僧侶であり探検家でもあった河口慧海は、明治の時代に日本人としては初めてチベットを訪れた稀有な存在でした。
1897年(明治30年)にシンガポール経由で英領インドカルカッタへ入り、チベット語をマスターしました。その後、1899年(明治32年)、ネパールの首府カトマンズに到着、続いてポカラやムクテナートを経て、徐々にチベットへと進んでいましたが、警備が厳しく国境近くで進めなくなりました。
その地の村でチベット仏教や修辞学を習得したのち、1900年(明治33年)7月4日、ネパール領トルボ地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を越え、ついにチベットへと入ることができました。
翌年にはチベットの首府ラサに到達し、セラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されることになりました。支那人と偽っての入国でしたが、大学への入学はチベット人と騙ってのものでした。
その後、セライ・アムチー(セラの医者)といわれるような有名人になっていきました。その結果、ついに法王ダライ・ラマ13世に召喚されるようになり、侍従医長から侍従医にも推薦されたようです。
しかし、河口慧海は仏道修行こそが本分であるとして、この推薦を断っています。
1902年(明治35年)になると、チベット人でないという疑惑も現れたことから、ラサ脱出を計画し、インドのダージリンまでたどり着くことになりました。
日本への帰国はおよそ6年ぶりでした。
この記録こそ、日本人として史上初のチベット紀行となりました。
河口慧海が再びチベットへ行っていたのは1913年(大正2年)~1915年(大正4年)の間でした。このときにチベット語仏典を蒐集することに成功し、民俗関係の資料や植物標本なども収集してきました。
これらの大量の民俗資料や植物標本は、そのほとんどが東北大学大学院文学研究科によって管理されているそうです。
帰国後の河口慧海は、1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行しました。これは一大センセーションを巻き起こしたほどでした。また、大正大学の教授にも就任し、チベット語の研究に対しても多大な貢献をしました。
太平洋戦争が終結を迎える半年前に、脳溢血を起こし、東京世田谷の自宅で死去しました。晩年を過ごし、終焉の地となった世田谷の自宅跡は、現在の住居表示では世田谷区代田2-14になり、「子どもの遊び場」となっています。小さな公園で、その片隅に終焉の地の顕彰碑が設置されています。
静かな住宅街に立ち、はるか遠いチベットに思いを馳せながら骨伝導ヘッドセットを装着してみます。周囲の音声が耳だけでなく骨からも聞こえてきますが、その音は日常的、あまりに日常的なものです。
ある意味で河口慧海の偉大さを感じながらチベットへと夢想する「心」に、気道音では届かいない骨伝導が語りかけていることは、現代の日常の一部としての癒しなのかもしれません。
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終焉の地の顕彰碑は、本当に目立たない場所にあり、住宅街の中でしかも袋小路の先にある遊び場に入り、さらにその奥にまで行かないとたどり着きません。河口慧海がチベットへと入った苦労には遠く及ばないことですが、この牌を見つけつる苦労くらいは共有できたらとおもいます。
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