仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

お蔭発言①

2014年02月26日 | 日記
『読売新聞』正論(26.2.24)に加地伸行(立命館大学フェロー)氏が“選手に見た「日本の心」で再生を”と題して執筆されていました。

日本のメディアは、日本人の上位大賞者にはもちろんのこと、残念な成績となった選手たちにも、競技結果の感想を求めていた。それらを聴いていて、そこに日本的とも言うべき内容が共通していると思った。

 家族のため、先輩のおかげ…

 まず第一は、〈いろいろな人の支えがあり〉その支えてくれた人のため、家族のために闘ったと述べていた。あるいは、〈先輩の苦労のおかけ〉と、先輩たちが開いてきた道への敬意のことば、さらには〈仲間みんなで力を合わせてここまでくることができた〉という団結のことばが発せられていた。そこには一貫して自分以外の人々への感謝や謙虚さがあった。それも自然な感じであった。
 ふつうならば、何年もなみなみならぬ努力をし、入賞できたのであるから、すこしは自分の力を誇示しても不思議でない。
 しかし、どの日本選手にもそういった個人能力の自慢といったものが、いささかも見えなかった。これは、いったい何なのであろうか。
 日本選手のそうした感覚、またそれに共鳴する日本人一般の感覚は、個人の能力を第一とする個人主義のそれではなくて、集団性・共同体性を最重要視する家族主義のそれではなかろうか。
 さらに踏み込んで言えば、個人主義なる欧米流の在りかたは、遠くは狩猟民族の能力主義の発展した形であり、家族主義という東北アジアの在りかたは、農耕民族の共同体生活感覚の発展した形であると、私は思っている。
 と述べると近現代国家においては、特に都会においては狩猟民族感覚とか農耕民族感覚などというものは消えてしまっており、どこにもないのだと言う〈文化人〉がきっと出てくることであろう。
 それは浅薄。例えば、個人主義者のコーン日産社長は、狩猟民族的に自己の能力を高く評価し、年俸十億円を自分で決めているではないか。一般会社の日本人社長にはそのような高給を自分が決める度胸はない。狩猟民族的個人主義が身についていないからだ。(以下省略)

氏の論は、引き続いて
 「日本人の根強い共同体感覚を底にすえての政策を立案することが、国民の心を捉えかつ国家の財政危機を救えうるのである。その例恋示そう。」と、「在学する中学生以上の者は、自分の自由になる時間卜土日祝日や夜間など、あるいは有給休暇を使って、社会福祉関係の仕事をする。」と提言されている。


確かに、「みんなのお蔭」発言が多かった。この事実をどう受け止めるのか。私は、“これこそ仏教的な考え”とは思わない。もちろん無関係ではない。

私の仮説は次の通りです。一般社会にしろ、スポーツ選手社会にしろ、むかしは共同体的感覚が、空気の様に当たり前に存在して、そのことを強く意識しなかった。ところが現代は、一般社会の中での共同体的感覚は失われ、逆にオリンピックに出ようという人に対しては、昔以上に国家や社会がバックアップをしている。その事実が「みんなのお蔭」感覚として言葉となったのでしょう。(続く)
コメント
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