仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

浜の真砂は尽くるとも

2013年03月27日 | 日記
産経新聞(25.3.27)に曽野綾子さんが、バチカンのフランシスコ新法王の聖フランシスコの名前の由来となる12世紀のアッシジの聖フランシスコについて執筆されていました。

その中で“フランシスコの「平和の祈り」は人間の作った祈りの中で最高の名作といえる”と、その平和の祈りを紹介されてありました。

日本での宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」に平和の祈り類する願いがあるので、興味ある内容でした。

「平和を願う祈り主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください,憎しみのあるところには愛を、いさかいのあるところには赦しを、分裂のあるところには一致を、迷いのあるところには信仰を、誤りのあるところには真理を、絶望のあるところには希望を、悲しみのあるところには喜びを、闇のあるところには光を、もたらすことができますように主よ、慰められることを求めず、慰めることを求めさせてください、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを求めさせてください、自分を捨てて初めて自分を見いだし、赦してこそ赦され、死ぬことによってのみ、永遠の生命によみがえることを深く悟らせてください」

この「平和の祈り」は、ダイアナ妃の葬儀のときも歌われたとあります。

願いのついては浄土経典にも、様々な言葉で説かれています。阿弥陀さまの願いは「恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめん」とあり、ガンジス河の砂の数よりも多くの人々を救うという広大なる願いです。

親鸞聖人は、その阿弥陀様の願いに開かれることは、「逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」と讃えておられます。砂の数ほどの私の苦しみの種が、阿弥陀さまの功徳の中に転じられていくというのです。

話が飛びますが、江戸時代には、この「恒沙」(ごうじゃ)という言葉が、一般にも流布していたようで、京都三条河原で釜煎の刑に処せられた石川五右衛門の辞世の句は、「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽きまじ」というものです。浜の砂の数よりの、盗人の種の多いというのです。盗人の辞世の句に、仏教的な内容が出てくるところが、江戸時代らしく感じられます。

浜の真砂ほどの苦しみに寄り添う。これが仏教徒の願いでなければならない。これは自戒として。
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