骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

福寿山善福寺を骨で聴く

2013-01-30 15:34:06 | 骨で聴く巡礼旅

 東京の杉並区で最北西部に位置する地名が善福寺です。
 ここには善福寺池を中心にした善福寺公園があり、この池を水源とした善福寺川も流れています。それほど地名と未着した「善福寺」ですが、この地名の由来となった寺院はどこにあるのか、おそらく知る人は少ないでしょう。

 今回骨伝導巡礼として参拝に向かった善福寺は、福寿山と号し、善福寺公園より青梅街道寄りにある住宅街にあります。この寺院こそ地名の由来かと思われますが、どうもそうではないようです。謎に包まれた善福寺です。

 福寿山善福寺は、創建年代は不詳ですが、御堂阿闍梨が開山したと伝えられる寺院で、無量山福寿庵と称する浄土系の小庵だったといわれます。月山機法が中興、曹洞宗寺院に改めたといいます。

 では地名の由来となったのは何か?

 元々の善福寺は善福寺池のほとりにあったといわれています。
 江戸時代に災害により壊滅したことで、そのまま廃寺になったようです。文政9年(1826年)の「新編武蔵風土記稿」によれば、「往古は善福寺・万福寺とて二ヵ寺ありしが、いつの頃か廃絶して今はその跡さえも知れず」とありますから、現在の善福寺ととともに存在していた時代があったのは間違いないようです。しかし、現在の善福寺との直接の関係については、明らかな資料はないようです。

 この廃寺は史料に乏しく、実態はよく分かっていないというのが実情ですが、麻布にある麻布山善福寺の奥の院であるという説もあります。

          ⇒ 麻布山善福寺を骨で聴く

 また、麻布山善福寺とは無関係な寺院であるという説もあるようです。
 ただそれにしても現在の地名が、廃寺になった元の善福寺が由来となっている事実は確かで、それはそれで興味をそそられます。杉並区民には馴染みのある地名ですが、その由来が謎に包まれている寺院というのもおもしろいものです。

 さて、現在に残る福寿山善福寺ですが、本尊の阿弥陀如来立像は室町時代の作といわれ、衣丈が流れるような美しい優雅な像だといわれています。現代的な寺院ではありますが、随所に歴史を感じさせるものがあり、境内には浄土系寺院時代の歴代住職の墓石や、建武元年(1334年)銘板碑、享保2年(1717年)銘地蔵石像などもあります。

 骨伝導ヘッドセットとともに巡礼し、周囲の善福寺界隈の空気を耳だけでなく骨で聴くのは興味深いものです。消え失せた寺院の痕跡とともに、骨伝導の技術力を堪能できます。

          ⇒ 最先端の骨伝導製品

最初のフランス公使宿館跡を骨で聴く

2013-01-29 14:43:41 | 骨で聴く体験記

 弥陀三尊種子板碑(※弥陀三尊種子板碑を骨で聴く)から聖坂をさらに上ると、左手に寺院が見えてきます。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所の周光山長寿院済海寺です。ここに最初のフランス公使宿館跡があります。

 最先端技術を使った骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。

 1858年10月9日(安政5年旧暦9月3日)、徳川幕府と第二帝政フランスの間で結ばれた日仏修好通商条約にもとづいて設置された施設でした。1859年(安政6年)8月でした。初代公使としてド・ベルクールが駐在しました。後任がロッシュでした。

 明治3年(1870年)に公使館が引払いになるまで、宿館として使用されたのは書院、庫裏の全部だったそうです。その間の慶応2年(1866年)には、玄関、門、門番所などが増築されましたが、明治年間にはその敷地の一部が分割されました。

 実際の跡地としては現在の済海寺本堂敷地と西側にある富山県東京出張所の敷地にまたがった場所だったようです。

 江戸から明治への大変換期にあった施設の跡地は、東京都の旧跡になっていますが、実際にはここに来てその姿を想像するだけです。それでも時間軸は異なっていても空間軸が重なるこの場に来て、周囲の音声を耳だけでなく骨でも聴く……、この体験は歴史という大きな波の中をホンの少し垣間見る感覚に近いかもしれません。

 歴史的な場所で骨で聴く体験をするのは、時間軸が自由にながれるような感覚をさそいます。実際には単なる感覚だけで、非科学的なことかもしれません。それでも価値を見いだせるのは、米軍で採用された特許技術を使った骨伝導製品だからこそでしょう。

          ⇒ 特許技術の骨伝導製品

弥陀三尊種子板碑を骨で聴く

2013-01-25 11:15:52 | 骨で聴く癒しの世界

 高野聖が開いた古代中世の通行路といわれ、宿所もあった坂が東京の聖坂です。坂の途中には、三田中学校、クウェート大使館、阿含宗関東別院などがあり、亀塚稲荷神社もあります。この亀塚稲荷神社の狭い境内に弥陀三尊種子板碑があります。 

 中世の関東地方では特徴的な信仰として、板状の秩父青石、つまり緑泥片岩に刻まれた供養塔です。
 弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永3年(1266年)12月」「正和2年(1313年)8月」「延文6年(1361年)」の造立年が陰刻されています。特に文永3年(1266年)の刻銘は、東京の港区に現存する板碑の中では最古といわれています。

 残念ながらこの板碑は下部を欠損していますが、いわゆる武蔵型板碑に含まれることがわかります。
 中央には蓮座の上に阿弥陀仏をあらわす梵字の「キリーク(阿弥陀仏)」、その右下には「サ(観音菩薩)」、左下には「サク(勢至菩薩)」が刻まれています。
 下部の欠損はあるものの阿弥陀三尊の種子の保存状態は悪くなく、むしろ良好といえそうです。ただそれでも種子の下下側はやはり磨耗がすすんでいます。

 この板碑はもとからここにあったわけではなく、文化11年(1814)以降は岡仁庵の抱屋敷となっていた麻布永坂町(現在の六本木5丁目)の屋敷地に所在していたものだそうです。

 慶応大学にも近いエリアで、JRでは山手線の田町駅、地下鉄では三田駅が最寄りになるとおもいますが、この周辺は閑静な場所で、騒音が激しいということはありません。そんな場所で骨伝導機器を使っての歴史ある弥陀三尊種子板碑との対面は、騒音対策や難聴対策とは関係なく、純粋に耳だけでなく骨からも音を「聴く」ことから、癒し効果が求められます。

 しかしこの感覚は米軍で採用された特許技術の骨伝導機器だからこその威力といえます。性能の差がはっきりと出てきます。

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 知られざる文化財をたずね、骨伝導機器とともに出かけるのは本当に歴史に触れる気がします。おすすめです。

東矢島長良神社を骨で聴く

2013-01-20 14:36:56 | 骨で聴く巡礼旅

 長良神社という名の神社が群馬県の東側地域に数多くあります。
 社伝によると藤原長良公を祭る神社で、群馬県邑楽郡の地域が中心で、広く分布しています。群馬県東部の中心都市・太田市にも点在しています。

 今回はその太田市内の東矢島町にある長良神社へ、最先端の骨伝導機器とともに参拝に出かけました。

 ここは、毎年4月の第3日曜日に天下泰平、村内安全、五穀豊穣を祈り、境内で奉納される獅子舞が有名だそうです。古くは、春祭りだけでなく、秋祭りにも行われていたようです。

 獅子舞は「道中獅子」と呼ばれるもので、12種類の舞いがあったとされますが、現在は「平庭」「梵前かかり」、「橋かかり」、「雌獅子かくし」の4種類だそうです。
 先頭に世話番の提灯、次に万燈、前後に大獅子、雌獅子、法眼、笛方の順、最後に一般の人々が続くようです。

 この獅子舞の起源は不明ですが、推定では800~1000年は経過しているようで、この土地に根付き、連綿と伝承されている貴重な伝統行事といえるでしょう。

 境内はすごくさっぱりとしていて、広く、一部子供の遊具もあったりします。住宅地の外れにあるような環境のせいか、地図で見る境内の面積より広く感じます。とても気持ちの良い空間です。

 最先端の骨伝導機器により、周囲の音声を耳だけでなく骨から脳へと伝えることで、この空間がより癒し効果を発揮するような気がします。春になって、獅子舞が繰り出す時期に骨伝導機器とともに再度訪れたくなりました。

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釜寺東遺跡を骨で聴く

2013-01-18 17:30:09 | 骨で聴く癒しの世界

 世界的な骨伝導の特許を保有するメーカー「テムコジャパン」のお膝元、杉並区方南町にある念仏山東運寺、通称「釜寺」から、道路を挟んだすぐ隣の公園へと向かいました。「方南二丁目公園」です。

 この公園の入口近くに公衆トイレがあり、すぐ脇に「釜寺東遺跡」の石標があります。説明板が立っていますが、公園内には特に展示物や、遺跡関連の設備は全く見当たりません。

 以前に縄文・弥生の大規模な集落跡である「方南峰遺跡」を取り上げたことがありますが、場所的には確かに近い位置で、「釜寺東遺跡」は東京都指定史跡に古墳時代の集落跡だそうです。

   ※ 釜寺を骨で聴く
   ※ 方南峯遺跡を骨で聴く

 調べてみると、この移籍は縄文時代後期(約2500年前)、古墳時代後期(約1400年前)の複合遺跡のようで、昭和54年(1979年)度の発掘調査で、台地上に6軒、台地下に3軒の住居址が発見されたようです。
 この場所は、一帯が善福寺川と神田川が合流する地点に近く、それによって形成された約10万平方メートルにもおよぶ舌状台地です。



 古来より「峯台地」と呼ばれた地域で、先土器時代(約25000年前)から人々が生活していたようです。二つの川の合流によってもたらされた利便な環境が、現在では遺跡として残っているのも歴史のロマンを感じさせます。

 また、この釜寺東遺跡からは、住居跡のほかに土師器と呼ばれる古墳時代の土器や首飾りに使われた玉、縄文時代後期の祭り事に使われた石棒が発見されているようです。

 米軍で採用された特許技術の骨伝導機器ですが、それを生み出したメーカーのある街に、ここまでの歴史が眠っていることが何ともうれしくなります。最先端技術を生み出す大地には、古来より環境の整った人々の住居があったのです。

   ※ 最先端特許技術の骨伝導製品


 骨伝導機器は難聴の方だけでなく、騒音対策としても確かな実績を誇っています。しかし、住宅街のひっそりとした「癒し空間」でもその価値が見出せます。ましてその特許保有メーカーのお膝元にある遺跡なら尚更です。

釜寺を骨で聴く

2013-01-17 12:11:31 | 骨で聴く巡礼旅

 大雪が降ったあとの東京は、なかなか雪が消えることがなく、いつもの風景が少しだけ異なって見えます。
 米軍採用の骨伝導特許保有メーカーであるテムコジャパンの周辺も、雪に覆われた光景があちこちに残っています。そんなテムコジャパンのお膝元である杉並区の方南町にある「釜寺」へ骨伝導ヘッドセットとともに参拝に行きます。

 釜寺というのはバス停の名にもなっていますが、正式名称ではなく本当は念仏山東運寺といいます。
 歴史のある寺院で、天正元年(1573年)に備前の僧一安上人が奉じていた安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を安置し、当初は念仏堂としてはじまりまったという歴史があります。寺院としては、大正11年に下谷入谷町にあった東運寺と合併し、念仏山東運寺となりました。下谷入谷町にあった東運寺は、慶安4年(1651年)に茂山上人開山した寺院です。


 
 寺院発祥の元となった「身身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという伝説になっていて、それにちなんで本堂の屋根に釜を置いたといわれます。釜寺といわれる所以です。釜は昭和20年の戦災で本堂焼失した後、この地域の信者が寄進したもので、米一俵を炊くことができるといいます。

 釜伝説の時期ですが、天正元年(1573年)説が有力で、「新編武蔵」和田村念仏堂の項は、正保元年(1644年)開創となっています。

 最先端の骨伝導技術を有するメーカーのすぐ近くに雪に覆われた釜伝説の寺院があるのは、何とも興味深いものです。住宅街の中に目にする山門も、田村右京太夫江戸屋敷の脇門であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたというもので、このそれだけでも由緒あるものであるのが分かります。また、中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しく、最先端技術の骨伝導と実は由緒ある住宅街の寺院を対比させるのが一番です。

          ⇒ 最先端特許技術の骨伝導製品

 骨伝導特許保有メーカーを見学する機会があれば、この釜寺までぜひ足を伸ばして頂きたいお勧め寺院です。

岩松尚純萩公園を骨で聴く

2013-01-11 12:42:56 | 骨で聴く癒しの世界

 岩松尚純は、室町時代後期の大名です。
 岩松氏は源氏の血を汲む名家といえます。それは本来の惣領である新田氏が没落し、その後、新田荘を分割相続した世良田氏も歴史から消えてしまったことで、岩松氏が新田氏の直流的な見方がされてきたことにも関係しています。

 しかし岩松氏とは、新田氏の系列というのもいかさか変わった血筋といえます。というのも、新田義重の孫娘と足利義純の間にできた子が岩松氏の始祖である岩松時兼なのです。そのため、室町時代は新田氏の系列ではなく足利一門としての格式を誇っていたほどです。

 尚純は室町時代後期に生まれましたが、この時代は複雑な情勢の真っ只中でした。関東では公方家と管領家、さらにはそれを取り巻く諸大名による騒擾の極みにある時代だったのです。

 父である明純は祖父の家純と古河公方への対応をめぐって争い、最終的に廃嫡されるに至り、その子である尚純が家純の嗣子となったという複雑な環境もありました。

 岩松氏中興の祖である家純が死去し、明応3年に尚純は岩松氏の家督を継ぐ事となりました。次に一部の家臣たちが尚純を取り込んで横瀬氏の排除を企てます。明応4年には、ついに尚純と横瀬氏が衝突することになります。

 尚純は金山城を攻めますが落とす事はできず、不利な展開となります。古河公方である足利成氏の仲介が入り、尚純側の敗北を意味する結果となりました。それにより尚純は岩松氏の家督を子の昌純に譲った上で、下野佐野に隠居させられてしまいました。

 その後は連歌に熱中したりして、ひっそりと人生を終えたといいます。

 岩松尚純萩公園は新田庄の一角にあります。周囲は畑が多く、のどかな場所です。交通量の多い国道から中に入っているせいで、周囲に疾走するクルマの音は届きません。園内には岩松尚純と、その妻である秋吟尼の墓があります。史跡公園です。

 有名な観光地ではないので人の姿も滅多に見かけることがなく、静かに歴史の雰囲気を感じ取るのには最適な公園です。静寂の世界での骨伝導の活用は、耳だけでなく骨から脳へと伝えることで、脳波をシータ波に誘いやすくできる点にあるでしょう。
 癒し効果を積極的に求めるのではなく、骨伝導の驚異的なパワーに触れながらこんな時間と空間に浸れることに価値があるといえます。

          ⇒ そんな驚異的な骨伝導パワーとは


中目黒八幡神社を骨で聴く

2013-01-10 11:05:06 | 骨で聴く巡礼旅

 東急東横線の中目黒」から山手通りと駒沢通り経由して住宅街に入ること約10分たらずの位置で、中目黒小学校の裏手に中目黒八幡神社があります。骨伝導ヘッドセットとともに参拝です。

 創建年月日不詳の神社ですが、江戸時代には上目黒の寿福寺が管理していたのは事実のようです。寛文時代(1660年頃)に江戸幕府が源氏の八幡信仰によって、農民との融和を深めるべく八幡神社建設を奨励したとの推定もあります。しかし、寿福寺が全焼したため、古い資料は焼失していて詳しいことはわかりません。

 ただ、当時の村指出銘細帳には、宝歴13年(1763年)と弘化2年(1845年)に、「上目黒村別当寿福寺の末に上目黒村鎮守八幡宮」の記載があるようで、それによると氏子数400戸、中目黒村境内地539坪の宮有地があるとなっています。
 文政8年(1825年)の『新編武蔵風土記稿』には、「中目黒八幡宮之五〇坪、村の西方小山の上に社あり、五尺四方にして、東北鳥居、村の総鎮守なり。祭礼九月十八日十二座の神楽を奏す。」と記載されています。




 現在の建物は、昭和11年のもので、権現造りになっています。境内は古木大木が茂り、近くを交通量の多い道路があることが信じられないくらいにひっそりとしています。

 鳥居をくぐり、参道を歩いていくとそこは上りの斜面になっています。参道階段の脇には地下水が湧き出している場所があります。都内にある自然水です。なかなか風情があります。

 そんな静寂な境内に立ち、米軍で採用された特許技術の骨伝導機器を装着してみると、耳だけでは感じられない荘厳な「音声」が骨から脳へと伝わるような感覚をおぼえます。
 骨伝導機器ならなんでも良いというわけではなく、確かな技術に裏付けられた製品のみが体感できるものです。

          ⇒ 確かな技術で提供する骨伝導製品

 都内の骨伝導巡礼には、周囲の音との対比が興味深いものですが、ここは静寂な空間で、耳だけでなく「聴く」感覚を堪能できます。

吉田城山城跡を骨で聴く

2013-01-08 13:18:12 | 骨で聴く体験記

 冬の南信州。吉田城山に登り、日本アルプスから吹き付ける冷たい風を全身で受けてきました。
 高森町の吉田上段地区のほぼ中央に位置する城跡ですが、周囲は果樹農園が広がり、なんとものどかな風景です。伊那谷を形成する天竜川は見ることができないものの、アルプスの山々が迫ってくる勢いで屹立しているのを堪能できます。残丘状の台地上にある城跡で、松岡氏の家臣・吉村氏の居城だったようです。主郭・二の郭・出郭などがありますが、主郭と二の郭はかつてこの地にあった旧吉田小学校により多く削平を受けています。

 現在は公園と神社と寺院により構成された場所になりますが、主郭と二の郭の間の一の堀と土橋2、建物跡2棟などが調査されています。壷などの灰釉陶器片や土師質土器が出土しているようです。

 平成元年度の当時の通産省の補助事業として、この城跡に公園造成事業が計画されました。遺構の破壊が進んでいるとも考えていましたが、結果について報告書が出されました。それが「吉田城山城跡 高森町埋蔵文化財発掘調査報告書第7集」に掲載されています。注目すべきは、山城跡の『一の堀』が確認され、飯田・下伊那地方で二例目と言われる堀を利用した『虎口土橋』が検出されたことです。

 特に観光名所というような城跡ではありませんが、この場所に立って冷たい風の音を聞くことで、驚きの感覚すら覚えてきます。それには骨伝導ヘッドセットの装着です。米軍で採用された特許技術を駆使して製造された骨伝導スピーカーによって、城跡の歴史とアルプスの峰々から吹き付ける凍った風の音とが、耳だけでなく骨から脳へと通り抜けていきます。
 貴重な骨伝導体験ができる場所です。

          ⇒ 驚異の骨伝導体験をするならこちら

 骨伝導機器との旅では、誰もが知る有名な場所も取り上げていますが、実は地元の人しか知らないようなこんな山城の跡こそ、大いに期待できる体験ができるものなのかもしれません。

白蛇観音を骨で聴く

2013-01-06 11:24:49 | 骨で聴く巡礼旅

 謹賀新年。
 今年は巳年ということで、新年最初の骨伝導巡礼は白蛇観音と白蛇神社です。最先端の技術を濃縮した特許取得の骨伝導スピーカー装着のヘッドセットとともに、群馬県太田市にあるスネークセンターに入ります。
 ここに白蛇観音と白蛇神社があります。NHKの中継者も来ていたり、他の民法のニュース番組でも取り上げられたりして、巳年ならではの賑わいのようです。

 観音信仰は日本人には一般的なものですが、初詣となると少し異なるのかもしれません、まして、スネークセンターの中にあるものなので、ここを目当てに訪れる人は少数でしょう。ただ蛇類は古より医薬商業の神として崇められていて、神話伝説の中にも数多く登場しているもので、これと観音信仰が重なるのはある意味で必然的な気もします。まして白蛇となると、根強い信仰があります。
 白蛇観音は、広く世の人々の家内安全、無病息災、交通安全を祈念するとともに研究などの犠牲になった蛇類の霊を供養するために建立されたものだそうです。

 ジャパンスネークセンターは、文部科学省管轄の財団法人日本蛇族学術研究所の施設で、日本で唯一蛇類を中心に様々な研究を行っています。研究とともに世界各地のいろいろなヘビを飼育展示し、年中無休で公開しています。その一角に位置するのが白蛇観音で、なかなかの存在感を出しています。



 すぐ近くに白蛇神社があります。観光地にある「にわか神社」の様相ではありますが、それなりにいい雰囲気を醸し出しています。
 ここから山の斜面を下った場所に様々な蛇が飼育されているエリアがあります。見ごたえのある蛇たちが今年の主役を気取っているかのようです。

 骨伝導とともに訪れる旅も7回目の新年を迎えることになりました。早いものです。蛇のように長く続き、軽い難聴や騒音対策を担うようにまだまだ旅は続きそうです。

          ⇒ 米軍採用の骨伝導技術

 新しい年に新たな一歩を踏み出し、白蛇のパワーを骨伝導にも活かしていきたいと思いました。