二畳庵庵主の戯れ言

一輪の桜に従い野に。ついに2015年、人生の第三ステージの場・高知に立つ。仁淀川に魅せられたオヤジの戯れ言日記。

片鱗か…

2013-01-08 22:16:13 | 徒然に想う
ノアのことを考えてたら、「その時」に備えるのは「自身」だけでなく、「周囲」も始めるのではと思えてきた。もちろん、老犬ノアの事を考えてのことだから、どこまで広げられるか、一概に言えない。が、人間が例外ということもあるまい。すると、第三次の総括の中で登場していただいた三人の小母さんたちの話が別な角度から見えてきた。

彼女たちの「寂しい」は「周囲」が始めた「準備」を感じ取ったからではあるまいか。「自身」、そんな事するんじゃないよ、と言いたい。でも、「周囲」は決して意図的に行動にしてるわけじゃないから具体的になにもない。「自身」は言いたい、が、根拠…。尚更、何かを感じる。

暖かいだろうと毛布を小屋にかけるが、動かない姿は見たくない。もし動かない姿を見つけてしまったら…。近くにいたいが、目をそらす。そんな「周囲」の行動は、意図されたものじゃない。でも、それは連綿と遺伝子で受け継がれてて、知らずに「自身」が自然と「周囲」から伝わってしまう。

「このこと」は、老犬ノアだろうと、庵主だろうと小母さんたちだろうと誰にでも平等にくる。ただ、偉大な違いが一つある。ノアはその事を含めあらゆることを素直に受け入れてる。一方、我々はどうしてか受け入れてない、長い長い「準備」を要する。…あぁ、庵主は果たしてどれくらいあがき続ける必要があろか。





今日の一枚:やっと今日が終わった。22時頃、家の近く。シャッターを切った時、携帯を落とした。