懐かしい感じのする木造駅舎・JR相武台下駅(→相武台下駅を骨で聴く)を後にし、住宅街へと歩いていきます。閑静な住宅街というより、のどかな住宅地です。
やがて川を渡り、少し行くと右手に自治会館があり、その向かい側に萬年山長松寺の山門が現れます。禅宗の寺院ですが、質素な感じはしません。相武台下駅から北東へ約200mという近さです。
功雲寺(津久井町)の末寺で、薬師如来を本尊としている寺院で、鎌倉公方の足利氏満が曇芳を請じ、臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として開いたとされています。
曇芳とは、鎌倉の永安寺(廃寺)の開山で、鎌倉の円覚寺、建長寺を経て当寺の開山となったようです。
中興されたのは二度あり、一度目は永享2年(1430年)、後北条氏の頃です。当時、この地方の守護人だった松本式部少輔によります。
次に中興されたのは、平岡岡右衛門吉道と喚室宗応によると伝えられています。
この二度目の中興のときに現在のように曹洞宗になったようです。
この寺院が有名なのは、足利氏満による応永3年(1396)の寄進状が残されている点です。相模原市では現存する市内最古の文書だということです。昭和50年に市指定重要文化財となっています。
夕闇が迫る時でしたが、確かな存在感を醸し出している寺院でした。
やがて川を渡り、少し行くと右手に自治会館があり、その向かい側に萬年山長松寺の山門が現れます。禅宗の寺院ですが、質素な感じはしません。相武台下駅から北東へ約200mという近さです。
功雲寺(津久井町)の末寺で、薬師如来を本尊としている寺院で、鎌倉公方の足利氏満が曇芳を請じ、臨済宗建長寺宝珠庵の末寺として開いたとされています。
曇芳とは、鎌倉の永安寺(廃寺)の開山で、鎌倉の円覚寺、建長寺を経て当寺の開山となったようです。
中興されたのは二度あり、一度目は永享2年(1430年)、後北条氏の頃です。当時、この地方の守護人だった松本式部少輔によります。
次に中興されたのは、平岡岡右衛門吉道と喚室宗応によると伝えられています。
この二度目の中興のときに現在のように曹洞宗になったようです。
この寺院が有名なのは、足利氏満による応永3年(1396)の寄進状が残されている点です。相模原市では現存する市内最古の文書だということです。昭和50年に市指定重要文化財となっています。
夕闇が迫る時でしたが、確かな存在感を醸し出している寺院でした。