宗教業界新聞『中外日報』(2014.2.8号)にお関西大文学部総合人文学科比較宗教学専修教授の小田淑子氏が、“イスラームと障碍者”というタイトルと、イスラーム社会において障碍者がどのように社会から見られているのかを書いておられました。
日本では、伝統的に障碍を因果応報の結果と捉えたり、家の恥として人目に触れることを避けたり負の人間として見られる文化が際立っています。イスラームにおける障碍者の捉え方は次の通りだそうです。(以下紙面より転載)
1.宗教によって違う苦悩の捉え方
イスラームでは抻の予定が神、天使、啓典、預言者、来世(終末)と並ぶ六信の一つである。幸運も日々の無事も不運も、事故や訶、非業の死もすべて神の予定として受けとめる。障碍もまたしかりである。輪廻を認めないイスラームでは、不幸や障碍を前世の因縁とすることはなく、また神の罰の結果だとも考えない。当事者も周りの人々も障碍などの原因を追及せず、孤児の境遇も障碍を負う人生も神の予定の出来事として受け入れる。そのように受けとめれば、障碍を恨み、恥ずかしく思う必要はない。ムスリムのすべきことは、彼らの社会生活を支援することである。イスラーム社会では民衆にもそのような意識が根づいていて、まったく差別がないとは断言できないが、障碍者が自らを恥じて卑屈になることはない。日本人の感覚からすれば、自分自身や身近な人が病を苦しみ、障碍を負い、悲惨な事態に陥った場合に、それを神の予定として淡々と受け入れるのは優れた宗教者には可能でも、普通の人にはできない、なぜそうなったのかと問わずにいられないと思う。だが、ムスリムはそうしない。悲惨や苦悩に面した人間の感情は古今東西変わらないと思いがちだが、苦悩をどう捉えるかは宗教により説明が異なり、対応の仕方にも相違が生じる。(以上)
日本では障碍者自身、また周りの人が障碍者をかわいそうな人とみる文化が確かにあります。この文化が問題です。これは死についても同じです。死ぬことは敗北であり可哀想な人という視線が、その人自身の死を受け入れなくさせてしまうのです。死は自然なことであり、尊敬に値する出来事でも有り得る。
日本では、伝統的に障碍を因果応報の結果と捉えたり、家の恥として人目に触れることを避けたり負の人間として見られる文化が際立っています。イスラームにおける障碍者の捉え方は次の通りだそうです。(以下紙面より転載)
1.宗教によって違う苦悩の捉え方
イスラームでは抻の予定が神、天使、啓典、預言者、来世(終末)と並ぶ六信の一つである。幸運も日々の無事も不運も、事故や訶、非業の死もすべて神の予定として受けとめる。障碍もまたしかりである。輪廻を認めないイスラームでは、不幸や障碍を前世の因縁とすることはなく、また神の罰の結果だとも考えない。当事者も周りの人々も障碍などの原因を追及せず、孤児の境遇も障碍を負う人生も神の予定の出来事として受け入れる。そのように受けとめれば、障碍を恨み、恥ずかしく思う必要はない。ムスリムのすべきことは、彼らの社会生活を支援することである。イスラーム社会では民衆にもそのような意識が根づいていて、まったく差別がないとは断言できないが、障碍者が自らを恥じて卑屈になることはない。日本人の感覚からすれば、自分自身や身近な人が病を苦しみ、障碍を負い、悲惨な事態に陥った場合に、それを神の予定として淡々と受け入れるのは優れた宗教者には可能でも、普通の人にはできない、なぜそうなったのかと問わずにいられないと思う。だが、ムスリムはそうしない。悲惨や苦悩に面した人間の感情は古今東西変わらないと思いがちだが、苦悩をどう捉えるかは宗教により説明が異なり、対応の仕方にも相違が生じる。(以上)
日本では障碍者自身、また周りの人が障碍者をかわいそうな人とみる文化が確かにあります。この文化が問題です。これは死についても同じです。死ぬことは敗北であり可哀想な人という視線が、その人自身の死を受け入れなくさせてしまうのです。死は自然なことであり、尊敬に値する出来事でも有り得る。