仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

セクハラがなぜ悪いの?

2013年03月26日 | 日記
毎月の出向している会社の法話会、話すごとに自分のお説教下手が思い知らされます。やはり、しっかりと起承転結を考えていかないといけないと反省ばかりです。

帰り際、駐車場まで見送ってくださった社長さんとの会話でした。

「あれ、先生、車変えましたか」(*3.4日前に乗り換えたホンダの軽ボックス)
「はい、前の車(*やはり軽)、10万キロになったので…」
「この車の部品に、私のところ製品がずいぶん入っているんですよ」
二人で爆笑。

いまなぜ爆笑したのかを考えると、その私が乗っている車に会社の部品が使われている事実を知る以前から、私の車と会社が繋がっていたことへの“落ち”に対して爆笑なのだと思います。

こうした当たり前のことを“なんでだろう”と考えると思わぬ発見があります。

説教を終えて自坊へ車で帰る途中、例によって放送大学を聴くともなく音を流していました。講義の内容は「セクハラ・パワハラ」についてです。

ラジオを聴きながら妄想は続きます。セクハラは、昔の方が日常的できつかったに違いない。それが今なぜ問題となるのだろうか。もちろん雇用機会均等法が改正(1997)によって、セクハラ関係の条文が新設されたこともあるだろうが、社会の、良いも悪くも、ある種の壁がなくなって、上司と部下との間で、昔やっていたネタが、セクハラと訴えられることもある。

女性側からすれば、「昔は言いにくかった」「不快だったが自分の評価のために我慢していた」というかも知れない。やはり会社の雰囲気や人間関係よりも、“私の主観”を大切にされる現代性だろう。などなど妄想は続いていきました。

もっともシンプルに「セクハラは、なぜいけないのか?」と考えると、法律で禁止されているからでは心もとない。
ネット(http://www.wakuwaku-palm.com/000321.html)で見ていたら、次のようにありました。

マズローの欲求5段階説では、人は仕事を通じて
「周囲の人と温かい関係を築きたい」(所属と愛の欲求)、
「価値ある存在として認められ尊重されたい」(承認・自尊の欲求)、
「自分らしさを発揮したい」(自己実現の欲求)といった気持や欲求を持っています。
そこにセクハラなどのハラスメント(人権を侵害する発言・行動)が起きると、ハラスメントを受けた方は仕事へのモチベーションが著しく低下してしまいますので、良好な職場環境を築き、ES(従業員満足度)を高めていくためには、職場からハラスメントを
無くさなければなりません。
(以上)

とありました。ハラスメント(人権を侵害する発言・行動)の問題は、主観的な問題なので、問題は多く含んでいますが、仕事へのモチベーションが下がることはいえます。

仏教法話を取り入れている病院の看護師が、仏教法話関係の仕事に従事させられることは、一種のパワハラだといったそうですが、その人のモチベーションが下がるという点はあり得ます。コンセンサス不足は否めませんが、パワハラはセクハラの問題よりも考えなければならないことが多そうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする