骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

下保谷天神社を骨で聴く

2014-01-31 17:50:24 | 骨で聴く巡礼旅
西東京市は保谷市と田無市が合併してできた市ですが、旧保谷市の西武池袋線保谷駅とひばりヶ丘駅の間で、池袋線より北側は陸の孤島といった印象が強い場所でした。
二つの駅間の北側エリアは道路が狭く、バス路線がなかったからです。
現在では市が運行するコミュニティバス「はなバス」が、狭い道路を通行しています。

そんなエリアにある天神社は、保谷市のさらに前身である下保谷村の総鎮守社です。
歴史は古く、天正期(1573-1591)の初めの創建と推定されています。

江戸時代終盤の慶応4年(1868年)までは、日蓮宗の法華神道にもとづく三十番神を祀っていました。
天神社になったのは、明治維新政府が明治元年(1868年)に発令した神仏分離令、次いで発令した「法華三十番神禁止」によります。

三十番神とはあまり聞きなれないかもしれませんが、日本の神祇の中から善神三十座を選んで、その神々が1か月30日間、番代りに日蓮宗の信徒を守護するという信仰思想に依るものです。
享和元年(1801年)から、境内に番神に近縁の摂社として、菅原道真石像を神体とする天神社が祀られるようになりました。現在では境内西の旧社殿です。
なぜ道真が番神の摂社として祀られていたのかというと、善神三十座中に天満天神、つまり菅原道真が配列されていたからです。

このことから禁止令にあった氏子たちは、菅原道真石像を本殿に移し、三十番神の社号を天神社に改めたということです。

新編武蔵風土記稿では、下記のように記されています。

三十番神社
除地6段、2間四面、村の鎮守なり。勧請の年暦詳ならざれど、社地に松杉檜等の古木あまたあり。古趾なるべし。前に鳥居を立つ。石燈籠南基及許の題目塔あり。村内福泉寺の持。
末社。
下保谷天神社。本社の左にあり。小祠。神体は石佛なりと云。


下保谷村は日蓮宗下総中山門流の宗派圏に入り、村人たちはすべて法華の信徒となったとも伝えられています。江戸時代末までの神社は神仏習合でしたから、祭礼では題目を奉唱していたようです。

実際に訪れてみると、静謐な印象の神社でとても気持ちが良い感じです。
静寂の中、耳だけではなく骨伝導で周囲の音声を聞いて、おもむろに参拝です。

     → 天神社の参拝には骨伝導

実を言うと、大学生時代にバイト先への通勤でよく前を通っていた神社です。25年以上も昔の話です。今回は当時の思い出も蘇ってきました。

安藤記念教会を骨で聴く

2014-01-29 11:25:18 | 骨で聴く巡礼旅
1918年(大正7年)に安藤太郎が、文子夫人の遺志をつぎ、自宅を日本メソジスト銀座教会安藤記念講義所として献げたのが始まりとされる安藤記念教会は、メソジストの伝統をもつプロテスタントの教会です。

元麻布の高台にあり、高級住宅街で一際目を引く大谷石とステンドグラスの礼拝堂は、この 地域の価値をより高めているかのようです。

今回は、そんな安藤記念教会へと最先端の骨伝導機器とともに訪れました。

名前にあり、創立者である安藤太郎は、函館戦争で榎本武揚に従軍しました。その後 明治政府の大蔵省、外務省に登用された人物です。そして1886年(明治19年)には初代ハワイ総領事に就任します。
このハワイでキリスト教と出会います。文子夫人とともに洗礼を受けるに至ったのです。

この教会のシンボルともいえる礼拝堂は、東京都歴史的建物No.65として選定されています。
1917年(大正6年)9月に献堂式を行ったもので、貴重な建築物です。
大谷石を使った建物で、通り沿いには、ステンドグラスをはめこんだポインテッドアーチが見え、タワー部分が設けられています。

この礼拝堂を設計したのは吉武長一で、彼はペンシルバニア・テクニカルカレッジで建築を学んだ人物です。関東大震災で焼失した銀座教会の設計も手がけた建築家です。

ステンドグラスは小川三知の製作によるものです。礼拝堂後方の大きなステンドグラスには「ハワイ初回受洗者」を記念する文字が和英両方で書かれています。
このステンドグラスも緑色を主調としながら、赤を要所に用いた作品で、とても貴重な価値があります。

各国の大使館が多いエリアでもあり、異国情緒もある元麻布の地には、何とも似合った風景の一部となっています。

そんな教会を前に最先端の骨伝導機器を使って、耳だけでなく骨か脳へと音声を伝えてみます。荘厳な雰囲気を助長させ、癒し効果を増加した気分です。
しかし骨伝導製品の性能が低ければ無理だったでしょう。米軍採用の特許技術を使った骨伝導機器だからこそ、といえます。

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骨で聴く巡礼旅は、時々しかキリスト教の教会は登場しませんが、実は教会も大好きなので、もっと骨で聴いてみようかとも思っています。

正覚院を骨で聴く

2014-01-28 10:38:05 | 骨で聴く巡礼旅
豊島八十八ヶ所霊場第7番札所の正覚院は、練馬区豊玉南にあります。
すぐ近くに環七通りがありますが、疾走するクルマが行きかう場所の近くであることを完全に忘れさせてくれる静寂さと、見事なまでの荘厳さを出しています。

最先端技術を濃縮した骨伝導機器とともに訪れました。

正覚院は真言宗豊山派で、天満山観音寺と号します。
長禄年間(1457-60年)の江戸城築城に際し、外濠に住む一農家を立ち退かせるにあたり、かつて太田道灌の信仰していた天満宮の別当に、この農民をあて、当院を創建させたといわれています。従って、市ヶ谷から立退かせた一農家が開基檀徒ということになります。




明治時代には、廃仏毀釈や火災の影響で境内は一部を失いました。
そのときに寺記・寺宝類は焼失しましたが、寛永年間(1624-44年)から記載のある過去帳と、300年以上経過したと思われる制作年代不明の涅槃図(文政7年修復)は残りました。

無住の時期を経ることになりましたが、明治10年代には、地元有力者の奔走によって本堂等が再建されることになりました。そして、明治14年(1881年)には成田講も組織され、境内に石造不動明王を祀るようになりました。

昭和の時代に入ってからは、有志によって、不幸な厄にあった8人の幼児の霊を供養するための八子地蔵尊も建立されました。

練馬区の住宅街の中にある寺院としては寺観がもの凄く素晴らしいのは、本堂や観音堂が綺麗に改築されているのと、平成3年に建立された多宝塔、さらに庭園の整備が渾然一体となっているからだと思います。



弘法大師像も多宝塔とのコントラストが見事で、都内在住者であれば一度は訪れる価値のある景観を堪能できると思います。

それでも少し歩けば環状7号線の交通量と騒音を体感します。
やはりここでは耳を使わない骨伝導機器の出番です。
ついに「7周年記念全額返金保証キャンペーン」も終わりを迎えます。在庫もごくわずかになりました。こんな寺院を訪れる際には、ぜひとも骨伝導機器をお勧めします。

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耳を使わずに骨から脳へと伝える音声とともに、こんな穴場スポットへの旅はまだまだ続きます。

竹ノ塚駅を骨で聴く

2014-01-27 11:09:20 | 骨で聴く鉄道駅
東武伊勢崎線の「東武スカイツリーライン」の愛称区間にある竹ノ塚駅は、いつも素通りする駅ですが、実はクルマではこの近くに何度も来ています。
竹ノ塚駅から日光街道を越えた先の公園に足立区生物園があり、まだ子供が小さかった頃に何度も連れてきていたのです。小さな水族館と侮ることなかれ、日本一の淡水大水槽は、幅7m深さ2.5mで、水中植物の眩いばかりの緑が森のように広がっています。知る人ぞ知る穴場スポットです。

さて、骨伝導機器とともに降り立った竹ノ塚駅ですが、各駅停車の電車しか停車しません。そのため下車する機会に恵まれなかったのですが、実はデータを見て驚きました。

1日平均乗降人員が72,407人で、伊勢崎線の駅としては、北千住駅、新越谷駅、とうきょうスカイツリー駅、草加駅、春日部駅に次ぐ第6位なのです。他の駅は優等列車の停車駅ですから、必然的に東武鉄道全線中で各駅停車しか停車しない駅では最も多い乗降人員になります。
しかも、驚くべきことにスカイツリー効果がない時代で、2007年度以前となると、北千住駅、新越谷駅に次ぐ第3位の数を誇っていたのです。

乗降客の減少も、人口が減少したことではなく、近隣につくばエクスプレスの六町駅と、日暮里・舎人ライナーの開業ということが大きく影響しているようです。

この駅周辺で思い出すのは踏切事故です。
2005年(平成17年)3月15日に遮断機誤開による事故が発生し、2人が死亡、2人が怪我をしました。それまでこの踏み切りは、踏切保安係が手動で踏切の操作を行うというものでしたが、自動化することになりました。
この事故で踏切保安係の係員は逮捕され、実刑を受けるに至ったということです。

そんな竹ノ塚駅に降り立ち、周囲の音声を耳だけでなく骨伝導でも聴いてみて、その当時の悲劇を思い浮かべて見ます。踏切事故の教訓かた高架化へと進む駅周辺は、まだまだ冬の冷たい風の音が骨伝導で聞こえてきました。

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普段、降り立つ機会のない駅に来ると、それだけで旅情を感じるのは、耳だけでなく骨からも音を聴いているからでしょうか。

田安・鎮護稲荷神社を骨で聴く

2014-01-22 11:17:06 | 骨で聴く巡礼旅
都内をいつも移動していて、気になるけど立ち寄っていない場所というのが、いくつかあります。今回はその中の一つ、田安・鎮護稲荷神社へと骨伝導ヘッドセットとともに参拝に行きました。

新宿から明治通りを超え、トンネルを抜けた先にある大きな交差店が四谷四丁目交差点で、外苑西通りと交差し、靖国通りと分かれた新宿通りが合流します。
この交差店北側に田安鎮護稲荷神社の看板が見えます。
ところが周囲に神社らしきものがなく、以前から気になっていました。

今回、看板横の小さな道を進んでみました。やはり神社がある雰囲気ではありません。
やがて道路は直角に右に曲がることになり、この角に小さな社が目に入ってきました。ここが田安・鎮護稲荷神社でした。

四丁目25番地から現在の15番地に御遷座されたようです。まだそれほどの年月はたっていないとのこと。

この番地にはパークアクシス四谷ステージというマンションが建設されていて、所有者の三井不動産株式会社がマンション敷地内の緑地帯の一部に稲荷社の建設用地を提供したということでした。

小さいながらも歴史のある神社でした。
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の次男・宗武が、享保14年(1729年)に田安家の家祖となり江戸城北の丸に居を構えました。そして宝暦6年(1756年)に四谷に下屋敷をつくり、田安神社をお祀りしたというものです。
田安徳川家は徳川吉宗が作った御三卿(田安・一橋・清水)の一つです。

もう一つの名称である鎮護稲荷神社は、柳生家下屋敷にあった小詞だったようです。この町の人々は田安神社と同じように大切にお守りしていたことから、戦後になって両社を合祀したとのことです。

近くを幹線道路に囲まれたエリアですが、ここは意外と騒音がなく、小さな都会の神社としては風格が感じられます。
耳だけでなく骨伝導を使って周囲の音声を聞き、徳川の歴史とともにこの神社に歴史に思いをはせます。
東京オリンピックが再び開催され、新たに変わり逝く東京を見守ってくれるような感じです。

さて、米軍採用の特許技術を使った骨伝導製品の全額返金保証キャンペーンですが、ついに最終段階に入りました。今週中には終了するかもしれません。

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この神社の参拝で、ようやく今年のエンジンが始動した気分です。

市谷亀岡八幡宮を骨で聴く

2014-01-16 11:23:04 | 骨で聴く巡礼旅
下伊那赤十字病院のお見舞いから、岡谷で修理を完了した愛車を受け取り東京へ帰ってきたものの、祖母の容態が急変して永眠となりました。そのため、東京での仕事を濃縮バージョンで行い、今度は通夜と葬儀のため再び伊那谷へと向かうことになります。

そんな慌しい中、靖国通り沿いの市谷亀岡八幡宮へ骨伝導ヘッドセットとともに参拝によりました。

文明11年(1479年)に、太田道灌が江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりといわれています。
かなりの存在感のある神社です。

八幡宮ですから、祭神は神功皇后と応神天皇です。
応神天皇は、大陸文化の輸入にも熱心だったようで、百済から王仁がきて、論語十巻と千文字一巻を献上されたり、儒学もこの頃に伝えられたといわれます。

そして酒造りの名人である須須許理も日本にやってきました。
須須許理が、腕によりをかけてかもした酒をささげますと、天皇はその甘露に酔われ、すっかり上機嫌になられたといわれます。

この須須許理の酒こそが、日本では最初の醸造酒となりました。
それまでのは、原始的な”口噛み酒”で、コメを噛ませて醗酵させるものだったのです。



亡くなった祖母も造り酒屋でした。
そんな縁から市谷の亀岡八幡宮に参拝し、感慨にふけってみました。

創建当時は、市谷御門の中にあったようですが、その後に荒廃し、寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転しました。

江戸幕府3代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、神社が再興されました。例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったといいます。

その後は明治に神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となったりして、かつての賑わいはなくなっていきました。さらに太平洋戦争による戦火により神木も含めて焼失してしまいます。

再建されたのは1962年です。比較的新しいといえます。

境内で耳だけでなく、骨伝導によって周囲の音声を聴きながら祖母との別れに向かうことにしました。
そんな状況ではありますが、特許技術の骨伝導製品は7周年記念の「全額返金保証キャンペーン」が残りわずかになっています。

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都内ではぎりぎりまで動き回る予定ですが、クルマで3~4時間かかる場所なので、こんな神社で一息できるのは貴重なときでした。

伊那大島駅を骨で聴く

2014-01-14 10:27:40 | 骨で聴く鉄道駅
久しぶりにJR飯田線の駅を訪れました。
もちろん米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットと一緒です。

この駅は長野県下伊那郡松川町元大島にあり、この町の中心部に近い立地にあります。松川町は大島村と上片桐村が合併して発足したもので、中央アルプスから流れる片桐松川が待ちの名の由来です。

その大島地区にあるのが伊那大島駅になるわけですが、現在は飯田駅管理の簡易委託駅になっています。業務を受託しているのが松川町で、典型的な地方の駅といった感じです。それでも2013年3月31日まではみどりの窓口も設置されていました。

天竜川河岸段丘の端に駅がある関係で、駅前は断崖です。駅舎を出ると道路を挟んで段丘の壁があり、またホームからは天竜川を挟んで南アルプスの山々が一望できます。

伊那谷らしい景色が広がり、のどかな雰囲気が実に快適です。
耳だけでなく骨からも周囲の音声を聴き、旅情気分が満喫できます。
7周年の全額返金保証キャンペーンも在庫数がわずかになりましたが、この機会にぜひ補聴器代わりや騒音対策とは全く別に、骨伝導の驚異のパワーをこんな駅で感じてほしい、と純粋に思います。

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飯田線の駅は「秘境駅」が有名になっていますが、こんな生活感のある駅からの雪を被った山々の眺めもお勧めです。

諏訪大社神宮寺を骨で聴く

2014-01-10 11:12:49 | 骨で聴く巡礼旅
諏訪大社上社本宮二之鳥居前から御手洗川に沿った上り坂があります。諏訪大社へ参拝に来る人は多いものの、この坂を上がる人は少ないようです。

まもなく法華寺の山門前に出ます。
ここから先は諏訪大社の神宮寺跡地に入ります。

神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して造られた寺院のことです。
諏訪大社の場合は、古事記や日本書紀でおなじみの逸話から出雲との関係で成り立つ古社ですから、神宮寺はかなりの後発となります。

しかし諏訪大社の神宮寺はかなり栄えていたようです。
ところが明治以降の廃仏毀釈により、繁栄していた諏訪大社の神宮寺も、現在では法華寺を除き全て取り壊されています。



この神宮寺ですが、弘法大師創建と伝えられるもので、真言宗でした。
さらに神宮寺奥殿は普賢堂で、坂上田村麻呂が開創、弘法大師・空海が現在地に移したともいわれます。

五重塔は普賢堂の西にありましたが、今では跡地だけが残っています。丁度、今の季節は雪があるため白い空間だけを目にしました。

史料によると、享保18年(1733年)には、神宮寺、五重塔、普賢堂、神洞院、如法院などがあり、本宮境内には如法堂、蓮池院などがあったとされています。

現在は神宮寺跡は公園となっています。マレットゴルフ場にもなっています。
残念なのは普賢堂跡などはマレットゴルフのゴール地点になっていることから、貴重な遺跡が踏み荒らされた状態になっています。

諏訪大社上社本宮の周辺は宅地化も多くされていますが、さすがに神宮寺跡地には宅地開発せれていません。それでも何となく残念な気持ちになります。

ちなみに唯一残存する法華寺ですが、ここはここで歴史の一幕があった寺院です。

甲斐の武田氏が諏訪明神を篤く信仰していたのは有名な話ですが、武田勝頼を滅ぼした織田信忠は、諏訪大社上社の全てを焼き払いました。
陣所とした法華寺に乗り込んだのが織田信長です。

このとき、目の前に広がる太古から続いてきた諏訪大社の灰じんと化した光景を見ています。今でも伝統的な神事として続く御柱も焼き焦げていたでしょう。

霊験あらたかな諏訪の大切な神域を崩壊させ、その凶器を目の当たりにした人々は、その後、2ヶ月後に本能寺で自害したことを、諏訪明神の神罰として考えていたようです。

ちなみに本宮の四脚門は、徳川家康の寄進によって造営したようです。

     → 諏訪大社上社本宮を骨で聴く
     → 諏訪大社上社前宮を骨で聴く
     → 諏訪大社下社春宮を骨で聴く
     → 諏訪大社下社秋宮を骨で聴く

雪のある神宮寺跡地にて、骨伝導機器を使って周囲の音声を骨で聴いてみます。
歴史の声が聞こえません。
ただ冷たい風の音が耳ではなく、骨から脳へ伝わるだけです。

でも、諏訪大社へ参拝に来たら、ぜひここまで足をのばすことはお勧めします。
その際に、骨伝導ヘッドセットはお忘れなく。

いよいよ7周年記念「全額返金保証キャンペーン」も残り少なくなりました、諏訪大社へ参拝に行く前にぜひこのチャンスを活かしてください。

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三菱・ディオンを骨で聴く

2014-01-07 11:59:02 | 骨で聴く名車
シャリオシリーズがシャリオグランディスとなり、3ナンバー・サイズのクルマとなったことから、三菱自動車の5ナンバー・クラスのミニバンとして登場したのがディオンです。

     → シャリオグランディスを骨で聴く

プラットフォームは5ナンバー・クラスというだけあって、ミラージュから派生したミラージュディンゴです。これを全長とホイールベースを拡大し、最大で7人乗車を可能としました。もっとも、三列目のシートは臨時用のようなもので、大人がゆったりと座れるようなものではありません。

このクラスのミニバンとしては、背の高いボディが特徴で、エンジンは全車GDI搭載です。
デビュー当初のエンジンは4G63型2.0Lで、2年後にギャランとほぼ共通の4G94型へと換装されました。さらに1.8Lの4G93型ターボエンジンも追加されました。



初期のエンジンである4G63型といえば、源流となったのがG63B型エンジンで、初登場は1979年でした。そのため基本設計が古く、鋳鉄製シリンダーブロックにより重いという欠点があります。
しかし、ランサーエボリューションに搭載されるエンジンには、アルミ製ブロックを搭載して、軽量化を図っています。

基本設計が古く重いという欠点があるものの、耐久性、低中速域でのトルクフルな特性があり、ランサーエボリューションだけでなく、スタリオンのようなスポーツカーに活かされ、同時に、デリカにも、三菱ふそうのトラック・キャンターにも、さらには三菱重工のフォークリフトにまで搭載されています。
ここまで幅広い用途を生んだ汎用エンジンというのも珍しいといえます。

実際に運転してみると、シャリオグランディスよりもCDIらしさは感じないものの、かなり扱いやすい印象を受けます。悪く言えば「可もなく不可もなく」ということでしょうが、トヨタ車や、日産車、ホンダ車のユーザーにも大きな違和感はないといえます。
ただしミニバンとしてみると、少し中途半端な感じも受けます。

シャリオグランディスの独特な足回りとGDIらしさ削れ、ディオンには全体的なインパクトにかけますが、それでも骨伝導機器を使って快適にドライブできるでしょう。
車内では耳に装着するイヤホンやヘッドションは禁止ですから、GDIエンジンを堪能しながら、耳を使わない骨伝導ヘッドセットを使って、運転を楽しむのはベストです。

残り少なくなってきましたが、7周年キャンペーンにより「全額返金保証」をしていますので、この機会にぜひご利用ください。

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いろいろありましたが、三菱のクルマは他のメーカーにない魅力があるので、骨伝導製品ともども癖になります。

太田駅を骨で聴く

2014-01-06 18:01:32 | 骨で聴く鉄道駅
東武線の主要駅で、伊勢崎線、桐生線、小泉線の3路線が乗り入れている太田駅は。富士重工業(SUBARU)の企業城下町であり、北関東随一の工業都市の表玄関です。
実際、太田市は群馬県内では、高崎市、前橋市に続き3番目に多い人口を誇る特例市です。
東京都心からは北西に直線距離で約80kmという位置ですが、東武鉄道の始発・浅草駅から太田駅までは94.7kmになります。

島式ホーム3面6線の高架駅ですが、プラットホームの番線は10番まであります。
1番線と7番線、2番線と8番線、4番線と10番線はそれぞれ同じ線路を共有していて、6、7番線は単独になっているので、極めて珍しい構造といえます。この配線は京阪本線淀屋橋駅の1・4番線と同じ構造ですが、淀屋橋駅と決定的に異なるのは、番線ごとに閉塞が分割されていない点です。
また、以前の地上駅の時代には0番線がありました。



クルマの保有率が最も高い群馬県で、しかも富士重工業のお膝元ということから、駅の規模に対して乗降客数は決して多いとはいえません。1日平均乗降人員は10,329人です。
それでも群馬県内の東武線の駅としては館林に次ぐ第2位で、県庁所在地のJR前橋駅より多く、高崎駅の3分の1程度です。



北口には、タクシー乗り場の先に新田義貞と脇屋義助の銅像があります。
新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした地元の英雄という扱いになります。弟が脇屋義助で、ともに後醍醐天皇側の南朝で戦った武将です。

しかし天下をとったわけではなく、義貞は恒良親王と尊良親王を奉じて越前国敦賀へ下向したところ、戦死してしまいます。享年 38歳。
脇屋義助も義貞の戦死後も奮戦しますが、南朝勢力回復に至らず、伊予で戦死しています。

江戸時代には大光院の門前町・日光例幣使街道の宿場町として発達した街ですから、戦国時代以降は、武士の街ではありませんでした。そんな太田市の玄関口を、南北朝の新田義貞が見守る光景は、意外と風情があるのかもしれません。