当医になるきっかけは、1987年に「がん患者・家族語らいの集い」の立ちあげに加わったことだった。がん患者さんや家族、遺族が東京・築地本願寺に集まり、その苦しみを話し合う会である。
死ぬという終末期状態の告知は定まっていなかったが、すでに本当のことを話し合っていた私は、その会に喜んで参加した。ところが私が、がんの専門医と分かると、家族や遺族は怒った。治療で体験した医師の言葉や態度への不満や怒りがいっぱいだったからだ。一方、死ぬことを自覚した患者さんたちは、優しかった。彼らは、心置きのない死に場所を望んでいた。
二十世紀の終わりに緩和ケア病棟の担当医となった。病棟に入院する要件を「本人が希望すれば、誰でも入棟できる」とし、うそのない病棟を目指した。「死ぬ状態で苦しんでいるうえに死ぬことなんか告げるな」「死ぬ病棟に自分から入る患者さんはいない」と反対されたが、患者さんへの信頼と敬意を大切にして趣旨を変えなかった。その病棟で出会った患者さんがいた。
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三十歳代のS子さんは、胃がんだった。治癒を目指す病棟の入院を断られ、やむなく緩和ケア病棟の入院を希望した。家には帰れない事情があった。「再発したこと」も「治らないこと」も説明された。治療手段も尽きたと伝えらえたが、治ることをあきらめなかった。
「まだ死ねない。治りたい」と、怒ったきつい表情で一点を見据えた。病棟のスタッフたちともなじまなかった。彼女には、小学二年生の娘Aちゃんがいた。金曜日になると、夫がAちゃんを連れてくる。夫は観光地のラーメン店主で、多忙になる週末に娘を置くとすぐに帰った。Aちゃんは、病室の長椅子でおとなしく遊び眠った。彼女がくると、S子さんの表情が穏やかになった。少し笑顔もみえた。病棟のスタッフは、Aちゃんが好きだった。
しかし娘さんが帰ると、苦悶の表情に戻った。病棟ではカンファレンス(会議)を繰り返し、苦しみから解放する手段を探して実践したが、効果はなく、病状は進行した。上半身を動かせるだけになった。
「小さい子どものいる母親なら、どんな状態になっても治りたいと思うのは当然だ」。私たちはケアをあきらめた。その後、Aちゃんが「ママは、わたしを嫌いになった」と小さな声で言ったのを聞いたと、スタッフの一人が伝えてくれた。「ママは、抱いてもくれないし、お話ししてもくれない」と。驚いた。Aちゃんが苦しんでいると、考えたこともなかった。
「S子さんに、自分の死ぬことをAちゃんに話してもらおう」。これが私たちの話し合いで導き出された結論だった。「生きたい」と切望する患者さんに「自分が死ぬこと」を娘さんに伝えてもらうことで何が起こるのか予想もできなかった。本当のことを話し合うなかで新しい展開を期待したのだが、不安だった。どんなに怒られようとお願いすると心に決めて話し始めた。が、その内容を聞いた瞬間、彼女は怒った。なおも真剣にお願いを続けた。やっと納得し、承知してくれた。
「ママは、Aちゃんがだーい好き」と笑顔で話し始めたことを同席したスタッフが報告した。抱くことのできなくなった腕を回し、精いっぱいの力で抱いた。S子さんは自分の傷痕や膨らんだ腹部も娘に触らせて、死んでゆくことを伝えたという。
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Aちゃんは、再び子供らしい姿を取り戻した。もっと驚いたのは、その後だった。険しい顔つきで天井を見つめ続けていたS子さんの姿が消えた。家族も次々に訪れた。「ありがとう」と、誰にでも彼女は言った。あのS子さんが苦しみから解放されていた。亡くなったのは七夕の二日前だった。「ママ だいすき」と書かれたAちゃんの短冊がササに下がっていた。
S子さんは、死ねないというこだわりを、あっという間に手放して苦しみからの解放を成し遂げていった。どんなに別れたくなくても別れなければならない現実を母娘が共有したとき、まったく予想しなかった親子の安心のある日常が目の前に展開した。
思慮が尽きたとき、予測できない新しいケアの働きがうまれてくることを、私たちに彼女は気付かせてくれた。
苦しみは成長する力であり、苦しみからの解放は予測できない展開である。
私たちの収録された放送の、ホストは医師の川越厚先生で、先生の担当しているコーナーへの出演。放送は6月14日で、インターネット(http://www.radionikkei.jp/)で、その日、以降はいつでも聴けるとのことでした。私たちの活動が放送1回分、種村先生の放送が2回分の収録でした。
その放送の中で、種村医師が東京新聞の執筆された二回分、「私を変えた患者さん」の掲載原稿をアナウンサーが読んでくれました。
下記のその一部です。
種村健二朗 たねむら・けんじろう 2015年3月14日(土曜日)東京新聞
医師の意識改革
予測を超える力
苦しみからの解放
がん治療医から終末期医療の担当医になるきっかけは、1987年に「がん患者・家族語らいの集い」の立ちあげに加わったことだった。がん患者さんや家族、遺族が東京・築地本願寺に集まり、その苦しみを話し合う会である。
死ぬという終末期状態の告知は定まっていなかったが、すでに本当のことを話し合っていた私は、その会に喜んで参加した。ところが私が、がんの専門医と分かると、家族や遺族は怒った。治療で体験した医師の言葉や態度への不満や怒りがいっぱいだったからだ。一方、死ぬことを自覚した患者さんたちは、優しかった。彼らは、心置きのない死に場所を望んでいた。
二十世紀の終わりに緩和ケア病棟の担当医となった。病棟に入院する要件を「本人が希望すれば、誰でも入棟できる」とし、うそのない病棟を目指した。「死ぬ状態で苦しんでいるうえに死ぬことなんか告げるな」「死ぬ病棟に自分から入る患者さんはいない」と反対されたが、患者さんへの信頼と敬意を大切にして趣旨を変えなかった。その病棟で出会った患者さんがいた。
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三十歳代のS子さんは、胃がんだった。治癒を目指す病棟の入院を断られ、やむなく緩和ケア病棟の入院を希望した。家には帰れない事情があった。「再発したこと」も「治らないこと」も説明された。治療手段も尽きたと伝えらえたが、治ることをあきらめなかった。
「まだ死ねない。治りたい」と、怒ったきつい表情で一点を見据えた。病棟のスタッフたちともなじまなかった。彼女には、小学二年生の娘Aちゃんがいた。金曜日になると、夫がAちゃんを連れてくる。夫は観光地のラーメン店主で、多忙になる週末に娘を置くとすぐに帰った。Aちゃんは、病室の長椅子でおとなしく遊び眠った。彼女がくると、S子さんの表情が穏やかになった。少し笑顔もみえた。病棟のスタッフは、Aちゃんが好きだった。
しかし娘さんが帰ると、苦悶の表情に戻った。病棟ではカンファレンス(会議)を繰り返し、苦しみから解放する手段を探して実践したが、効果はなく、病状は進行した。上半身を動かせるだけになった。
「小さい子どものいる母親なら、どんな状態になっても治りたいと思うのは当然だ」。私たちはケアをあきらめた。その後、Aちゃんが「ママは、わたしを嫌いになった」と小さな声で言ったのを聞いたと、スタッフの一人が伝えてくれた。「ママは、抱いてもくれないし、お話ししてもくれない」と。驚いた。Aちゃんが苦しんでいると、考えたこともなかった。
「S子さんに、自分の死ぬことをAちゃんに話してもらおう」。これが私たちの話し合いで導き出された結論だった。「生きたい」と切望する患者さんに「自分が死ぬこと」を娘さんに伝えてもらうことで何が起こるのか予想もできなかった。本当のことを話し合うなかで新しい展開を期待したのだが、不安だった。どんなに怒られようとお願いすると心に決めて話し始めた。が、その内容を聞いた瞬間、彼女は怒った。なおも真剣にお願いを続けた。やっと納得し、承知してくれた。
「ママは、Aちゃんがだーい好き」と笑顔で話し始めたことを同席したスタッフが報告した。抱くことのできなくなった腕を回し、精いっぱいの力で抱いた。S子さんは自分の傷痕や膨らんだ腹部も娘に触らせて、死んでゆくことを伝えたという。
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Aちゃんは、再び子供らしい姿を取り戻した。もっと驚いたのは、その後だった。険しい顔つきで天井を見つめ続けていたS子さんの姿が消えた。家族も次々に訪れた。「ありがとう」と、誰にでも彼女は言った。あのS子さんが苦しみから解放されていた。亡くなったのは七夕の二日前だった。「ママ だいすき」と書かれたAちゃんの短冊がササに下がっていた。
S子さんは、死ねないというこだわりを、あっという間に手放して苦しみからの解放を成し遂げていった。どんなに別れたくなくても別れなければならない現実を母娘が共有したとき、まったく予想しなかった親子の安心のある日常が目の前に展開した。
思慮が尽きたとき、予測できない新しいケアの働きがうまれてくることを、私たちに彼女は気付かせてくれた。
苦しみは成長する力であり、苦しみからの解放は予測できない展開である。
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