骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

神宮前 穏田神社を骨で聴く

2017-05-29 10:30:36 | 骨で聴く巡礼旅
JR山手線の渋谷駅からも原宿駅からも徒歩で約10分ほどの距離で、明治通りから少し中に入った場所に穏田神社は鎮座しています。
人で賑わう二つの駅の間に鎮座しているとはいえ、境内はひっそりとしていて穴場的な神社です。

社殿はあたらしく、平成10年に新築されたものです。
太平洋戦争の時代には、米軍により社殿を焼失したという歴史もあります。

米軍といえば、爆音でも通話を可能にする骨伝導ヘッドセットや骨伝導マイクなど、日本の特許技術が活かされています。
しかし当時は戦争の相手国。




神社としての歴史は1591年(天正19年)に遡ります。
徳川家康が本能寺の変の際、功績を収めた伊賀衆に対して、穏田を給地として与えられたという話が残っています。そこで祭祀が盛んに行われるようになったという説です。

社号は明治になって「隠田」から「穏田」に改められ、祭神を天神第六代の淤母陀琉神・阿夜訶志古泥神としました。
また村内にあった熊野神社を合祀し、相殿の櫛御食野神になりました。

「縁結び」「技術や芸の上達」「美容」のご利益がある神社といわれています。場所も渋谷区の神宮前なので、何ともありがたい聖域のように感じますが、それほその参拝者がいるわけではありません。

驚神社を骨で聴く

2016-12-03 13:05:23 | 骨で聴く巡礼旅
「馬を敬」を一文字にして社号にしたといわれる驚神社は、横浜市青葉区新石川に鎮座しています。




創建年代等は不詳ですが、武蔵國石川牧の総鎮守だったようで、江戸時代には石川村の鎮守社でした。明治6年には村社に列格しました。

石川牧には牧場があり、名馬がよく出た場所だといわれていました。社号の由来も頷けます。



その当時の石川牧の地域はかなり広範囲だったようで、境内に掲示されている由緒書を見ると、「旧都筑郡内は旧山内村石川・同荏田・・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鐡・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺・橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大字に亘れるものの如し」とあります。

昭和14年に横浜市に合併されますが、それ以前にはかなり広大な地域から崇敬を集めていたのかもしれません。

旧鎌倉街道もあったことから、源頼朝の臣・「畠山重忠篤く崇敬せり」と伝えられています。



境内には「力石」もあります。
また、横浜市指定無形民俗文化財になっているのが、牛込獅子舞です。




この驚神社と旧石川牧を激変させたのは、昭和42年に開通した東急田園都市線かもしれません。
のどかな「村」から「街」へと様相を一変させ、周囲の人口も瞬く間に1万人を超えたようです。そのため古くあからの住民よりも新しい人々に囲まれることになりました。

現在、社殿は大きなマンションに囲まれていて、東京郊外の典型的な住宅地という光景です。
しかし境内に立てば、古くから伝わる神域の雰囲気を今なお残しています。

耳だけでなく、骨でも聴きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットで、今は聞こえない馬の足音を空想で聴き、癒し効果を高めれば、まさにここが古くから崇敬された巨大なパワーを示していることに気づくかもしれません。

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東久留米・子ノ神社を骨で聴く

2016-11-30 11:31:02 | 骨で聴く巡礼旅

西武池袋線の東久留米駅からのどかな住宅街とその先の緑に囲まれた丘に連なる場所に、子ノ神社は鎮座しています。

 

旧小山村の鎮守です。

もともとは文禄元年(1592年)に、当時の領主・矢部藤九郎が本地仏として地蔵尊の勧請したと伝えられています。除地1町5段(4500坪)を有し、社地には槻・杉雑樹など繁茂していたといわれるような場所だったようです。現在でも武蔵野の面影が残る周囲は、十分に雰囲気を残しているといえるかもしれません。

拝殿の建立は文政元年(1818年)10月で、明治4年(1871年)、明治42年(1909年)等、数回にわたって修築がなされました。

 


社名はもともと「根神明神」だったようです。

のちに十二支の子を用い「子ノ神社」と変更されました。

この「子」は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われています。

祭神は出雲大社の祭神と同一神の大国主命です。国土開発の神であり、縁結び、子孫繁栄、五穀豊穣の神です。


創立者の領主・矢部氏とは、相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていました。

しかし江戸時代、・徳川幕府になってから、300石を賜って、この地・小山村の地頭となりました。屋敷跡は神社の西方だったといわれます。

 

東京郊外の東久留米市らしい立地に鎮座する小さな神社ですが、静寂の境内と丘から都市部を見下ろす爽快感で、何とも癒し効果抜群です。わざわざ訪れる人もいないでしょうが、何の意味もなくこの境内に佇むだけで大いなる付加価値を感じる場所です。

 


阿波洲神社を骨で聴く

2016-11-27 10:06:43 | 骨で聴く巡礼旅

西東京市は保谷市と田無市が合併した都市で、平成の大合併に先駆け、21世紀最初の新設合併による市とし誕生しました。

そんな旧田無市と旧保谷市が特に合併して不自然さを解消した場所があります。それが旧保谷市の新町です。

細長く旧田無市に入り組んでいた地域で、どこに行くにも旧田無市の地域を通らないと不便でならない場所でした。

 

そんな地域で岩倉高校の野球部に隣接して阿波洲神社が鎮座しています。

田無神社が兼務社になっています。

 

 

通り側から鳥居を潜り、社殿に向かうには90度右に曲がらないといけない構造です。

いわゆる参道と社殿の位置関係は「怨霊封じ」型といえます。しかし、この阿波洲神社の由来を見ると、怨霊系とは思えなくなります。

 

宝暦2年(1752年)に、紀伊国(和歌山県)の粟島明神の分霊を勧請し、粟嶋明神として創建されたといわれます。

粟嶋明神は紀伊国加太浦の淡島明神が総社で、祭神は女神の頗梨采女と粟=淡にちなみ、日本神話に登場する少彦名命になっています。

江戸時代には、浅草寺境内に祀られた淡島明神が当時の女性に人気でした。

この粟嶋明神も、拝殿前の鈴に下がる五色の紐を切って安産の腹帯にする習俗や、女性たちの針供養・捨雛が行われていたようです。

女神の特徴や庶民信仰の側面を持ち、開発途上の新田ではあったものの、独立した一村の鎮守神でもありました。そのため、年中行事は農耕神の少彦名を祀る神社として、全て村の農作の豊饒を祈念する儀礼だったようです。

 

かつて、この地域に武蔵野の原野を開拓するために、上保谷村の人々が移り住みました。

しかし、この場所は農耕に適した地所ではなく、苦労を強いられたといいます。

そんな場所に女性に人気で、しかも農耕神を祀る鎮守さまとして、この阿波洲神社は大きな役割を担っていたといえます。

 

ちなみに粟嶋明神から阿波洲神社になったのは、明治以降です。

しかし祭神に変更はありません。

 

そんな新田開発の鎮守の森で、周囲の音声を骨で聴きます。

騒音対策として、工場や現場作業の聞こえない悩みを解決してきた骨伝導スピーカーですが、このような歴史的な場所で使用することで機能性とは別の側面が現れます。おそらく脳波の問題でしょう。

米軍で爆音の中でも通話を可能にした特許技術が、全く異なる環境で全く異なる効能を生みます。

その秘密は実際に阿波洲神社で骨伝導体験により判明することでしょう。

 

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祐天寺を骨で聴く

2016-11-24 17:23:18 | 骨で聴く巡礼旅

東京の目黒区で寺院の名称が地名や駅名になっているといえば、祐天寺といえるでしょう。

目黒線の不動前駅も目黒不動が由来の駅ですが、祐天寺はそのものズバリの駅名です。

 

そんな祐天寺ですが、東急東横線祐天寺駅からは南下して駒沢通りに出た先にあります。

寺院の地名は東京都目黒区中目黒5丁目で、駅は目黒区祐天寺2丁目になります。

 

浄土宗の寺院で、山号は明顕山。

本尊は祐天上人像(本堂安置)と阿弥陀如来坐像(寄木造、阿弥陀堂安置)です。

 

 

地名になっているだけあって、この周辺では巨大な寺院といえます。

現在の本堂は常念仏堂として建立された堂宇を再建したもので、国の登録有形文化財になっています。

 

江戸時代の享保3年、増上寺36世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探すことになりました。しかし同年7月に祐天が亡くなってしまいます。

その祐天ですが、廟所を目黒の地に建立したいという望みがあり、祐海は目黒にある善久院を購入し、祐天の廟所と常念仏堂を建立再興したといいます。

そのときは損傷が激しかったようで、そのときの善久院が現在の祐天寺に発展するとは想像できないほどだったといえます、

 

 

祐天寺としては、享保8年(1723年)に寺号が正式に許可され、祐天を開山としました。

祐海は第2世となりました。

 

またこの祐天寺で特筆すべきことは、境内に大正天皇の生母である柳原愛子の墓があることです。

 

そんな祐天寺を骨で聴きます。

駒沢通りの喧騒と隣接しているものの、落ち着いた雰囲気に包まれています。

耳だけでなく骨からも周囲の音声を聞きとり、癒し効果を堪能できます。米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとの相性が良いようで、都会の寺院でありながら旅先で出会ったような気分も味わえました。

 

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東久留米市・大圓寺を骨で聴く

2016-11-14 11:24:58 | 骨で聴く巡礼旅

2012年にフジテレビ系列で放映されていた『鍵のかかった部屋』の第1話で、芹沢(佐藤浩一)や青砥(戸田恵梨香)の背景に映っていた木造の仁王門が東久留米市の大圓寺です。

東久留米市内では、曹洞宗の浄牧院、真言宗の多聞寺と並ぶ市内の古刹です。

大圓寺は普門山三皇院と号す天台宗寺院です。

 

江戸時代には、現在の東久留米市内の各村には天台宗寺院が多く栄えていたようです。しかし、大正時代の初めにはこの大円寺と宝泉寺の二ケ寺だけが残り、他はなくなってしまいました。

東久留米駅からは西口を出て清瀬・所沢方面に向かう西武池袋線に沿って北西に進み、踏切のある道路に出て左折、その先にある斜めに交差する通りを進んだ先にあります。

黒目川がのどかな流れを超えると、荘厳な姿の寺院が現れてきます。

 

 

東久留米七福神の恵比寿尊、福禄寿尊、寿老尊が山門に安置されているので、それだけで存在感が増した雰囲気を感じます。

東久留米市指定文化財も多くあります。

 

庚申塔(東久留米市指定文化財)
馬頭観音塔(東久留米市指定文化財)
石橋供養塔と力石(東久留米市指定文化財)

 

東京の郊外らしい風景と適度な規模、荘厳さを持つ大圓寺。

秋の陽ざしによくあいます。


宝禄稲荷神社を骨で聴く

2016-10-20 17:14:04 | 骨で聴く巡礼旅

何の変哲もない都会の神社に見えますが、世にも珍しい「ハズレくじ」供養の神社です。

宝くじの当選はもちろん、ギャンブルでの一攫千金、受験・合格、子宝、さらには選挙の当選などの勝運祈願に、ハズレくじを置いていく神社です。その名は宝禄稲荷神社。

金銀融通、一陽来復で有名な穴八幡宮の末社です。

 → 穴八幡宮を骨で聴く

 

 

新宿区の大久保通りに面した神社です。

鳥居から社殿までの間は、画像のように何の情緒もありません。

境内というより小さな駐車場という雰囲気です。

東京都神社名鑑による宝禄稲荷神社の由緒を見ると、当所に居住していた飯塚某が宝暦年間(1751-1763)に創建したという程度の情報しかありません。

 

しかし、社殿の横にある掲示板にこの神社の特殊性が書かれています。

 

 

ある男が富くじにハマってしまい、稼いだ金で次々に富くじを買いました。

しかし結果はすべてハズレ。妻に怒られてばかりの日々。

そんなある日、妻のへそくりを持ち出し、また富くじを買ってしまいます。案の定、ハズレ。

現在の宝くじマニアというより、ほとんどギャンブル中毒ともいえる江戸時代の話です。
妻のへそくりに手をつけ、ハズレという悲惨な状態での帰り道、小さな祠がある場所で男は一休みしました。妻への言い訳の思案にくれていたのです。

富くじを見つかってはまずいと思い、ハズレた富くじを祠に置き、運のなさを嘆きながら妻を楽にさせたいと手を合わせたといいます。


数ヶ月後、懲りずに男はまた富くじを買いに行きました。

ところがどうでしょう。

今度は一番くじを引き当てました。しかも、そのあとは何をやってもツキまくりになったのです。

男の一家は裕福になりました。

そこで男は、この祠のおかげであると思うようになり、立派な社を建立することにしました。

この話を伝え聞いた人々が参拝するようになり、寳禄稲荷と呼ばれるようになったという伝説です。


現在でも受け継がれ、ハズレた宝くじ、馬券等々を奉納する箱が賽銭入れの横にあります。

社殿の壁には的中したと思われる馬券のコピーなどが貼り付けてあります。

 

何の変哲もない神社ですが、隠れたパワースポットといえるかもしれません。

そんな一見すると特殊性が分からないのが、骨伝導スピーカーと共通するのかもしれません。特に米軍採用・特許技術といっても、どこがどれだけ優れているのか理解するのは難しといえます。

でも、実際に使えばわかります。この神社と霊験と同じです。

まずは実践あるのみ、、、ということでしょうか。まずは世界最先端の骨伝導の世界へ!

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北谷稲荷神社を骨で聴く

2016-09-27 13:55:00 | 骨で聴く巡礼旅

NHKや国立代々木競技場のすぐ近くに鎮座する北谷稲荷神社です。

ここは現代建築の独特の社殿があることで有名な神社です。

江戸東京博物館などの設計を手掛けた菊竹清訓建築設計事務所のデザインで、伝統的な神社の雰囲気を残しながらも都会的なセンスでまとめた印象を持ちます。ただ都会的ではあるものの、渋谷という一種独特な喧騒な街からはかけ離れた印象もあります。

 

NHK側は裏の参道になり、何となくこれも風情があるような感じを持ちます。

 

表側の参道には鳥居もあります。

表側に「太陽」、裏側に「月」がある鳥居です。

 

 

この神社は、渋谷村の名主・長吉の先祖・讃岐太郎直高が文明年間(1469-1487年)に駿州(静岡県)から移住してきた際に創建したといわれています。

江戸時代には上渋谷村・上豊澤村の鎮守社であったといいます。

 

村の鎮守様とは現在の姿からは想像できませんが、渋谷の中の異空間として存在感を強烈に放つ神社であることは間違いありません。

 


朝日稲荷神社を骨で聴く

2016-09-16 10:45:51 | 骨で聴く巡礼旅

東京・銀座にある朝日稲荷神社は、都会ならではの特殊な鎮座の仕方をしていることで有名です。

まず他で見かけることがないような、極めてユニークな天は、社殿の構造です。

まず、銀座を散策していて目にするのは、ビルの一角にある神社の姿です。

わずか一坪程度のスペースしかありません。高さは確保されていて、ビルの1と2階の部分を使っています。

 

 

ここが朝日稲荷神社の拝殿です。

これだけ見たら、都会でよくある小規模な神社と同じです。

 

しかし、ここがユニークなのは、本殿がビルの屋上にあるという点です。

拝殿の奥に本殿があるというのは、基本的に本来の神社の形式といえるでしょう。しかし、この本殿に行くためにはビルの屋上にまでお上らなければならないというのは実に珍しいといえます。

 

拝殿の先に小高い丘や山があるのは珍しくありませんから、ある意味で銀座という大都会ならではの構造といえます。

 

 

エレベーターで8階まで行き、右側のドアを開けると外階段になります。

この階段を上った先に本殿があります。

 

 

実は1階の拝殿とビルの屋上の本殿はつながっています。

拝殿から水道管で屋上とつながり、水道管の中には土を詰めて地上と同じ扱いということにしているようです。

そのため、拝殿での参拝は、そのまま願いを本殿に届けられるようになっています。しかも拝殿前にマイクが設置され、本殿にあるスピーカーでその声を届けることも可能なのです。

 

では、この朝日稲荷神社ですが、これだけ現代風にアレンジされていることから新しいのか、というと、実はそうでもありません。

古来よりその地に鎮座し、守護神として厚く奉斎され、遠近の崇敬を集めていたといわれています。

江戸時代、安政の大地震により社殿は倒壊し、三十間掘に幽没したといわれます。このとき以降、社地は荒廃してしまったようです。

ところが大正時代、東京湾で起きた大津波によってその霊体が顕れたといいいます。そのまま奉安されたものの、今度は関東大震災が発生してしまいます。転地を余儀なくされた状態で、次に昭和の太平洋戦争の戦災に見舞われます。

復活したのは戦後です。

社殿を再建し、昭和27年宗教法人朝日稲荷神社となりました。

 

銀座の特殊な構造を持つ朝日稲荷神社は、運命に翻弄されながらも現代では開運スポットとしても知られるようになってきました。

 

こんな都会の神社こそ骨で聴きましょう。

喧噪の中でも確実に聞こえる、相手に通話できる、そう、骨伝導スピーカーと骨伝導マイクです。

米軍採用・特許技術の世界最先端を誇る骨伝導製品が似あう神社は、ここ以上にないかもしれません。

 

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玉光神社を骨で聴く

2016-09-08 11:42:11 | 骨で聴く巡礼旅
東京の三鷹市で、井の頭公園に隣接して鎮座する玉光神社は、日本の伝統的神道の神社ではありません。
1952年に宗教法人玉光神社となった新しい神社です。

教祖は本山キヌエで、香川県小豆島に玉光大神が降臨したことにより、1934年に香川県小豆島に玉光神社を創設したのが始まりです。現在の三鷹市に設立したのは1949年で、その後に宗教法人化されたという歴史があります。



玉光神社の初代宮司で、名誉宮司にもなったのが、本山博です。
日本の超心理学者、心理学者、宗教家、哲学者としても活動し、著書「超感覚的なものとその世界」はユネスコ哲学部門優良図書に推薦されてます。




また、本山博の発明したAMIと経絡・気の流れについての研究は、西洋医学と東洋医学とを結ぶもので、それぞれを補完しあう心身医学の理論と予防医学に欠かせない機器として、世界の医学会の注目を集めているといわれています。



現在は玉光神社関連の施設は小豆島の御本宮だけでなく、神奈川県小田原市には根府川修練道場もあります。
また、宗教心理学研究所と付属鍼灸院も玉光神社が鎮座する場所にあります。

宇宙創造の神を祀るパワースポットとして、知る人ぞ知る場所のようですが、井の頭公園を散策していても目立つ場所ではありません。敏感な人であれば、あるいは公園散策中に横を通りかかったときに何かを感じるのかもしれません。

そんな知る人ぞ知る玉光神社を米軍採用・特許技術の骨伝導機器で、耳だけでなく骨でも聴きました。

永福稲荷神社を骨で聴く

2016-09-05 12:20:20 | 骨で聴く巡礼旅
杉並区の永福稲荷神社は旧永福寺村の鎮守で、『新編武蔵風土記稿』では多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)とあります。
現在は、甲州街道から井の頭通りに向かって北上する通り沿いに鎮座していますが、江戸時代には曹洞宗永福寺境内にあったようです。

永福寺こそは、ここの地名の由来となった寺院で、以前に骨伝導ヘッドセットとともに訪れたことがあります。
また、京王井の頭線の駅も取り上げてきました。

 → 万歳山永福寺を骨で聴く
 → 永福町駅を骨で聴く




社伝によると、享禄3年(1530年)に永福寺の開山・秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧請創建したのが始まりといわれています。
寛永16年(1639年)の検地の際には、永福寺村持ちの鎮守になったといわれます。



明治維新後は永福寺から分離し、現在のような一社を成すようになりました。

境内末社には、天王社・白山神社(合殿)、白鳥神社(一殿)があり、明治40年には北野神社も合祀されるようになりました。



永福町駅からまっすぐ伸びる道路沿いにあるせいか、荘厳な雰囲気はありません。
その分、村の鎮守だった雰囲気が今に残ります。

クルマの通行量も多い場所です。
そのため、ここでは骨伝導ヘッドセットHG42-TBTが活躍しそうです。少し大げさな感じがするでしょうが、米軍採用・特許技術を応用した製品なので、やはり「本物」が似合う場所ではないでしょうか。

 → 骨伝導ヘッドセットHG42-TBT

この骨伝導の特許を保有するメーカーは、永福稲荷神社から神田川に沿っ北東に向かった場所にあります。

小網神社を骨で聴く

2016-08-05 12:25:06 | 骨で聴く巡礼旅
強運厄除と金運向上に絶大な効果を誇るといわれる都内有数のパワースポット・小網神社へ、米軍採用・特許技術の骨伝導製品とともに参拝にいきました。

知名度は高いものの、東京の日本橋オフィス街の裏手にある小さな神社です。都会らしい街並みではありますが、場所柄からか下町風情も残る風情が交錯した空間といえます。
そんな小さな神社が有名になったせいか、ビジネスマンから若い女性まで平日でも多くの人が参拝に来ています。



小網神社の歴史は長く、約1,000年近い昔まで遡れます。
武蔵国豊島郡入江に万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵が最初だといわれます。

文正元年(1466年)に周辺で悪疫が流行しました。
この大変なときに、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れたといいます。
数日間をこの庵で過ごし、ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕に立ったそうです。

網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することが告げられました。
翌朝、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げました。

そこで翁を小網稲荷大明神と称え、ここで万福庵から神社を創建しりことになり、日夜祈願を続けたそうです。
すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。



太田道灌もこの御神徳を聞き、この神社を詣でていたといわれます。
さらに土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。

慶長年間(1596~1615年)は、この神社にちなんで小網町という地名になりました。
明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離しました。
これでせ小網稲荷神社となり、戦後の宗教法人化に伴い小網神社となりました。



現在の小網神社で知られるは境内にある銭洗いです。
水瓶の斜め上から亀の像が見守っています。

そんな小網神社を骨で聴きます。
金運アップのパワースポットと米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとの融合です。

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下黒田諏訪神社・黒田人形浄瑠璃伝承館を骨で聴く

2016-08-02 13:10:12 | 骨で聴く巡礼旅
国選択無形民俗文化財になっている黒田人形浄瑠璃。
全国的に有名なわけではありませんが、黒田人形は歴史のある貴重なものです。

元禄年間(1688~1703年)に正命庵の僧侶・正覚真海が村人に人形を教えたのが始まりいわれ、寛政年間(1789~1800年)に、淡路の吉田重三郎が下黒田(現在の飯田市上郷)に定住し、人形を教えるようになりました。
天保3年(1832年)には、大坂から桐竹門三郎、吉田亀造が来て人形を教えました。
それだけ人形熱が高まったことで、天保11年(1840年)に旧舞台から四間に八間総二階の舞台「下黒田の舞台」(昭和49年重要有形民俗文化財指定)を再建しました。

人形浄瑠璃の専用舞台です。
しかも日本最大で最古と三拍子が揃うと評されている舞台です。



境内にこの舞台を持つ神社が下黒田諏訪神社です。

長野県飯田市は位置的に京都と江戸の間であり、東西のそれぞれの文化が複雑に定着してきた歴史があります。
おそらく黒田人形浄瑠璃もそんな土地ならではの独自の発展をしてきたのかもしれません。

境内にはさらに、黒田人形浄瑠璃伝承館もあります。



伝統人形浄瑠璃の雰囲気や周辺の環境に配慮しているせいか、無機質な建物ではなく、国産木材を使用した和風の木造建築となっているので、神社との調和が感じられます。

さて、下黒田諏訪神社ですが、石段を登り、鳥居を過ぎると左に直角に曲がって次の鳥居になります。
参道が90度曲がっているのは、地形的な問題ではない感じがします。
もしかしたら地元の大怨霊も祀られているのでは、と想像してしまいます。



二番目の鳥居からは真っすぐに参道が続きます。
社殿の手前右手に人形舞台があります。
1840年に建てられたものです。テコの原理を利用した構造で、舞台正面に柱がありません。

神社の社殿は、まず拝殿があり、その奥に覆屋に囲まれた内部に本殿があります。
この社殿もなかなかの雰囲気を出しています。



この神社に人が集まり、喧騒が静まり、人形浄瑠璃が始まる、そんな光景が繰り返し行われてきた諏訪神社は、真夏の午後、セミの鳴き声だけに包まれていました。

骨で聴きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導音声増幅器と、赤外線送信ユニットを組み合わせれば、コンサート会場で難聴者に音楽鑑賞を可能にしたシステムで、この人形浄瑠璃を堪能したいものです。

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赤坂氷川神社を骨で聴く

2016-07-29 11:42:37 | 骨で聴く巡礼旅
東京の赤坂にありながら、都会の喧騒とは無縁の聖域に鎮座する氷川神社。
縁結びにご利益のあるパワースポットとして有名ですが、赤坂にある異空間というだけでも価値がありそうです。



かなり古い神社で、天暦5年(951年)に武州豊島郡人次ヶ原(現在の赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られたのは最初だといわれます。
江戸時代には、徳川8代将軍・徳川吉宗公が享保元年(1716年)に将軍職を継ぐことになり、享保14年(1729年)に老中・岡崎城主水野忠之に命じ、現在地に社殿を造営したといわれます。
翌年、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、将軍・吉宗も直々に参拝に訪れたという記録があります。



さらに、現社の場所は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の夫人・瑤泉院の実家である浅野土佐守邸跡でもあります。
大石内蔵助が討ち入り前に訪れ、別れを告げたといわれていわれている場所です。

境内は広く、樹木に囲まれていて、かなり荘厳な雰囲気があります。



社殿は東京都の有形文化財に指定されています。
また、麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭がこの赤坂氷川神社といわれます。



赤坂にいることを忘れさせてくれる神社なので、日常の中のすぐ隣にある異世界です。
耳だけでなく骨からも周囲の音声を脳に伝えつつ、パワースポットを堪能するのがお勧めです。

骨で聴く世界へ

人形町・末廣神社を骨で聴く

2016-07-28 20:01:51 | 骨で聴く巡礼旅
日本橋七福神の神社の一つで、多聞天の異名を持つ毘沙門天を祀るのが末廣神社です。
この日本橋七福神は、それほど広いエリアにあるわけではなく、全部徒歩で回っても2時間くらいのコースといえます。
東京の中心部でありながら、江戸下町の伝統が残るエリアにあるので、巡礼旅としては穴場かもしれません。

さて、末廣神社ですが、人形町の街中にあるせいか、決して大きいわけではありません。
飲食店も多くあるエリアです。




江戸時代の初期に吉原(当所は葦原と称したようです)は、この地にありました。
この当時(元和3年~明暦3年)に、地主神、産土神として信仰されていたといいます。
明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四ヶ所の氏神として信仰されてきました。



社号の起源は、延宝3年に社殿修復をした際、年経た中啓(末廣扇)が発見されたことで、氏子の人達が悦び祝って末廣の二字を冠したものといわれます。

勝運を授け、災難をよける神様として知られ、今でも地元の人に親しまれています。

小さな神社ですが、雑踏を抜けた先に何気なく鎮座しているような雰囲気で、しかも勝運に恵まれる神ですから人形町に訪れた先にはぜひ立ち寄ることをお勧めします。

人形町なので、都内でも独特の雰囲気のある街です。
周囲の音声を耳だけでなく骨でも聴きます。米軍採用・特許技術という世界最先端技術と江戸の伝統の残る人形町のコントラストもお勧めといえます。

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