骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

萬年山長松寺を骨で聴く

2013-10-31 17:35:34 | 骨で聴く巡礼旅
懐かしい感じのする木造駅舎・JR相武台下駅(→相武台下駅を骨で聴く)を後にし、住宅街へと歩いていきます。閑静な住宅街というより、のどかな住宅地です。

やがて川を渡り、少し行くと右手に自治会館があり、その向かい側に萬年山長松寺の山門が現れます。禅宗の寺院ですが、質素な感じはしません。相武台下駅から北東へ約200mという近さです。

功雲寺(津久井町)の末寺で、薬師如来を本尊としている寺院で、鎌倉公方の足利氏満が曇芳を請じ、臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として開いたとされています。
曇芳とは、鎌倉の永安寺(廃寺)の開山で、鎌倉の円覚寺、建長寺を経て当寺の開山となったようです。

中興されたのは二度あり、一度目は永享2年(1430年)、後北条氏の頃です。当時、この地方の守護人だった松本式部少輔によります。
次に中興されたのは、平岡岡右衛門吉道と喚室宗応によると伝えられています。
この二度目の中興のときに現在のように曹洞宗になったようです。

この寺院が有名なのは、足利氏満による応永3年(1396)の寄進状が残されている点です。相模原市では現存する市内最古の文書だということです。昭和50年に市指定重要文化財となっています。

夕闇が迫る時でしたが、確かな存在感を醸し出している寺院でした。




相武台下駅を骨で聴く

2013-10-30 10:13:23 | 骨で聴く鉄道駅
夕闇迫る時間、降り続く雨の中、JR相模線の相武台下駅へ降り立ちました。
最先端の特許技術を誇る骨伝導ヘッドセットと一緒です。

東海道本線の茅ヶ崎駅と横浜線の橋本駅を繋いでいる路線が相模線ですが、実はあまり馴染みがありませんでした。大学が橋本駅からバスで行く位置にありましたが、相模線への乗車は皆無だったという過去もあります。

単線の路線で、地元自治体から複線化の要望もあるようですが、JR東日本では具体的な動きはないようです。そのせいか、首都圏にあるローカル線の雰囲気が漂う感じがします。

相武台下駅の駅名になっている相武台ですが、これは戦前に陸軍士官学校に対して昭和天皇がその呼称を与えたものだそうです。
駅の開設当初の名称は「座間新戸駅」でしたから、大分印象が異なります。このときの駅名は、当時の座間村と新磯村新戸との境界付近に位置したことによるそうです。

ところが昭和12年に近くに陸軍士官学校が移転してきたことで、翌年から「陸士前駅」に改称されました。
現時の駅名になったのは「防諜上の理由」ということから、昭和15年でした。まさに戦時体制が拡大している最中でした。

「相武台」の名称を冠している駅は小田急線に相武台前駅があります。
新宿と直結する路線の駅のせいか、こちらは1日平均乗降人員は37,931人です。
一方、相武台下駅は乗降客ではなく乗車人員の数ですが、1日平均1,141人と寂しい数字です。
駅舎も古く、小さく、田舎の駅の雰囲気が漂います。駅前も賑やかさはなく、商店も数も疎らで、首都圏にいえながら遠くへ旅した気分まで味わえます。

そんな相武台下駅ですが、ここにはぜひとも訪れたかった場所があります。骨伝導ヘッドセットとともにそこへと向かうことにしました。

     → 最先端の骨伝導ヘッドセットはこちら


池尻稲荷神社を骨で聴く

2013-10-28 13:02:31 | 骨で聴く巡礼旅
現在は国道246号線ですが、かつては大山道でした。
そんな大山道の面影を訪ねることができるのは、国道と平行して走る旧道沿いにあります。そこは首都高速道路を見上げる位置にありながら、かつての街道沿いの雰囲気を今もなお残す池尻稲荷神社です。

今回はそんな池尻稲荷神社へと骨伝導機器とともに参拝です。

江戸時代の初期の明暦年間に、旧池尻村・池沢村の両村の産土神として創建された神社です。「火伏せの稲荷」、「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられ、現在に至っています。

創建当時は、大山街道沿いにある常光院の片隅に勧請されたようです。
当時の矢倉沢往還と津久井往来の二つの街道から流れてくる人々が、角屋・田中屋・信楽屋の三軒の茶屋(現在の三軒茶屋の起源といわれます)で休憩し、江戸に入る道筋にあったようです。
また逆に、江戸から大山詣での人々が下った道筋でもあることから、道中の無事を願う人が多かったとも伝えられています。



境内には「涸れずの井戸」があります。
古来より「薬水の井戸」といわれたものです。
現在は、本殿から東側に国道246号線に向かった場所にあります。由緒書き掲示板の下に位置します。

大山街道の道筋には、赤坂一ツ木村より池尻村までは適当な良質の飲用水がないといわれていました。それだけこの井戸水は、農民だけでなく往来の人々にも頼りにされていたようです。
「涸れずの井戸」ともいわれるのは、いかなる渇水時にも、この井戸水は涸れることがなかったということからきています。
実際に大正時代に大変な渇水の年があり、この付近の井戸はみな涸れてしまったのに、神社の井戸だけは豊富に水が湧いていたと伝えられています。
いまもこんこんと湧いている井戸です。



稲荷神社は宇迦之御魂神をお祀りしたもので、京都伏見の地に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は「稲がなる」イナリの別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神ですが、古代の秦氏との関係や製鉄との関連など、稲荷信仰には奥深いものがあります。

本殿に向かって左側には、清姫稲荷神社があり、御神体が白蛇ではないかと伝えられています。手水舎の前に鎮座されている水神社も、「水の神様=ヘビ」として祀られているようです。

渋谷から近い位置にこのような神社が鎮座しているのは感激ものです。
旧大山道の散策とあわせて参拝するのお勧めしたい場所です。

国道246号線に出ると、いきなり現実に直面するのも何ともいえません。ここでは騒音は激しく、騒音対策としての骨伝導ヘッドセットが有効に働きます。

     → 特許技術の骨伝導ヘッドセット


成田山新勝寺を骨で聴く

2013-10-23 10:16:18 | 骨で聴く巡礼旅
また台風が近づいていますが、10月15日から16日に関東を襲った台風26号では、千葉県の京成成田駅で、線路脇斜面の土砂が崩れる悲劇を齎しました。電柱が倒れ、線路内の架線を切断するという激しいものでした。

その成田市は国際空港を持つという顔とは別に、成田山新勝寺の門前町として栄えてきた歴史があります。

成田山新勝寺は、真言宗智山派の大本山のひとつです。
関東では有数の参詣人を集める著名寺院です。

歴史は古く、しかも今でも語り継がれる平将門に関連した寺院です。
対比されるのは東京の神田明神でしょうか。
成田山新勝寺は将門の調伏、神田明神は供養から相殿神とされに至ったという間逆な関係が興味深いといえます。

     → 神田明神を骨で聴く

さて、新勝寺の起源ですが、平安時代中期、平将門の乱の際に朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことといわれています。寛朝は弘法大師・空海作の不動明王像を奉じて東国へ下りました。
その目的こそが平将門の調伏でした。

寛朝は下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行ったことで、新勝寺はこの年を開山の年としています。

歌舞伎との縁が深く、歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依し、「成田屋」の屋号を名乗るようになると、江戸の庶民の信仰を集めるようになりました。

総門から仁王門と進み、右手に三重塔、正面に大本堂と続きます。この参拝へ向かう道程がなかなか素晴らしいといえます。
荘厳な真言密教の雰囲気というより、庶民に親しまれた大寺院という風格です。
大本堂の周囲から裏手も見所はたくさんあります。



釈迦堂もお勧めです。
安政5年(1858年)に建立された重要文化財になっています。かつての本堂でした。
釈迦如来と、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勅菩薩、千手観音菩薩の四菩薩が奉安されていますが、注目すべきは釈迦堂の建物の周囲です。
五百羅漢や二十四孝の彫刻がほどこされています。総欅づくりの御堂で、彫刻を見ながら一周するだけで功徳がありそうです。

荘厳さは光明堂が一番で、大日如来、愛染明王、不動明王が奉安 されています。
光明堂の後方には奥之院の洞窟がありますが、開扉されるのは祇園会の時だけです。

台風の被害を受けた成田市ですが、弘法大師・空海作の不動明王の力で、早く京成線の全面復旧を願いたいと思います。

最先端の骨伝導ヘッドセットとともにここを訪れ、静かに合掌しつつ東京へと戻ることにします。

JRと京急・二つの新子安駅を骨で聴く

2013-10-18 14:07:59 | 骨で聴く鉄道駅
極めて複雑な立体地形になった空間に、二つの新子安駅があります。
こんなロケーションの駅は多くないでしょう。それほど初めて訪れた人には戸惑うような駅周辺です。

JRと京急の二つの新子安駅は独立していて、別々の駅になっています。JRの新子安駅の改札から見て西側に京浜東北線や東海道線の線路が走り、東側には京急の線路があり、踏み切りもあります。そのわずかな空間が駅の建物です。



周囲には幹線道路が多くありますが、そこへのアプローチも独特です。
JR新子安駅の改札をでた先に階段があって、これを上ると「産業道路」に出ることができます。産業道路を西に進めば『オルトヨコハマ』という駅前再開発地域です。
実はここにバスやタクシーの乗り場があって、駅前広場のようになっています。

ちなみにさらに西へ進めば国道1号線です。
逆に南に進むと景色は一変します。大規模な工業地帯です。

今度はJRの改札からそのまま平坦な場所を歩けば、線路の東側へと行けます。ここにも産業道路に出るためのループ橋があり、こちらにはエレベーターも設置されています。

さらに先は踏み切りと京急新子安駅です。小規模な駅前ロータリーがあり、ここでもタクシーが停まっています。「さらに進むと国道15号線です。

何とも使い勝手の悪い駅の印象を受けますが、JR新子安駅は1日平均乗車人員は21,083人と、それなりの規模を誇っています。
ただ京急の方は、JRよりかなり少なく、1日平均乗車人員3,954人程度です。
しかも京急の上りホームは狭く、通過列車はこの周辺で最高速度を出していることが多いことから、通過列車の際は非常に危険な印象を持ちます。

駅前は電車の音が激しく、ここで電話をしていると騒音に悩まされる環境です。特に京急の通過列車は激しく、相手の声が全く聞き取れないこともあります。
こんな環境下での電話にはやはり骨伝導が有効です。

     Bluetooth骨伝導ヘッドセット 今すぐチェック!

携帯電話・スマートフォンとBluetoothで接続するだけですから、気軽に骨伝導の世界を体感して頂けます。耳をふさがないことで、周囲の音も両耳で「聞き」ながら使用できますから、最先端のマルチ人間には最適といえるでしょう。

幡ヶ谷氷川神社を骨で聴く

2013-10-16 10:50:41 | 骨で聴く巡礼旅
渋谷区の北部に位置する本町は、渋谷駅周辺のイメージからはかけ離れた地域です。新宿駅のほうがはるかに近く、中野区弥生町・南台に接しいて、幡ヶ谷地域にあります。最寄り駅も京王新線の幡ヶ谷駅になります。

都心に近い住宅街ですが、周囲を幹線道路に囲まれたエリアです。
南は水道道路と甲州街道、東は山手通り、北部に方南通りが走っています。

そんな渋谷区本町に、旧幡ヶ谷村の総鎮守の氷川神社があります。幡ヶ谷の地に住み着いた人たちが現在のさいたま市にある氷川神社から分祀されたといわれています。別当寺は荘厳寺でした。

起伏が多くある地域ではありませんが、この氷川神社は周囲より一段高い土地に鎮座しています。中野区側で、ここからも遠くない多田神社と同じような雰囲気です。

     → 中野・多田神社を骨で聴く

境内は渋谷区にある神社としては広く、728坪あるようです。
神殿は1945年(昭和20年)の戦災で一度焼失し、戦後の1956年(昭和31年)に再建されたものです。総檜木造銅板葺神明造りの本殿、祝詞殿、拝殿は、なかなかの雰囲気が伝わってきます。

近くには東大の教育学部附属中等教育学校もあり、落ち着いたエリアの神社です。
何気なく立ち寄っただけで、気分が癒されるような感じがします。

最先端の骨伝導ヘッドセットに納品途中に立ち寄っただけでも、随分とリフレッシュできた感じがします。

泉谷山大圓寺を骨で聴く

2013-10-15 12:02:36 | 骨で聴く巡礼旅
京王井の頭線の永福町駅から井の頭通りを渡り、商店街が続く松ノ木通りを方南通りに向かって約10分程度、商店街に忽然と現れる寺院があります。
それが泉谷山大圓寺です。

もともとは現在地ではなく、慶長8年(1603年)に徳川家の香華院として現在の赤坂溜池町に建立されました。

武田信玄の弟と言われる諦厳桂察の開山で、飯野藩保科氏の菩提寺となりました。
延宝元年(1673年)には、薩摩藩世子・島津綱久が江戸で没し、葬儀を大圓寺で執り行いました。これが縁で、薩摩藩の菩提寺ともなりました。

明治維新後に起こった廃仏毀釈の際、大檀越だった島津氏が神道改宗することになり、それ以後は島津氏の庇護が失われたことで衰微しました。

現在地への移転は、明治41年(1908年)でした。
島津氏から見放されたとはいえ、現在も西郷隆盛の娘・菊子などの鹿児島県出身で明治維新関係者の墓が多く築かれているようです。

山門は松ノ木通りに向いていて、左側に本堂、右側に墓域があります。
右奥には飯野藩保科家墓地、右手前に戊辰薩摩藩戦死者の墓地があります。

唐突に出現した印象のある寺院ですが、境内に入ると江戸から明治維新までの空気が満たされているようで、とても興味深い感じがします。曹洞宗の寺院ということもあって、質素な感じですが、それがまた永福町から続く商店街に実に心地よいアクセントとなっています。

最先端技術を誇る骨伝導ヘッドセットとともに、こんな静かな街中の寺院に訪れてみるのも悪くありません。米軍で採用された特許技術・骨伝導スピーカーと、江戸時代からの名刹を散策して、しばしの間、癒しの気分を味わえます。

堀之内熊野神社を骨で聴く

2013-10-10 12:26:12 | 骨で聴く癒しの世界
米軍で採用され、世界的な特許技術に裏打ちされた骨伝導スピーカーの製造メーカーがあるテムコジャパンは、東京の杉並区にあります。地下鉄丸の内線の支線の終点・方南町です。
この街はビジネス街ではなく、庶民的な住宅街といえます。

そんな街の周辺には古代からの住居跡があり、遺跡も数多くあります。
遺跡は現代の街に変貌したものもありますが、神社の境内や公園にその名残がある場所もあります。代表的なもので、以前にとりあげたものを列挙すると、、、、

     → 釜寺東遺跡を骨で聴く
     → 方南峰遺跡を骨で聴く

どちらも方南通りや環七から近い位置にあります。
また、方南町かた永福方向へ行った先にある大宮八幡宮では、旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡が発掘されています。

     → 大宮八幡宮を骨で聴く

その大宮八幡宮から善福寺川を渡り、方南町の北側に向かうと杉並区堀ノ内という住所になります。その一角にやはり境内に縄文遺跡があり、西側には後期古墳時代の遺跡のある神社があります。

堀之内熊野神社です。 東京都杉並区堀之内2-6-6 

旧堀之内村の鎮守で、大屋津姫命、五十猛神、抓津姫命の三柱が祀られています。
歴史も古く、社伝によれば文永4年(1267年)に、熊野三山を勧請したのにはじまったといわれます。
室町時代には北条氏綱が江戸を攻略した際に社殿を修築し、江戸時代の寛永11年(1634年)には修繕を加えたと伝えられています。



総欅造りの社殿は精巧かつ豪華なことで有名で、杉並区では随一の評があるほどです。
桧造りの幣殿は大正12年の造営で、旧幣殿は現在の神楽殿に改修しています。
周囲は大型マンションをはじめ、完全な住宅街になっていますが、境内は広く、かなり落ち着いた雰囲気を持つ場所です。

遺跡があることかたも分かるように、古代から人が定着できる環境だったこと、また古墳があることから聖域も併せ持ってきたことが、この神社の独特の雰囲気を醸し出しているのかもしれません。
それほどお勧めできる神社です。

特許技術の骨伝導メーカー・テムコジャパンからも近いことを踏まえて、この雰囲気を耳だけでなく、骨から脳へと伝える骨伝導スピーカーでも聴いてみるのがベストです。

     → 特許技術の骨伝導製品

秋というのに気温が上昇する日々が続いています。
それでも落ち葉が徐々に増えているのも事実です。
そんな秋の堀之内熊野神社の境内に立ち、古代から続く聖なる音声を聞いてみるのも癒し効果が得られるのではないでしょうか。

井の頭弁財天を骨で聴く

2013-10-04 11:24:32 | 骨で聴く巡礼旅
諏訪から帰京すると、そこには見慣れた日常の空間が満たされていました。都内を走り回り、いつもの都会の光景が広がっていきます。
そんな日常の中で、吉祥寺に行った際には井の頭公園を散策すると、なぜか慌しい日常から少しだけ離れることができます。学生時代から親しんできた公園ということだからかもしれません。

そんな井の頭公園に弁財天があります。
今回は弁財天へ骨伝導ヘッドセットとともにお参りです。

弁財天は七福神の一つとしても知られていますが、もともとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティーのことです。 サラスヴァティーとは聖なる(豊かなる)河という意味であることから、水の神様とされてきました。弁財天のご真言は「オン・ソラソバテイ・エイ・ソワカ」です。

井の頭池に浮かぶ島にあるということで、まさに弁財天のロケーションは抜群です。

また弁財天は財宝を授ける神様としての信仰があります。
本堂の裏手には、龍の形をした銭洗い弁天もあります。ここでお金を洗えば、財産が増えるというご利益があるといわれます。




今では公園内にある弁財天となっていますが、歴史は古く、天慶年間(938-946年)に源経基が、伝教大師作という弁財天女像をこの地に安置したのが始まりといわれています。
建久8年(1197年)には源頼朝が建立し、正慶2年(1333年)には新田義貞が戦勝祈願を行ったとも伝えられています。
そして徳川家光は寛永13年(1636年)に焼失した弁財天の宮社を再建しました。

源経基、源頼朝、新田義貞、徳川家光と、源氏に深い関係を持つ弁財天であることが分かります。

江戸時代には、安藤広重が名所江戸百景でも描いています。
「井の頭の池弁天の杜」で秋の風景、名所雪月花「井の頭の池弁財天の社雪の景」で冬の夕景を描いています。

そんな弁財天で空気が振動する音声だけでなく、骨の振動から脳へと伝える骨伝導ヘッドセットを使って周囲を聴いてみます。耳から入る公園の音とともに、歴史ある弁財天が発する歴史の音が骨伝導で伝わってくるようです。

     → 骨伝導を使った驚異的な製品

日常生活に戻っても、身近にこんな癒しの空間があるので、エネルギーをリセットできるのかもしれません。
井の頭公園に散策に来た際には、ぜひお参りをお勧めします。

諏訪大社下社秋宮を骨で聴く

2013-10-03 10:05:26 | 骨で聴く巡礼旅
20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮が行われたその日、古代の国譲りに登場した出雲の神・建御名方神を祀る諏訪大社へと心が移ります。

上社本宮、上社前宮、下社春宮に続いて、いよいよ最後の下社秋宮への参拝です。米軍で採用された特許技術の骨伝導ヘッドセットともに旧中仙道と甲州街道の分岐点の要所に鎮座する秋宮を訪れました。

まず目にするのが、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた神楽殿です。
三方切妻造りで天保六年(1835年)立川和四郎二代目富昌の作です。



春宮より存在感が強く、参拝者も多いせいか、一見すると観光地化が激しいようにも思えます。しかし強烈なパワーを持った神社だけあって、何ともいえない気分を味わうことができるようです。

社殿の形式は春宮と同じで神楽殿の奥には、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並んでいます。現在の建物は安永十年(1781年)に立川和四郎初代・富棟の棟梁で落成したもののです。

またここ周辺は温泉の湧出地で、下諏訪温泉があることから境内にも御神湯があります。温泉としても名湯です。

最先端の骨伝導ヘッドセットにより耳だけでなく、骨から脳へと周囲の音声を伝え、諏訪大社すべてを参拝できた気分を「聴き」ます。すべてまわるのに時間を要してしまいましたが、ある種の達成感をも抱くことになりました。

     → 諏訪大社上社前宮を骨で聴く
     → 諏訪大社上社本宮を骨で聴く
     → 諏訪大社下社春宮を骨で聴く

都内に戻り、非日常空間に別れを告げることで、新たなパワーを発揮できればうれしい限りです。

諏訪大社下社春宮を骨で聴く

2013-10-02 19:02:46 | 骨で聴く巡礼旅
諏訪大社上社から諏訪湖を挟んで約13kmの位置に下社春宮が鎮座しています。上社と異なり、下社へは駅から徒歩で充分に歩ける距離です。
JR中央本線下諏訪駅が最寄り駅で、駅から北西へ約1kmの距離です。秋宮からも西へ約1kmで、旧中仙道沿いに鎮座しています。

入口の御影石の大鳥居は万治2年(1656年)建立と推定されています。
境外には万治の石仏がありますが、同じ作者と言われています。




諏訪大社には本殿が設けられていませんので、春宮はスギの神木を神体として、拝殿から拝するようになっています。
その拝殿は、左右片拝殿及御宝殿と続く建物の配置で、これは秋宮と同じです。



拝殿の前には神楽殿があり、修改築が幾度となくなされています。これも春宮と秋宮で、大きさは異なりますが、その構造は全く同じになっています。

社殿は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負ったようで、秋宮よりも後から着工しましたが、竣工は1年早かったといいます。
また、境内は社殿3棟が国の重要文化財に指定されています。

上社と比べると街中にあるような印象を持ちますが、今の時期は緑に覆われ、静謐な空間がかつての街道に対面していることを思うと、歴史の大きな流れを感じ取ることができそうです。
耳だけでなく骨伝導を使って周囲の音声も聴きながら、しずかに参拝したい場所です。ただその際は、特許技術の骨伝導機器でなければ意味がないでしょう。
本物の場所には本物を。

     → 特許技術の骨伝導製品

次は秋宮へ向かいます。いよいよ諏訪大社もこれで完全に巡れたことになります。