6月25日に社団法人日本温泉協会の総会が箱根で開催されました。
大勢の温泉旅館関係者が全国から集まり、なかなかの賑わいでした。
昭和4年(1929)に設立され、社団法人化されたのが昭和6年です。初代会長に当時の貴族院議員・一条実孝公爵、副会長に内務、鉄道両省の次官が就任しました。事務局は東京鉄道局旅客掛内におき、温泉の団体としては日本で唯一の社団法人となりました。今でも日本唯一に変わりありません。
そして、昭和51年(1976)には天然温泉表示制度を創設したのがこの日本温泉協会なのです。
日本人は温泉好きなため、温泉そのもがビジネスになります。その結果、記憶にあるところでは温泉偽装問題などの発生を伴います。
食の安全と産地偽装問題は、現在のニュースの話題になっていますが、過去に温泉も偽装されていた事実も重く受け止めなければならないでしょう。
ただ旅行などのレジャーは多様化し、温泉だからという理由で必ずしも集客に成功するわけではありません。むしろ温泉は最低ラインになっているかもしれません。
原油が高騰を続ける現在、ボイラーに使用する重油や灯油ばかりでなく電気・ガス料金も上昇しています。広告宣伝の顧客獲得コストも上がっています。こんな中で温泉施設の生き残りが始まっています。
まずはコストを抑えながら、次の手を打たなければ伝統ある温泉も危ないかもしれません。日本温泉協会の会員施設の方々は苦労も多いでしょうが、ぜひ日本の文化を守ってください。
平成の大合併により消滅した市町村は数多くあります。以前に訪れた町へ行き、町の名前がなくなっていることを知ると、何だか寂しい気がします。
今回は、新幹線開業により鉄道路線が寸断され、平成の大合併により町の名も無くなった松井田町を取り上げます。
寸断された路線は信越本線です。高崎から長野を経由して新潟に至るかつての大動脈です。現在は高崎~横川の間を走るローカル線になり、長野へは長野新幹線、新潟へは上越新幹線が主流になっています。
この高崎~横川のわずかな区間ですが、以前に何度か取り上げたことがあります。
磯部駅を骨で聴く
松井田駅を骨で聴く
釜飯を骨で聴く
湯煙を骨で聴く
松井田町は平成18年に隣の安中市と合併し、町の名が消えました。
江戸時代には中山道の宿場町として栄え、町内には松井田宿と坂本宿の二つがありました。松井田宿は江戸から16番目の宿場で、坂本宿は中山道でも最も難所といえる碓井峠の入口にありました。旅籠が最盛期には40軒もあったといわれるほどの大きな宿場でした。
そしてこの町は、合併後も分立を目指す住民運動が盛んな点が挙げられます。
合併だけが選択肢ではなかったということは、他の地域でもときたま聞く話です。
企業でも同じことがいえるでしょう。
企業の合併や吸収など、日常茶飯事ではあります。しかし、必ずしもすべてが成功しているわけではありません。
ひとついえることは合併のメリットとしてコスト削減への道が開ける(あくまで可能性ですが)ということでしょう。
神奈川県秦野市の気軽なハイキングコースとなっている弘法山公園ですが、この一角にめんようの里という羊の放牧地があります。文字通りの牧歌的な雰囲気で、これが秦野市にあるということで、不思議な気さえします。
秦野駅を骨で聴く
場所は、弘法山公園の入り口にある加茂神社から坂道を登った場所で、公園の駐車場のすぐ先になります。サフォーク種のかわいい羊たちが出迎えてくれます。予約をすれば、ウールワーク工房で養毛を紡ぐ”ウールワーク”を体験することもできます。
また木里館というログハウス風のレストランでは、 ジンギスカンやバーベキューを楽しむこともできます。
山を越えて鶴巻温泉に出れば、日帰り温泉施設もあり、ハイキングにはまさにピッタリの場所です。
弘法の里湯を骨で聴く
ところで、この公園の由来となった弘法ですが、これはもちろん弘法大師、つまり空海のことです。以前にこの山と埼玉県越生町の弘法山、さらに弘法大師の袈裟に由来する袈裟丸山とを結んで、レイラインとして紹介しました。
弘法のレイラインを骨で聴く
では、肝心な秦野の弘法山ですが、これはどんな山なのでしょうか?
標高はわずか235mで、隣接する権現山、浅間山とともに弘法山公園となっています。
権現山を骨で聴く
山の名の由来は、弘法大師がこの山で修行を行ったという伝説に基づいています。山頂には弘法大師と釈迦如来の釈迦堂、鐘楼、弘法大師の水の伝説に由来する乳の井戸があります。
見晴らしは権現山のほうが良いでしょうが、明るい感じは同じで、伝説に彩られているものの、神秘的な感じはしません。
まして、ここから北に上がった先にある越生の弘法山や群馬・栃木の袈裟丸山とを暗示させるものは一切ありません。
今回はめんようの里で羊を眺め、弘法山ミステリーはほんのちょっと齧っただけで帰ることにしました。梅雨の時期は屋外での行動が限られてしまいます。
経営コンサルタントの視点から改めて見ると、見えない営業利益アップの秘法と弘法山レイラインの隠された真実とがダブってきます。見方をかえるだけでどちらも隠れたものが見えてくるという点が共通します。
営業利益アップの秘法
牧歌的な雰囲気にいても日常生活が蘇ってくるのは、もはや職業病かもしれません。癒しの世界が必要です。そのためには骨で聴きますか!
どないや!日本「最低峰」天保山の登山証が5万枚に(読売新聞) - goo ニュース
日本で一番低い山として君臨(?)しているのが大阪の天保山。
登山証が5万枚に達したとのニュースに、なんともいえない感想を抱きます。
と、いうのも天保山の最寄り駅は地下鉄大阪港駅で、この駅のすぐ近くにかつて取引先の企業があり、何度も行ったことがあったからです。天保山とセットで思い出に残る企業は、今はありません。
その会社の代表取締役は現在行方不明…寂しい話です。
さて、天保山ですが、日本で一番低いという定義は、国土地理院の地形図に山名として記載されていることです。人工の山ですから、自然の山として一番低いわけではありません。
ちなみに自然の山で一番低いのは標高6.1mの弁天山だそうです。場所は徳島市です。
丘と山との区別がよく分かりませんが、天保山の公園に行くと、山頂より高い場所もあり、何だか大阪らしい山(?)の気がします。
都市ガスは電気と同じように、一定エリアの独占的な市場を持っているといえます。いわゆる公共料金に含まれるもので、各家庭や企業等々にそれぞれ検針用のメーターが設置されています。
よく、電気料金を安くします! という宣伝文句が多く聞かれたりしますが、都市ガス料金を安くするというのはほとんど聞きません。たまにあるのはプロパンガスの供給先を変更することで安くする、という程度です。
では、都市ガスの料金って、削減することは出来ないのでしょうか?
電力会社には様々な料金プランがあって、それを最適化することで年間数百万円も削減に成功できた店舗があります。これは都市ガスに当てはまらないのでしょうか?
こちらで確認してください。
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何でも削減するコンサルタント
今回は都市ガスの謎の入り口編でした。
大同2年(807)、弘法大師空海が桂川に沿って修善寺を訪れました。
清流の桂川に少年と弱った身体の中年の男性の姿が見えました。どうやら少年は、病に疲れた父親の身体を清流の水で洗っているようです。
弘法大師は少年のひたむきな親孝行に感心しました。そこで、手に持っていた独鈷杵で桂川の中の岩を打ち砕きました。
するとどうでしょう、独鈷杵が岩を砕いた場所から、熱い湯が噴出してきたのです。
弘法大師は少年に、この湧き出た霊泉こそ疾病の治療に有効であるということを説きました。少年は大師の言われるまま父親を霊泉に浸け、現代で言う湯治療法を始めました。
やがて父の病は完治することとなり、これより修善寺に湯治療養が広まったと伝えられます。そしてこの湯こそが、修善寺温泉発祥の温泉と言われると同時に伊豆最古の温泉とも呼ばれる由縁なのです。
現在の独鈷の湯は桂川のほぼ中央にあります。
岩を土台として浴槽の位置を水の流れよりかなり高い位置にしています。そのため観光客はそのまま川岸から橋を渡って、気軽に独鈷の湯へ行くことが出来るようになっています。
しかし、かさ上げされている状態のため、大雨のときなどは川の流れが阻害される要因にもなっていることから、静岡県では現在地から左岸下流の河川敷に移動させるという計画もあるそうです。
この独鈷の湯を下流から見て右側に修禅寺、左に独鈷の湯公園、さらに先に指月殿(⇒ 指月殿を骨で聴く)、上流方向にいぼ石(⇒ いぼ石を骨で聴く)や桂谷八十八ヶ所(⇒ 桂谷遍路を骨で聴く)、阿字苑(⇒ 阿字苑を骨で聴く)などがあります。
まさに盛りだくさんな修善寺です。
ところで独鈷杵とな何かというと、金剛杵・ヴァジュラ (वज्र [vajra])の一種で、密教法具です。これはある種の象徴されたもので、古代インドの短剣状の武器ヴァジュラに由来するもののようです。仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心を表現しているそうです。
その中で独鈷杵は、槍状の刃が柄の上下に1つずつ付いたものののことをいいます。
密教の神秘的な世界が具現化されて温泉の伝説になるというのは、弘法大師ならではといえるかもしれません。本質が具現化されたことにより庶民への伝達が容易になり、それが口承し続けることでその地のアイデンティティも確立されていくのかもしれません。
う~む、奥が深いものです。
この具現化というものの最たるものは、体験的な要素かもしれません。温泉療法もいわば効果・効能に弘法大師の法力伝説が加わり、しっかりと根付いた可能性があります。
体験的要素は骨伝導にも通じ、百のコトバより一回の体験でそのすごさが伝わります。
⇒ 骨伝導の体験とは
さらにいえば経営にもいえるかもしれません。営業利益を上げるノウハウをいくら学んでもそれは所詮机上の空論かもしれません。実践的に利益アップの方法は体験して初めて分かるものかもしれません。
⇒ 一瞬にして利益を上げる方法
とにかく、伊豆の修善寺は様々なことを学ばせてくれます。
恐るべし、弘法大師!
久しぶりの秩父です。
秩父観音霊場の28番・石龍山橋立堂は、本尊が馬頭観世音菩薩の曹洞宗寺院です。秩父鉄道の浦山口駅から徒歩で行ける距離にあります。
駅から山の方向へと歩いていくと、川の流れが聞こえてきます。すぐに骨伝導ヘッドセットウェを装着して骨で聴きながら進みます。
骨伝導とは何か?
やがてそそり立った岩壁が目に入てきます。石段を登り、境内に入ると、岩の下にある観音堂が見事な借景の中に建っています。
石段を登った正面の本堂は、高さ65mの切り立った岩壁が覆いかぶさったところに三間四面、縁を回した朱塗りのお堂として建っているのです。
これは江戸中期の建築といわれていますが、堂内に安置されている本尊は鎌倉時代の作と伝えられています。
石灰岩の岩壁は、下にある観音堂を押しつぶしそうな勢いを感じます。
そしてこのお堂の横には橋立鍾乳洞があり、昔は胎内くぐりの霊場として巡礼達がくぐったようです。しかし現在は修行の場ではなく、観光施設となっています。
この寺院の由来はご存知・弘法大師に関わります。
その昔、弘法大師が柚の老木を刻んで馬頭観音としてここに安置したのが始まりといわれています。
西国・板東・秩父の百観音の中で馬頭観音を本尊としているのは、ここ橋立堂と西国の松尾寺だけですから、貴重な寺院といえます。
こんな場所に来ると日常生活から遊離した感覚を味わうことができます。普段、何気なく支払っている公共料金の増加も忘れてしまいます。
しかし、
原油高の続く今、コスト意識は潜在意識の中にまで入り込んでいるかもしれません。高~い、払いたくない!
古来より、日本は岩塩などの塩資源に恵まれてない為海水から塩を作ってきました。海外では普通、塩は、塩湖や岩塩から製塩するのが主流です。塩湖・岩塩ともに、雨の中に微量に含まれている塩分が長い距離川を流れ、蒸発も激しいので濃縮されて出来ます。ところが日本では急峻な河川のため、降ってきた雨はあっという間に海に注いでしまいます。その為、全く塩湖岩塩の類はできません。
でも、「四方を海に囲まれているから、簡単では‥‥」と思われがちですが、実はとても大変なことなのです。日本ではたった30gの塩をつくるのにも、1リットル近い水分を蒸発させなくてはなりません。そのため、海水をそのまま煮つめるのではなく、濃縮してから煮つめるという効率の良い方法で塩づくりが行なわれてきました。
そんな日本の塩作りは、瀬戸内海地方が有名です。赤穂(兵庫県)、伯方(愛媛県)などここにあります。瀬戸内海地方は、雨が少なく温暖な気候であること(瀬戸内式気候)に加え、天然の干潟も多く、満潮と干潮の時の海面の高さの差も大きいので、塩作りにうってつけなのです。
赤穂は京の都と四国を結ぶ場所だけあって、弘法大師の伝説も数多く残っています。お遍路さんもこの貴重な塩を携帯した人もいるでしょう。
年末時代劇で有名な「忠臣蔵」。
浅野って赤穂の殿様が、吉良義央に切りかかったので、あわれ切腹。しかし利は赤穂の殿様にありってんで、赤穂の浪士達が見事吉良を討ち取るという話し。話しをさかのぼれば、どうして浅野と吉良がけんかをしたかということになりますよね。実は、塩の生産技術に対する争いであったという説も‥‥赤穂の塩は品質、生産性も良く、江戸や大阪を中心にたくさん売られていました。
一方、吉良家は領内の産業発展に力を入れており、領地の三河(今の愛知県東部)でも、塩づくりをやっていましたが、振るいません。そこで、吉良家は赤穂に企業秘密を教えてくれるよう頼みましたが、浅野家は秘伝だからと断っていたんですね。
こんな塩の話を骨で聴きます。
⇒ 骨伝導とは
そして古来より続く塩産業も経費を削減します。
⇒ 経費削減で最も簡単な利益捻出法
徳島県三好市で旧西祖谷山村にある渓谷を祖谷渓といいます。ここはまさに隔絶された深山幽谷です。
この渓谷の約200mという高さの谷を見下ろす岩に小便小僧が立っています。何とも場違いな印象です。もともと小便小僧はフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワにより製作されたもので、、侵略者が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便をかけて消した少年がいたということが代表的な由来です。いわば武勇伝説に基づくものですが、この地の小便小僧は全く違います。
何と、昔、旅人が度胸試しにここから放尿したという話にちなんでいる(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)そうです。
確かに顔も日本人です。
なるほど、と思いつつ骨で聴きます。
⇒ 骨で聴く秘密
商売の基本はモノを売ることという常識が既に時代遅れのものになっています。
モノを買い揃えることで"豊かさ"が実感できた時代はおそらく1960年代まででしょう。モノ余りの傾向からバブル経済、そして不況という時代の流れから、どの業界でも営業利益率が大きく下落しているのが現状です。
昔と同じようにモノ売りの商売だけを基本としていたのでは儲からなくて当然なのです。
そこでモノを売るのではなく、モノ(商品)が持っている機能をサービスとして販売していく「サービサイジング(servicizing)」や、ノウハウの提供をパッケージ化して販売する方法、モノを全面に出さないで感情から集客する手法(エモーショナル・マーケティング)等々、多様なことが現れています。
プレゼンテーションもモノを売ることを目的とせず、フロントエンドとバックエンドの考えをたくみに使い分けて行うのが効果的になりました。従って傍目には、「この会社(店)はどうして儲かっているんだろう?」と思われるような、表には出てこない儲けの仕組みが有効になってきたのです。
これは各地に伝説を残す弘法大師のプレゼンテーションと共通するものがあります。真言密教を継承するのではなく、超人・弘法大師空海を伝承し、結果的に真言宗の発展に繋がったという点においてです。
モノを売るだけでは儲からない現代では、例えば衣料品を売る店でも、ただ陳列していただけでは簡単に売れません。商品の魅力を伝える手段としてのプレゼンテーションや、顧客の感情に訴えるPOPなど、あらゆる手法が必要になってきたのです。これはまさに、弘法大師に置き換えれば、弘法大師伝説に相当するのです。
なんだか不思議な話になってきたかもしれません。
先日(6月1日)行われた高橋邦治先生のセミナーでは、在庫についてや、商品の稼動とともに、店舗から顧客へのメッセージ、そしてコスト削減の重要性にも話が触れました。弘法大師伝説と結びつけて考えるのは、あるいは頓珍漢かもしれませんが、現代のビジネス最先端と1200年以上も前の偉人伝説が繋がれば、それはそれで興味深いものです。
そこで、弘法大師が現代に与えた影響を「弘法」という地名だけで調べてみると、実に面白いことがわかりました。日本全国にその名は広がり、それがダイレクトに弘法大師空海を祖とする真言宗に関係しているわけではないのです。
いわば名称だけがある意味で一人歩きし、その地に根付き、伝説化した場合と地名や由来のも残った場合とに分かれます。
現代のビジネスとどう繋がるか、検証してみてください。
歴史的な裏側には、きっと大いなるロマンが秘められています。まずは商売の前にそんな場所を順番に訪れる旅も、悪くないでしょう。
■福島県
耶麻郡猪苗代町 弘法清水小屋
耶麻郡西会津町 弘法岩
南会津郡南会津町 弘法沼
須賀川市 弘法担
会津若松市 弘法山 ⇒ 弘法レイラインとの関係は?
■群馬県
沼田市 弘法岩
■埼玉県
入間郡越生町 弘法山 ⇒ 弘法のレイライン
所沢市 弘法橋(弘法の三ツ井戸)
さいたま市中央区 弘法尊院
■神奈川県
川崎市麻生区 弘法松
秦野市 弘法山 ⇒ 夏のレイライン
■長野県
松本市 弘法山古墳
■静岡県
熱海市 弘法滝
磐田市 弘法入口
■愛知県
知多市 グローリアス知立弘法通
弘法橋
弘法町
弘法前
弘法通り
■岐阜県
土岐市 穴弘法
岐阜市 梅寺鏡弘法
三田洞弘法前
加茂郡八百津町 丸根弘法
■富山県
中新川郡立山町 弘法称名立山停車場線
■京都府
福知山市 弘法川
■和歌山県
田辺市 弘法杉
■広島県
三次市 弘法山 ⇒ 弘法レイラインとの関係は
■長崎県
佐世保市 弘法岳 ⇒ ここもレイラインと関係?
対馬市 弘法浦
骨で聴きながら弘法の地をめぐり、商売繁盛の奥義を解く!
⇒ 骨で聴くとは?
日本の首都・東京の表玄関である東京駅。
この大ターミナル駅は、JRの在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線のホームがあります。さらに新幹線は地上5面10線、地下鉄丸の内線が地下1面2線のホームを有します。平日の1日あたりの発着列車本数は約3千本で、まさに日本一の本数を誇ります。
しかし、これだけの大ターミナルであるにも関わらず、乗降客の数では同じ都内の新宿駅、池袋駅、渋谷駅よりはるかに少ないのです。JR東日本の全駅が1,699駅で、東京駅は第5位の規模になります。
東京駅の丸の内側は、鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m²、長さ330mの豪壮華麗な様式建築です。開業したのは第一次世界大戦中が始まった1914年で、以来、東京駅のシンボルとなっています。
やはり旅のイメージが強い東京駅は、省エネ、経費削減と骨で聴くことに限ります。
⇒ 経費を初期費用ゼロで安くする方法
⇒ 骨で聴く特許技術の秘密
風力発電の発電量当たりの温室効果ガス(GEG)排出量は、他の発電方法と比較して小さいのが特徴です。
地球環境の保全やエネルギーセキュリティの確保、経済成長の維持を同時に実現可能なエネルギー源として、風力発電は大いに意味のあるものです。世界各地でも普及しつつありますが、問題がないわけではありません。
どうしても風の影響に伴い、出力の電圧や力率が変動してしまいます。風車の動きもすべてが同じではありませんから、変動の激しさは相当なものです。
風は24時間吹いていますから、夜間も発電します。需要の状況によっては夜間に余剰電力を増大させることもありえます。
ただそれでも風力発電は、新しいエネルギーの中で最も採算性が高いとされ、温室効果ガス(GEG)排出量の低さとあわせて、ヨーロッパでは積極的な導入が進められています。
特にデンマークでは、
「風力発電のコストは過去20年間で80%以上削減され、今後10年間のうちに通常電力と競争可能なレベルまで低下する見込みである。温暖化対策コストまで考慮すると、欧州における風力は石炭火力より発電コストが一桁少ないとされる」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
というように、事業性としても確かなものになっています。
地球温暖化を防止する意味でも風力発電は今後ますます価値を見出していくことでしょう。企業や店舗でも風力発電を見習い、CO2削減に協力したいものです。
しかもその場合、電気やガス料金めで削減できて、営業利益の増大にも繋がります。ただし、問題はその手法です。
そこで、独自のノウハウにより簡単に削減できる方法を紹介します。
⇒ それがドイツ育ちの削減コンサル!
さらに風力発電の騒音問題を考える意味でも骨で聴きましょう。
⇒ 骨伝導の驚異の秘密
ある男性が60歳になったときに記した手記を紹介します。
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私は60になり、初めて高校の同窓会に出席しました。顔ぶれを見て懐かしくもあり、そして過去を振り返った時、私も40年と言う長く辛い時間を走り続けたものだと感慨深くなりました。
仲間との久しぶりの時間を過ごしたあと、生きてきた道程を振り返った時、「いつでも夢を」、この歌の温かいメロディが支えとなっていたことを改めて感じました。
昭和35年、高校を卒業した私は進学せず、社会の厳しさも知らず、大人への夢と憧れを持ったまま、生まれ育った九州は五島列島をあとにしました。
たった一人で船に乗り、故郷を出た私は、大阪の小さな洋菓子店に就職しました。そして夢と憧れは、社会の厳しさの中で、脆くも崩れ去ったのです。
当時、私の初任給は13,000円だったと思います。
初任給の平均が確か、3万円前後位でしたから、飲食業の厳しい現実を見せつけられた思いでした。技術・知識がある者のみが評価される世界です。
賃金を頂けるだけで良しとすべき状態だったのです。
給料は直ぐに底を尽く有様で、まともな食事など殆ど出来ず、月の半分以上は洋菓子の切れ端をこっそり持ち帰って食べる毎日。朝早くから夜遅くまで働き、修行と言う名目で雑用ばかり……。
先輩からは気分の捌け口に利用され、働く理由さえ捜す余裕もありませんでした。毎日が生活・仕事と言うより、耐える事だけに費やしていたのです。
そんな日々が続く中で、ある女性と出会いました。彼女は、地元大阪の呉服問屋の一人娘でしたが、お嬢様育ちを感じさせず、下働きの私にも優しく微笑みかけてくれる人でした。耐えるだけの日々を送る私を、毎日のように励ましてくれたのです。今でもそのときの彼女の表情が忘れられません。
私は彼女の激励で、忘れかけていた「夢と憧れ」を呼び覚まし、新たに洋菓子への修行という前向きな一歩を踏み出すことができました。休日返上、睡眠時間も削り、洋菓子への情熱を注ぎました。テレビやラジオでは、学生運動、世界情勢などのニュースが繰り返し放送されていましたが、私にとっては横目で見るだけのものに過ぎませんでした。社会がどう変化しようと、彼女の癒しに後押しされた私には、菓子職人へのあくなき挑戦だけが全てだったのです。
時間を犠牲にし、ただひたすら修行に励む私でしたが、東京出店に伴う転勤の話が持ちかけられました。「夢と憧れ」を現実のものにする為には、またとないチャンスです。
20歳(昭和37年)の暮れ、東京行きを決心しました。
彼女にこのことを告げたとき、私は震えるような声を出していました。高嶺の花でありながら、優しく声をかけてくれる彼女のことを、本当に好きなんだと分かったのです。いいえ、分かっていたのを修行第一として、隠していただけなのかもしれません。別離を前にして、思わず本心が噴出してしまったのです。
彼女は一瞬だけ悲しそうな眼をしてから、いつもの優しい表情をしました。
おめでとうと言い、そっと私に手を差し出しました。初めて私は彼女の白い手に触れました。彼女の掌は華奢で、すぐにでも壊れてしまいそうなものでしたが、力強さだけは感じました。彼女は家業の関係で、一緒に東京へは行けないが、大阪から応援すると言ってくれました。
さらに、上京前の大晦日に、二人だけの送別会を開くことになりました。
私は、夢と憧れを掴む為にと決意した気持ちに、彼女との別離という現実が交錯し、複雑な気持ちを抱きつつも、大晦日を楽しみにもしていました。送別会といっても、私の汚い下宿で、二人で粗末な料理を食べながら、テレビの「紅白歌合戦」を見る程度でした。
画面からは、何とも切なく温かい曲が流れてきました。それが、橋幸夫と吉永小百合の歌う「いつでも夢を」だったのです。
この当時、大スターだった吉永小百合ですが、「紅白歌合戦」という国民的行事に対して、よほど緊張していたのでしょう。視線が観客やテレビ・カメラに定まらず、宙をさ迷いつつ、上方へと眼が向いています。痛々しさが画面を通して伝ってきます。緊張、重圧という見えない恐怖に耐え、震える手でマイクを握る様子は、極めて印象的であり、私たちの視線を釘付けにしたのです。
がんばれと、思わず声をかけたくなりました。
同時に、あの大スターが、これだけの緊張と戦っているという事実に対して、いつしか自分の姿を投影させていました。「がんばれ」という言葉は、画面にも私自身にも向けられたのです。
私たちはこの曲を聴きながら、そっと寄り添いました。彼女も画面に向かって応援している様子でした。
このあと、彼女との最初で最後の口づけをし、涙の味を噛み締めました。初日の出を迎えるときには、お互いに冷たい布団に包まり、無言で身体を温めあっているだけでした。
門松がとれる頃、私は再び一人で上京しました。
笑顔の彼女に見送られ、心には「いつでも夢を」の曲を響かせながらの新たな旅立ちでした。まだ新幹線がない時代で、ゆっくりと列車がホームを去るときの衝撃が今でも身体に記憶されています。
島をあとにしたときとは違い、過去を全て断ち切り、振り返らない様にしようと、車窓を流れる景色を見ながら誓いました。
しかし上京してからも挫折が待っていたのです。地方出身者の私に温かい気持ちを持つものなどいなく、生活や考え方の違いから「夢」と「現実」のギャップを思い知らされたのです。毎日、周囲から冷やかに対応され、組織の中では、新入りと言うだけで声さえ掛けて貰えませんでした。まさに孤独な世界……。
私は日々を振り返らない様にする事だけを日課にしました。振り返るときっと、現実に負けてしまう恐さがあったのです。どんなに厳しい現実があっても、故郷や大阪に帰る事だけはしないという決意を新たにしました。
こんなとき、年末に見た「紅白歌合戦」の吉永小百合を思い出します。色々な重圧に潰されないようにと、震える手でマイクを握りながら歌う吉永小百合と重ね合わせ、甘い思い出の旋律を胸に刻むのです。思わず拳に力が入ります。負けない。絶対に負けてはいけない。いつでも夢を。さあ、がんばろう。自分自身を鼓舞し、ただひたすら前を向き、走り続けようとしました。
あれから40年、幾度もこの「いつでも夢を」を口ずさみました。何とか厳しい修行にも耐え、東京郊外に自分の店を持つことまで出来ました。今では息子夫婦に譲り、悠々自適な生活を送るようになりましたが、この曲はときどき思い出すことがあります。現実に耐え、励ましてくれことに、他人には想像できないほどの深遠なる思い入れがあるからです。
この曲の詞の中で、特に思い入れが強い部分は、
「声が聞こえる 淋しい胸に
涙に濡れたこの胸に
言っているいる お持ちなさいな
いつでも夢を いつでも夢を」
という部分です。どんな時でも夢を忘れない様にと、私に語り掛け、それに応えようとする私が生まれ、さらにあのときの吉永小百合の姿が眼に浮かんできます。
同窓会に出席したことで、ようやく我が人生を立ち止まって振り返る余裕が生じたのかもしれません。
時にはうしろを振り返り、一直線に辿って来た道程を思い出しながら、この「いつでも夢を」を口ずさんでみたいと思います。
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手記はこれで終わっています。
今年、この方はクルマに跳ねられました。今でも病院に通っているそうです。
骨で聴きながら通行していれば良かったのに……と、後悔しているようです。耳を塞いでいてクルマの音が聞こえないことが事故の原因だったと考えられるからです。
⇒ そこで活躍するのが骨伝導
伊豆・修善寺の旅は続きます。
阿字苑を骨で聴く
修善寺駅を骨で聴く
指月殿を骨で聴く
修善寺を骨で聴く
ハリストス正教会を骨で聴く
いぼ石を骨で聴く
阿字苑のある奥の院へ向かう道には「いろは石」があると、前回伝えました。
今回は「いろは石」のある場所とも一部で共通する桂谷八十八ヶ所です。
歴史は浅く、発端は昭和5年です。
この年、修禅寺の38世だった丘球学は、四国八十八ヶ所の霊場の土を、修善寺の桂谷に移しました。これを桂谷八十八ヶ所として弘法大師の像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したのです。
四国霊場は伊豆からは遠く、しかも広域に散在しているため、巡拝をすることは容易ではないことから、弘法大使が錫を留めた勝境桂谷ヘ、四国に擬して八十八ヶ所を建立することを発願したのです。
この地が信者だけでなく、住民や温泉観光客まで、大師の恩沢に浴し身心の利益を得るものが多いことから、この恩沢に報いるためとしたものです。当然ながら功徳は、四国霊場巡拝と等しいとされました。
距離は四国と比べるとかなり短く、約28㎞の山道となります。歩いての遍路としては一番適した距離かもしれません。
毎年のべ1200人ほどの巡礼者が集まります。温泉街や周辺の山道を僧侶が先導とした遍路が歩く姿は名物にもなっています。
それほどまでに巡礼の中で特別な位置づけであるのが四国遍路といえますが、この道は弘法大師空海修行の道だという点を忘れてはいけません。
大師が御年42歳、つまり厄年のときに開いたといわれています。時に西暦815年です。
しかしこの815年ですが、実は伝説化した年のようです。
この5年前から弘法大師空海は京都・高雄山寺で灌頂の壇を創設していました。翌年の816年は嵯峨天皇の勅許により、高野山を与えられました。この間の期間に開創したというのは、明らかに史実と異なるといわざるをえません。弘法大師空海の厄年に絡めた、伝説のひとつなのだろうと思われます。
また、衛門三郎が遍路の始まりという話も有名な伝説だと思われます。
衛門三郎は、伊予の国浮穴郡荏原にいた欲深い長者でした。ある日托鉢の僧が現われ、みすぼらしい格好だったせいか弘法大師とは知らず、彼の托鉢をとりあげ投げつけてしまいました。鉢は八つに割れたそうです。
その翌日から、衛門三郎の八人の男の子が次々に亡くなってしまいました。三郎は自分の罪の深さに目覚め、邪見を捨て改心することになりました。そこで四国巡錫中の大師のあとを追うため、四国巡拝に旅立ったのです。しかし大師に会えぬまま、遂に21回目を迎えます。天長8年です。ついに阿波の国焼山寺の麓で病に倒れてしまいました。
寝込んでいる三郎に、突然、弘法大師が枕元に現れました。大師は、一寸八分の石に「衛門三郎(一説には梵字)」と刻み、三郎の掌に授けます。受け取った三郎は、安心して息を引き取りました。
その後、伊予の豪族・河野氏に男子が生まれましたが、その子はいつまでも右手は握られたままで、開きませんでした。そこで安養寺に願をかけたところ、手の中から何と、「衛門三郎」と書かれた石がでてきたというのです。この伝説により、衛門三郎こそが四国遍路を最初に廻った人ということになっています。
諸説ある四国霊場の誕生伝説ですが、この影響力については、改めて述べる必要もないでしょう。その中でも「ウツシ巡礼」として、日本全国に八十八ヵ所霊場が誕生し、その数の多さについては意外と知られていないかもしれません。
桂谷八十八ヶ所もその「ウツシ巡礼」のひとつとして輝いているのです。
だから耳だけでなく骨でも聴きましょう。骨伝導で脳波から功徳を得るというのも悪くありません。
骨伝導の驚異の秘密
牡丹観音は8メートルの高さを誇る石像です。
以前にご紹介した道楽山永光寺境内にあります。
弘法大師像を骨で聴く(永光寺)
牡丹は別名をたくさん持っています。Wikipediaで調べてみてもたくさん出てきました。引用してみましょう。
ボタン(牡丹、学名:Paeonia suffruticosa)は、ボタン科ボタン属の落葉小低木。
または、ボタン属(Paeonia)の総称。 別名は「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など多数。
以前はキンポウゲ科に分類されていたが、おしべ・花床の形状の違いから現在はシャクヤクとともに独立のボタン科とされている。
《出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』》
そして観音とはアヴァローキテーシュヴァラ(अवलोकितेश्वर [Avalokiteśvara])、仏教の観音菩薩のことです。
日本では観音様は女性というイメージが定着していて、例えば「慈母観音」や永光寺のように花の名プラス観音など、母性的な仏像として存在するケースが多いようです。牡丹との組み合わせはそういう意味で見事です。花をめでる文化と仏教が融合しています。
しかし、仏教の経典から見ると、釈迦が観音に向かって「善男子よ」と呼びかける場面が登場します。また「観音大士」という言葉もあります。(この部分もWikipediaや各種の文献を参照しています)
もともとは男性であったと考えたほうが自然なようです。特筆すべきは観音経で、ここには、女性には女性に変身して説法するとも記述されています。
要するに性別はないというのが正解なのでしょう。
とりあえず骨で聴きましょう。
骨伝導の神秘の世界
牡丹観音とともに癒しの空間を共有しましょう!