骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

小網神社を骨で聴く

2016-08-05 12:25:06 | 骨で聴く巡礼旅
強運厄除と金運向上に絶大な効果を誇るといわれる都内有数のパワースポット・小網神社へ、米軍採用・特許技術の骨伝導製品とともに参拝にいきました。

知名度は高いものの、東京の日本橋オフィス街の裏手にある小さな神社です。都会らしい街並みではありますが、場所柄からか下町風情も残る風情が交錯した空間といえます。
そんな小さな神社が有名になったせいか、ビジネスマンから若い女性まで平日でも多くの人が参拝に来ています。



小網神社の歴史は長く、約1,000年近い昔まで遡れます。
武蔵国豊島郡入江に万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵が最初だといわれます。

文正元年(1466年)に周辺で悪疫が流行しました。
この大変なときに、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れたといいます。
数日間をこの庵で過ごし、ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕に立ったそうです。

網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することが告げられました。
翌朝、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げました。

そこで翁を小網稲荷大明神と称え、ここで万福庵から神社を創建しりことになり、日夜祈願を続けたそうです。
すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。



太田道灌もこの御神徳を聞き、この神社を詣でていたといわれます。
さらに土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。

慶長年間(1596~1615年)は、この神社にちなんで小網町という地名になりました。
明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離しました。
これでせ小網稲荷神社となり、戦後の宗教法人化に伴い小網神社となりました。



現在の小網神社で知られるは境内にある銭洗いです。
水瓶の斜め上から亀の像が見守っています。

そんな小網神社を骨で聴きます。
金運アップのパワースポットと米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとの融合です。

米軍採用・特許技術の骨伝導製品へ

下黒田諏訪神社・黒田人形浄瑠璃伝承館を骨で聴く

2016-08-02 13:10:12 | 骨で聴く巡礼旅
国選択無形民俗文化財になっている黒田人形浄瑠璃。
全国的に有名なわけではありませんが、黒田人形は歴史のある貴重なものです。

元禄年間(1688~1703年)に正命庵の僧侶・正覚真海が村人に人形を教えたのが始まりいわれ、寛政年間(1789~1800年)に、淡路の吉田重三郎が下黒田(現在の飯田市上郷)に定住し、人形を教えるようになりました。
天保3年(1832年)には、大坂から桐竹門三郎、吉田亀造が来て人形を教えました。
それだけ人形熱が高まったことで、天保11年(1840年)に旧舞台から四間に八間総二階の舞台「下黒田の舞台」(昭和49年重要有形民俗文化財指定)を再建しました。

人形浄瑠璃の専用舞台です。
しかも日本最大で最古と三拍子が揃うと評されている舞台です。



境内にこの舞台を持つ神社が下黒田諏訪神社です。

長野県飯田市は位置的に京都と江戸の間であり、東西のそれぞれの文化が複雑に定着してきた歴史があります。
おそらく黒田人形浄瑠璃もそんな土地ならではの独自の発展をしてきたのかもしれません。

境内にはさらに、黒田人形浄瑠璃伝承館もあります。



伝統人形浄瑠璃の雰囲気や周辺の環境に配慮しているせいか、無機質な建物ではなく、国産木材を使用した和風の木造建築となっているので、神社との調和が感じられます。

さて、下黒田諏訪神社ですが、石段を登り、鳥居を過ぎると左に直角に曲がって次の鳥居になります。
参道が90度曲がっているのは、地形的な問題ではない感じがします。
もしかしたら地元の大怨霊も祀られているのでは、と想像してしまいます。



二番目の鳥居からは真っすぐに参道が続きます。
社殿の手前右手に人形舞台があります。
1840年に建てられたものです。テコの原理を利用した構造で、舞台正面に柱がありません。

神社の社殿は、まず拝殿があり、その奥に覆屋に囲まれた内部に本殿があります。
この社殿もなかなかの雰囲気を出しています。



この神社に人が集まり、喧騒が静まり、人形浄瑠璃が始まる、そんな光景が繰り返し行われてきた諏訪神社は、真夏の午後、セミの鳴き声だけに包まれていました。

骨で聴きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導音声増幅器と、赤外線送信ユニットを組み合わせれば、コンサート会場で難聴者に音楽鑑賞を可能にしたシステムで、この人形浄瑠璃を堪能したいものです。

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