骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

櫻木神社を骨で聴く

2013-05-28 12:36:45 | 骨で聴く巡礼旅

 千葉県野田市の最古の神社・櫻木神社へ最先端技術の骨伝導ヘッドセットともに参拝に行きました。意外にも千葉県では野田市を取り上げる機会が多く、今回も慣れ親しんだ常磐道の柏インターから国道16号線を北上していきました。

 櫻木神社は、社記によれば平安朝の仁寿元年(851年)に、大化の改新で活躍した大職冠藤原鎌足公五代の後胤で、冬嗣公三男の嗣良公が、この地に居を移した時、この処に桜の美しい大木があり、公がこれの木のもとに倉稲魂命を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりといわれています。

 冬嗣公の八男・良世公の孫にあたる藤原則忠氏(高梨相模)が祭祀を継承し、現在の宮司まで続いているといわれています。
 歴史に彩られた神社であることが分かります。

 神社の名の由来となったのは地名です。
 古来よりこの地は、「桜木」や「桜台」と呼ばれていたようです。それだけ、古代より桜が咲き誇る美しい里だったようです。
 現在の神域は鎮守の森が広がり、とても気持ちの良い空間を保っています。住宅街にありながらも境内に一歩足を踏み出すだけで非日常の世界へ入り込むことが可能です。

 歴史ある神社と最先端の骨伝導技術は、その気持ちの良い空間に広がる音声を耳だけでなく骨からも脳へ伝えることで、見事に調和する感じです。骨から脳へと伝わる音声が、癒し効果とともに全身に伝わる感じがします。

          ⇒ 最先端技術の骨伝導

 野田市は醤油でお馴染みの都市ですが、実は意外な見所があることを今回改めて感じました。この櫻木神社も穴場スポットです。

竹田扇之助記念国際糸操り人形館を骨で聴く

2013-05-23 17:00:34 | 骨で聴く体験記
 信州伊那谷の中心都市である飯田市は、骨伝導ヘッドセットともに何度も骨で「聴く」体験をしてきました。今回も飯田市での新しい発見と体験をお伝えします。

 伊那谷は主要街道を木曽谷に奪われてはいたものの、距離的に京と江戸のほぼ真ん中に位置していたことから、京と江戸という東西文化が混在した街ともいえました。
 地形的には街の東西に高い山々が聳え、壁のような隔絶した雰囲気を出しつつも、中央を天竜川が悠然と流れる独特の都市でした。
 東西の複合文化は独自に発展もし、その代表格が300年のあいだ脈々と続く黒田人形、今田人形等の人形芝居です。

 その伝統的な人形文化の中で、竹田扇之助は平成2年に故郷の飯田市に移り、竹田練場を再建しました。さらに、国内外で収集したコレクションも含めて練場を飯田市に寄贈されました。
 この竹田氏代々の功績を記念し、竹田扇之助記念国際糸操り人形館が誕生したのです。平成10年8月、第20回人形劇カーニバル98、1998世界人形劇フェスティバルにあわせ、人形館は建てられたました。

 エントランスホールから渡り廊下を通り、展示ホールへと足を踏み入れると、そこは舞台となっています。舞台のすぐ下にテレビがあり、動画が放映されていました。観客の一人となり、骨伝導ヘッドセットを使って鑑賞してみます。

 伝統文化を今に伝える場所ですが、ここは最先端の展示ホールであり、実に心地よい空間です。高齢の方にはボリュームが小さいかもしれませんから、骨伝導ヘッドセットは実に重宝することでしょう。米軍で採用された特許技術を使って、人形芝居を多能するのは快適といえます。

          ⇒ 高齢者の難聴対策に特許技術の骨伝導機器

 伊那谷に根付いた独特の人形文化を骨で聴き、観光スポットとしては穴場的なことを認識するに至ります。お勧め場所です。

大原稲荷神社を骨で聴く

2013-05-17 18:58:20 | 骨で聴く巡礼旅

 久しぶりに地元である東京・世田谷区の神社へ骨伝導巡礼です。
 京王線の代田橋駅に近く、境内のすぐ隣が線路になっている聖域が大原稲荷神社です。環七と甲州街道が交差する渋滞のメッカ「大原交差点」からも近い距離です。

「せたがや社寺と史跡」によれば、天明2年(1782年)に伏見稲荷大社神官羽倉摂津守信邦の直書により勧請したと伝えられ、羽倉稲荷と称していたものが、訛って”はぐさ稲荷”と呼ばれるようになったといいます。
 
 現在の境内は都会の神社らしく決して広くはありませんが、古記によれば境内地は414坪であったともいわれるほどの広大だったようです。
 明治の時代から近隣の大原町、代田町の一部の鎮守となり、現在の社殿は昭和7年の改築によるものだそうです。

 すぐ隣を京王線の電車が疾走していく姿との対比が興味深く、参拝に行ってなんだか楽しい気分にまでさせてくれます。ただ電車の音が騒音にもなるため、そんなときは何を差し置いても骨伝導機器です。耳をふさがす。米軍の爆音の中でも通話を可能にした特許技術の骨伝導機器が光ります。

          ⇒ 米軍採用の骨伝導機器

 住宅地が広がる世田谷区ですが、大原はどうしても幹線道路と主要鉄道の狭間というイメージがあり、他の区内の神社とは異質な感じがしましたが、それでもわざわざ参拝にくる価値が十分にある場所でした。

 ちなみに今まで世田谷区内で骨伝導巡礼で訪れ神社は下記の通りです。今後も増えていくかもしれません。

          ⇒ 岡本八幡神社を骨で聴く
          ⇒ 野沢稲荷神社を骨で聴く
          ⇒ 代田八幡神社を骨で聴く
          ⇒ 赤堤六所神社を骨で聴く
          ⇒ 弦巻神社を骨で聴く
          ⇒ 駒繋神社を骨で聴く
          ⇒ 北沢八幡宮を骨で聴く
          ⇒ 三宿神社を骨で聴く
          ⇒ 太子堂八幡神社を骨で聴く
          ⇒ 若林天満宮を骨で聴く
          ⇒ 駒留神社を骨で聴く
          ⇒ 世田谷八幡神社を骨で聴く



河口慧海終焉の地を骨で聴く

2013-05-15 12:38:37 | 骨で聴く癒しの世界

 僧侶であり探検家でもあった河口慧海は、明治の時代に日本人としては初めてチベットを訪れた稀有な存在でした。

 1897年(明治30年)にシンガポール経由で英領インドカルカッタへ入り、チベット語をマスターしました。その後、1899年(明治32年)、ネパールの首府カトマンズに到着、続いてポカラやムクテナートを経て、徐々にチベットへと進んでいましたが、警備が厳しく国境近くで進めなくなりました。

 その地の村でチベット仏教や修辞学を習得したのち、1900年(明治33年)7月4日、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を越え、ついにチベットへと入ることができました。

 翌年にはチベットの首府ラサに到達し、セラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されることになりました。支那人と偽っての入国でしたが、大学への入学はチベット人と騙ってのものでした。
 
 その後、セライ・アムチー(セラの医者)といわれるような有名人になっていきました。その結果、ついに法王ダライ・ラマ13世に召喚されるようになり、侍従医長から侍従医にも推薦されたようです。
 しかし、河口慧海は仏道修行こそが本分であるとして、この推薦を断っています。

 1902年(明治35年)になると、チベット人でないという疑惑も現れたことから、ラサ脱出を計画し、インドのダージリンまでたどり着くことになりました。

 日本への帰国はおよそ6年ぶりでした。
 この記録こそ、日本人として史上初のチベット紀行となりました。
 
 河口慧海が再びチベットへ行っていたのは1913年(大正2年)~1915年(大正4年)の間でした。このときにチベット語仏典を蒐集することに成功し、民俗関係の資料や植物標本なども収集してきました。
 これらの大量の民俗資料や植物標本は、そのほとんどが東北大学大学院文学研究科によって管理されているそうです。

 帰国後の河口慧海は、1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行しました。これは一大センセーションを巻き起こしたほどでした。また、大正大学の教授にも就任し、チベット語の研究に対しても多大な貢献をしました。

 太平洋戦争が終結を迎える半年前に、脳溢血を起こし、東京世田谷の自宅で死去しました。晩年を過ごし、終焉の地となった世田谷の自宅跡は、現在の住居表示では世田谷区代田2-14になり、「子どもの遊び場」となっています。小さな公園で、その片隅に終焉の地の顕彰碑が設置されています。

 静かな住宅街に立ち、はるか遠いチベットに思いを馳せながら骨伝導ヘッドセットを装着してみます。周囲の音声が耳だけでなく骨からも聞こえてきますが、その音は日常的、あまりに日常的なものです。
 ある意味で河口慧海の偉大さを感じながらチベットへと夢想する「心」に、気道音では届かいない骨伝導が語りかけていることは、現代の日常の一部としての癒しなのかもしれません。

          ⇒ 耳をふさがない骨伝導機器

 終焉の地の顕彰碑は、本当に目立たない場所にあり、住宅街の中でしかも袋小路の先にある遊び場に入り、さらにその奥にまで行かないとたどり着きません。河口慧海がチベットへと入った苦労には遠く及ばないことですが、この牌を見つけつる苦労くらいは共有できたらとおもいます。