仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

「葬儀の消費文化」化

2014年02月11日 | セレモニー
以前、ブログ(2009.4.9)で、下記の事を書きました。

それと次のことが本文趣旨です。近年、葬儀式で色花を多くもちい、ナレーションや映像で故人をしのぶといった演出がなされるようになりました。葬儀には2つのベクトルがあると思います。1つは、諸行無常という大自然の摂理に悲しみを通して交応していく、欲望が否定される方向性を持った演出です。もう1つは、欲望を肯定する、つまり故人への思い出や名残惜しさを演出して、たとえそれが幻で気休めであったとしても欲望が満足されていくような演出です。

前者は形式でいえば、色花は用いず悲しみや悔しさを損なうことのない演出が求められます。後者は色花に代表され、その極まりが感動葬儀です。わたしは感動葬儀に接して、葬儀が変わると思った内容は、あきらかに葬儀式が欲望をどう演出するかというベクトルに動いているという直感でした。そのことは善悪ではなく、現実に起こっていることとして仏教者は理解し、自分のなすべきことをその中で工夫し実践しなければなりません。言うまでもなく大自然の摂理に悲しみを通して交応しくための何ものかです。(以上)

“葬儀式が欲望をどう演出するかというベクトルに動いている”これは、当たっているでしょう。『月刊住職』(2014.2月号)に内藤理恵子氏(宗教学者)が「葬儀に花ばかりがはばを利かすようになった訳」を執筆されていました。

要点は、葬儀がビジネス化され、その結果、「自身で故人のために選択し、花を供える、故人を好きな花でかざる」といった顧客の欲望を刺激し「葬儀の消費文化」化であり、葬儀社の思い通りにコントロールされていると指摘されています。内藤さんは、紙面で宗教者不在の葬儀のありようを否定されていて『月刊住職』への執筆なので、配慮されたものでしょう。

現場の僧侶の一人として、内藤理恵子氏の指摘はありがたいと思います。と同時に、“葬儀式が欲望をどう演出するかというベクトルに動いている”ことによって生まれる人間性の変質や宗教感の移り変わりまで、論を深めていただけたらを思ったことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする