仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

増悪を超える

2014年02月23日 | 日記
増悪心をどう解決するのか。小説『親鸞物語―泥中の蓮花』で、そのことに触れています。一度紹介したような気もしますが。

語りかける師の言葉には、心の荒波を包み込む暖かさが感じられた。
「あれはそれがしが四十三才(一一七一)のときのことでありました。なんまんだぶ‥。その歳は、私が九歳のときに見罷った父の齢。争いで死んだ父はそれがしに、〝われを殺しにきたあの武者(むさ)を許せる人となれ〟との言葉を残して逝きました…。しかしその歳まで私は、憎しみと愛しさを越えた、ひろやかな心を体得することもなく、また正しい智慧を開くこともなく仏道を歩んでおりましたのじゃ。(省略)

その時私が触れた善導大師の『観経散善義』のお言葉は、〝一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく。この仏の願に順ずるがゆえなり〟のご文でした。悪人が念仏によりて救われるのではなく、どうにもならぬ悪人とは、この私のことであったということでござります。悪人を他の人の上に見るのではなく、阿弥陀仏の大悲の深さを通して、自身の悪の深さが見え申したのでござる。私はそのとき、救われるはずのない自分であることを率直に認めました。それは同時に阿弥陀仏の慈愛の深さでもありました。闇に沈む仏縁のない源空を、念仏申す身となさしめて摂め取るという本願にござりました。すでにわが身の上に阿弥陀仏のお慈悲は届けられていたのじゃ。なまんだぶ…。私はその念仏の教えの中に、父の遺言であった〝敵を許す〟ということを得心申しました。父をあやめた彼の人も、欲望の衝動に身を任せきって生きた凡夫、その敵を許すことのできないこの源空も、憎しみの心から離れることのできない闇に閉ざされた凡夫、共に阿弥陀如来の救いの目当てだったのでござる。なまんだぶ…」
(以上)

憎む私も憎まれる相手も、ともに阿弥陀如来の救われなければならない存在である大悲を通して、“許す”ということが達成されるのでしょう。
コメント
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