仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

真実って?

2014年02月24日 | 仏教とは?
去る22.23日(2014.2月)は、鬼怒川温泉で「仏壮の研修会」でした。といっても23日は日曜で朝10時から法事出勤のため、朝一の帰宅でした。講師は私と宮崎幸枝さん。私に与えられたテーマは。「ご門主のご消息を拝して」の質問に答えるものです。
宗祖の時代(鎌倉時代)は、手紙のことを消息といい、手紙の呼称は、江戸時代初頭前後のようです。蓮如上人の時代(室町)は、「文」(ふみ)と言っていましたが、正式には学文などの通信を「文」といい、動静や様子を伝える私信は「消息」と言っていたようです。

ご門主のご消息について、あらかじめ質問をもらっておいて、それに回答する方、「1時間30分、西原さんの自由に…」と言われていたので、そのつもりで行ったら、基調講演40分と質疑応答で1時間でとのことで、それに近い形で行いました。

頂いた質問に下記のものがありました。

「消息を拝しての」疑問に“『大無量寿経』は本願が説かれているから「真実」の経典、あらゆる者を救いとる教えこそ「真実」の教えである、等、仏教的な「真実」の意味が、現代の常識では推測が難しい。真実の言葉の壁に阻まれ、残念な思いをしています。仏教でいう「真実」について教えて下さい。”

というものです。おっしゃる通り、伝える側(僧侶など)は、真実を自己領解のもとに言葉にしますが、聴いている側は、「真実(?)何のことやら…」です。

真実の用語は、一般社会で使う場合、科学分野で使う場合、哲学、文学、宗教、その分野分野によって意味内容が違うのが現実です。“知っているつもりの言葉”が真宗を不可解なものにしているというご意見です。

先日読んだ『日蓮宗新聞』(2014.1.20号)に、天皇陛下が水俣市でおっしゃっておられた言葉が紹介されていました。良い内容なので転載します。

人権を考える 山田妙眞

昨年10月27日、熊本県を訪問中の天皇、皇后両陛下は初めて水俣市を訪れ水水俣病患者とご懇談された。患者の多くが差別を恐れて病気を隠してきた実態を聞かれた天皇陛下は、「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたいと改めて思いました」と約1分間にわたって思いを語られた。(翌28日付朝日新聞掲載)
このご発言は予定外であり、事前に「お言葉」が用意された行事以外で、天皇陛下がこように時間をかけて思いを口にされるのは異例であると書かれていた。
 私は小学校教諭時代、水俣病を公害病の一つとして小学校4年生に教えていた。社会科の授業の中では、患者さんの病状や水俣病の原因が工場から流され続けたメチル水銀であるということを教えていた。教科書には、病に冒されたわが子を「宝子」(たからご)と呼び、大きくなったその子を抱き抱えて一緒に入浴する母親の姿が載っていた。
 それから旱30年が経過している。いつの間にか過去の事実のように思い込んでいた。しかし2年前に水俣病資料館を見学したとき、現在も苦しみ続けている方々がおられることを知った。私自身どこまでこの水俣病について理解して、指導に当たっていたのだろうと今更ながら反省させられる。
 1956年5月に初めて公式に確認された水俣病が、公害と認定されたのは1968年9月である。
 この間にも患者さんたちは奇病や伝染病と誤解され、就職や結婚を拒否されるなどの差別を受けた。また農水産物も水俣の名では売れないなど、水俣を敬遠する風潮が広まった。
(以下省略)

陛下の「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたいと改めて思いました」とおっしゃれる真実とは“誠心誠意生きようとする人が、そのまま受け入れられていく”といったほどの意味であろうと推測しますが、このように真実の言葉が氾濫しているのが現代です。

その中で真実を知っている側になって語るのではなく、浄土真宗の真実と何かを丁寧に語る必要があるのだと思われます。

参加者は310人、私の本も56冊も売れました。
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増悪を超える

2014年02月23日 | 日記
増悪心をどう解決するのか。小説『親鸞物語―泥中の蓮花』で、そのことに触れています。一度紹介したような気もしますが。

語りかける師の言葉には、心の荒波を包み込む暖かさが感じられた。
「あれはそれがしが四十三才(一一七一)のときのことでありました。なんまんだぶ‥。その歳は、私が九歳のときに見罷った父の齢。争いで死んだ父はそれがしに、〝われを殺しにきたあの武者(むさ)を許せる人となれ〟との言葉を残して逝きました…。しかしその歳まで私は、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体得することもなく、また正しい智慧を開くこともなく仏道を歩んでおりましたのじゃ。(省略)

その時私が触れた善導大師の『観経散善義』のお言葉は、〝一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく。この仏の願に順ずるがゆえなり〟のご文でした。悪人が念仏によりて救われるのではなく、どうにもならぬ悪人とは、この私のことであったということでござります。悪人を他の人の上に見るのではなく、阿弥陀仏の大悲の深さを通して、自身の悪の深さが見え申したのでござる。私はそのとき、救われるはずのない自分であることを率直に認めました。それは同時に阿弥陀仏の慈愛の深さでもありました。闇に沈む仏縁のない源空を、念仏申す身となさしめて摂め取るという本願にござりました。すでにわが身の上に阿弥陀仏のお慈悲は届けられていたのじゃ。なまんだぶ…。私はその念仏の教えの中に、父の遺言であった〝敵を許す〟ということを得心申しました。父をあやめた彼の人も、欲望の衝動に身を任せきって生きた凡夫、その敵を許すことのできないこの源空も、憎しみの心から離れることのできない闇に閉ざされた凡夫、共に阿弥陀如来の救いの目当てだったのでござる。なまんだぶ…」
(以上)

憎む私も憎まれる相手も、ともに阿弥陀如来の救われなければならない存在である大悲を通して、“許す”ということが達成されるのでしょう。
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愛と憎しみは同質

2014年02月22日 | 仏教とは?
「射殺か、車内に26歳女性遺体…群馬の駐車場」のニュース。「県警によると、鈴木さんは昨年11月頃、男女間のトラブルで栃木県警に相談していたという」という。むごい事件です。

仏教では愛と憎しみは同じ心の裏表だと説きます。愛が深ければ深いほど憎しみも大きくなる。それは、愛欲が本質的に、自己を愛するという執着よるかれでしょう。愛欲が拒否されると、愛欲が手放したくないという心理となり、その存在を抹殺することによって、他人に奪われたくないという独占欲が完結される。

むごい事件です。

憎しみからの解放を、どう考えるのか。1つには、その憎しみを相手にぶつけることです。この度の事件は、その方向でしょう。2つ目は、忘れること。その為には時間や場所など、憎しみの相手から距離を置くことが不可欠です。3つ目は、許すこと。これは凡夫には不可能なことですが、憎しみの私が阿弥陀さまから救わななければならない存在であると憎しみの自分を受け入れることのよって、それが可能となる。これは私の仮説です。

ともあれ、憎しみを直接的な行動によって解決するという価値観は、どこから育ってくるのか。プラスかマイナスかという単純な思考方法を唯一の価値観として生きる、コンピューター社会の申し子のような気もします。
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第27回サラリーマン川柳コンクール

2014年02月21日 | 日記
19日(2014.2月)に、「第27回サラリーマン川柳コンクール」の入選作100発表というニュースがありました。

少し拾ってみました。
「新人に 任せた仕事が 倍返し」

「昇進を ジェジェジェと祝う 我が女房」

「今でしょ! と NISA(ニーサ)の勧誘 金NAISA(ナイサ)」

「秘密保護 オレのへそくり 適用か」

「倍返し!言えずに今日も おもてなし」

「意見出せ 出したら指示が倍返し」

「オレの部下 半沢みたいな奴ばかり」

「やられたら やり返せるのはドラマだけ」

「妻不機嫌 お米と味噌汁『お・か・ず・な・し』」

「妻たちの女子会ランチ見てじぇじぇじぇ」

「うちの嫁 後ろ姿はフナッシー」

「プリクラに写る娘は誤表示だ」

「『お・も・て・な・し』妻から言われる『お・み・と・お・し』」

「誰やるの 炊事洗濯 僕でしょう」

「いつやるの? 聞けば言い訳 倍返し」

「おもてなし 受けてみたいが あてもなし」

「倍返し! 言えずに今日も おもてなし」

「入学金 息子頼むぞ 倍返し」

「大掃除 どこからやるか? 居間でしょ!」

(以上)
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幽霊済度

2014年02月20日 | 親鸞聖人
今井正晴先生より『親鸞の伝承と史実―関東に伝わる親鸞聖人像』(法蔵館刊)を賜りました。2月初旬に築地本願寺で開催された僧侶研修会にご講師として来られ、筑波大学を退官されてから、いろいろな研修会でお名前に接するこの頃です。

1つには今まであまり研究されてこなかった関東での親鸞聖人の足跡研究、それと歴史学的視点での示唆が、際立っているからでしょう。

上記の本も、1つの史実でも歴史学者が見ると違った見方で、その解釈の仕方が新鮮です。

「幽霊済度」で無量寿寺に伝わる幽霊済度の物語が示され、次のように解釈されておられます。

 鳥栖の無量寿寺には古い幽霊の図があります。いかにも恐ろしげな女性の幽霊です。その女性の姿は、腰のあたりから細くなり、ついにはとがってなくなってしまいます。足がないのです。幽霊に足がないのは、日本では江戸時代の中期から始まります。つまり、足がない幽霊の図は、汀戸時代中期以降に描かれたということになります。また江戸時代中期には、全国的に幽霊の恐怖が説かれるようになりました。宗教界では、人々の不安を和らげるために、それに対応しなければなりませんでした。浄土真宗でも親鸞に登場していただき、親鸞は幽霊に負けないから安心するようにという話を作ったのでしょう。合わせて、幽霊も救ってあげるという話を作りました。無量寿寺の幽霊済度の伝承は、このような社会の動きの中で成立したものと推定されます。(以上)

この「幽霊済度」の絵が、何を語っているのか、その解釈の材料を持ち合わせていない私が見れば、「へー」で終わってしまうところですが、歴史的な知見が、幽霊済度に中にある、その絵を画かせた背景を読み取ってくれ、絵に深みを与えてくれます。
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