骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

淡島湯温泉を骨で聴く

2014-03-28 09:57:33 | 骨で聴く癒しの世界
東京の渋谷から環七方面へ、玉川通り(国道246号線)と平行している淡島通りから、少し路地に入った先に天然温泉の「淡島湯温泉」があります。

東急バス渋谷駅より「若林折返所」行バスで「淡島」停留所下車か、京王井の頭線の池ノ上駅、東急田園都市線池尻大橋駅から徒歩といった場所です。鉄道の駅からは決して近いとはいえない距離です。

天然温泉の施設とはいうものの、どことなく昭和を感じるような、ごくごく普通の銭湯という雰囲気です。
元々は温泉銭湯ではなかったようですが、天然温泉を掘り当てたことで温泉の名称を使うようになったようです。それまでは「第二淡島湯(第2淡島浴場)」というのが名前だったとのこと。温泉成分分析表で「源泉名 第二淡島湯」となっているのもその名残でしょう。

すぐ近くには北沢川緑道があり、閑静な住宅街をゆるやかに流れる小川があります。確かにこの周囲は高級住宅街で三宿にも近い場所といえます。それでも昔ながらの店舗が随所に見られ、不思議と下町的光景に似た感じも併せ持つロケーションといえます。

肝心の湯は、というと、都内の天然温泉でよく見かける黒湯に相当します。それでもそれほど極端に濃いというわけではありません。
香りはほぼ無臭ですが、若干モール臭のような感じがするのは都内の温泉ならではです。

泉質名という扱いではなく、温泉法による「規定泉」という扱いです。規定に達しているのは「重炭酸ソーダ」と「メタ珪酸」の項目です。
源泉温度は17℃ですから、一般的に言われる「鉱泉」になり、成分総計は818mgだそうです。

同じ世田谷区内の温泉銭湯としては、下高井戸駅から徒歩で行ける「月見湯温泉」に次いでの訪問ですが、実はここはわが家から近いのに行く機会がありませんでした。

     → 月見湯温泉を骨で聴く

身近な温泉に浸かりながら、日常のすぐ隣にある非日常の空間を骨で聴きます。
耳だけではキャッチできない癒しのBGMが骨伝導によって脳まで届くかもしれません。
脳波との関係を考えるのも良いですが、ここは骨伝導によるBGMとともに純粋に温泉を堪能するのがベストかもしれません。

そんな骨伝導機器ですが、増税前の最後のチャンスで大幅割引と全額返金保証のキャンペーンを実施しています。まもなく終了です。

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4月からは増税に伴って、様々なものが少しずつ変化してくる予感があります。
年度末の疲れは身近な温泉にでも入って、綺麗に落としたいものです。


四谷怪談ゆかりの寺社を骨で聴く

2014-03-26 10:44:53 | 骨で聴く巡礼旅
「四谷怪談」といえば、江戸の時代、元禄年間に起きた事件をベースにして創作されたものです。
その「四谷怪談」の中でも最も有名なのが「お岩さん」のストーリーかもしれません。

お岩さんの話は、四谷怪談の基になった実話として文政10年(1827年)に記録された文書が残されているので知られいます。その文書は四谷のお岩稲荷にあります。

お岩稲荷の文書では、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘がお岩で、浪人の伊右衛門を婿にしました。ところが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁してしまいました。
お岩は狂乱して行方不明となっていまったといいます。
さらには、その後の田宮家で変異が相次ぐこととなりました。
そこで怨霊を抑えるために、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたという内容です。

これが現在にまで残る四谷の田宮神社で、その向かい側には陽運寺があり、ここにもお岩は祀られています。

怨霊を抑えるために神様に祀りあげるのは、日本の伝統的な手法です。菅原道真や崇徳院、平将門のような三大怨霊に代表される手法です。

舞台となった四谷ですが、行政区分上では新宿区に入ります。新宿区を代表するのは山手線沿線エリア(新宿駅から高田馬場駅)とは全く異なるエリアが四谷です。
山手線の内側に位置しますが、閑静な高級住宅街を形成していたり、超一流文教地区にもなっています。

四谷怪談ゆかりの寺社は、地下鉄四谷三丁目駅の近くにあります。東西を貫く新宿通りと南北を横切る外苑東通りの交差店近くです。

外苑東通りから入る狭い路地がいくつかあり、そこへ一歩足を踏み入れると、そこは都心部とは思えないほどの閑静な住宅街になっています。そんな路地の中に向き合うように寺院と稲荷神社が建っています。

寺院は「於岩稲荷霊神・陽運寺」です。「お岩稲荷」と書かれた提灯が吊るされた門があります。



陽運寺の境内で注目したいのは「お岩様由縁の井戸」です。
怪談と井戸はセットのようになっているほど、相性が良いのかもしれません。

そこで思い出すのが番町皿屋敷です。井戸の中からお菊さんが「一枚...二枚...三枚...」と皿を数えるのは何とも怖い話です。



「四谷怪談」の場合は、夫の伊右衛門に毒薬を盛られ、顔が醜くなったお岩さんが殺され、幽霊となって出てくるというのがストーリーになっています。

陽運寺の境内から出て、斜向かいを見ると、そこには「於岩稲荷田宮神社」が鎮座しているのが見えます。「東京都指定史跡」になっています。

田宮家が建てた田宮神社のことですが、もとの社殿は明治12年に焼失してしまったようです。その際に田宮家の屋敷の中に移転したようですが、再びこの地に復活したものが現在の田宮神社だそうです。

この神社には実在の「お岩さん」について書かれた資料や新聞記事など掲示されているので、それを見る事ができます。すると意外な話が出てきます。

実在のお岩さんは、この地で良妻賢母として健気に一生を送ったという内容です。
全く怪談ネタとは思えない内容が出てくるので戸惑います。

もしかしたら、普通の主婦が、いつの間にか怪談話になったことこそが一番のミステリーなのかもしれません。

そんなお岩伝説の場所で、周囲の音声を耳だけでなく骨からも聴きます。
最先端の技術、特許技術、そして何より米軍の爆音の中でも通話を可能にした技術を駆使した骨伝導製品を使って、音声を聴きます。

真実のお岩さんの声を聴けるでしょうか?

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お岩さんの再発見とあわせて、ぜひお試しください。

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時にはディープな東京観光名所を訪れるのも良いでしょう。
でもそのときは骨伝導製品をお忘れなく!

松羽稲荷神社を骨で聴く

2014-03-25 10:06:27 | 骨で聴く巡礼旅
東京の世田谷区を代表する公園・羽根木公園は、「六郎次」という野鍛冶が住んでいたという伝説から「六郎次山」と呼ばれていましたが、その後に根津財閥の所有地となったため、次に「根津山」と呼ばれるようになりました。
1956年に都立公園になり、1965年に世田谷区に移管されて区立公園となったという歴史を持ちます。

その羽根木公園のすぐ隣にひっそりと鎮座する小さな神社があります。
松羽稲荷神社です。

「松」は「松原」、「羽」は「羽根木」のそれぞれの地名に由来するのかもしれません。二つの地名の境界線に位置するということでしょう。

駐車場から公園の西側に沿った道路方向に行くと、鳥居があります。その先にも鳥居が見え、小さな社殿が見えます。都会の神社らしい小さな神社の印象ですが、境内に入ると驚きます。

境内は想像以上に広いのです。
参道から鳥居、社殿までの一直線ですが、その右側に空き地のような空間が広がっています。ある意味、不思議な光景といえます。
鎮守の森になるほどの木々はありません。文字通り空き地といった雰囲気です。

そういえば、地元の松原の商店街が主催する「ホタルを見る会」が毎年7月にこの境内で開催されると聞きました。そんな観点から見れば、まさに最適な境内の広さかもしれません。

神社としては、創建年代不明だそうですが、江戸時代には羽根木神社と隔年交替で例大祭の祭礼を執り行ってきたという記録がありますから、それなりの歴史はあるのでしょう。

さすがにこの境内までは羽根木公園でスポーツをする人や遊んでいる子供たちの声は届きません。騒音対策としての骨伝導機器の利用ではなく、周囲の音声を耳だけでなく、骨からも聞くことに集中できます。

米軍採用での特許技術を駆使した骨伝導製品と巡礼の相性が良いのは、ここで何度も取り上げていますが、この神社の不自然な境内と公園の近くというロケーションが、まさに「相性」という面ではナンバーワンかもしれません。

その理由は?

それは実際に訪れてみるのが一番です。
そのためには骨伝導機器が必要です。3月末日までなら7周年記念の延長で、「全額返金保証」キャンペーンを実施しています。
この機会にぜひどうぞ。

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世田谷区は地元ということもあって、神社仏閣は多く取り上げてきています。意外な穴場も多くありますが、松羽稲荷神社はわざわざ来るというより、羽根木公園の散策とあわせて参拝に来るのが良いかもしれません。


東大和八幡神社を骨で聴く

2014-03-24 08:48:52 | 骨で聴く巡礼旅
東京の東大和市は北側が狭山緑地になっていて、その東側の一角、豊かな森林の中に八幡神社が鎮座しています。昔ながらの森林地帯が開けた場所に創建時代からの面影を残しているかのようです。

道路から石段を上ると高台の場所が南北に開けています。社殿までの長い参道が続き、その左側は大和八幡幼稚園になっています。



反対側は石段を登る前に通ってきた道路が眼下に見えます。
ここに東大和市史跡の八幡谷戸遺跡があります。出土品は市指定文化財(市重宝)に指定されているようです。



この八幡神社の創建については不詳とのこと。
それでも伝承によれば、この地域の古くより鎮守となっていたようです。

伝説では、最初、この神社がどんな神を祀るかはわからなかった時代に、戦からこの地へ落ち延びてきた武士が、この地にある社を見つけ、一夜を過ごすことにしました。
そのとき、武士に神託がありました。

「吾は八幡の神なり。当社によく宿ってくれた。宮が破損しようとしているので、村人に建て替えるよう知らせてほしい」

そんなお告げがあったことで、早速、翌朝には領主のもとを訪れ、伝えたといいます。

歴史的には天正3年(1575年)に、石川太郎右衛門により社殿が再興されたとあります。
さらに元禄2年(1689年)、子孫である石川太郎右衛門並岸隼人の尽力により拝殿が建てられました。



現在の社殿は昭和7年(1932年)の改築によるものだそうです。

春が確実に目の前に迫っているこの季節、東京でも郊外のこんな神社に参拝すると、何とも気分がリフレッシュできます。
とても気持ちのよい境内です。

豊かに茂る木々が風で奏でるメロディを耳だけでなく、骨からも脳に伝え、より一層の快適な気分に浸れます。米軍採用の特許技術を誇る骨伝導製品の性能と、こんな気持ちの良い神社との組み合わせは最高です。

もうすぐ4月。
消費税の増税です。
骨伝導製品も今ならまだ、大幅割引と「全額返金保証」のキャンペーンが適用されます。
最後のチャンスです。

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バイクで参拝に来るなら骨伝導ヘルメット通信システムの「BUHEL」を!
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本当に最後のチャンスです!

浅草駅を骨で聴く

2014-03-19 10:56:40 | 骨で聴く鉄道駅
この「骨で聴く異世界」では、原点ともいえるターミナル駅が浅草駅です。
ブログ開始当初、また初の米軍採用・特許技術専門の骨伝導機器ECサイトとしてスタートした時点で、浅草周辺から足立区にかけて営業活動を行いました。
7年以上が経過して、改めて浅草駅へと最新の骨伝導ヘッドセットとともに足を向けてみました。

東武線の浅草駅は、地上7階・地下1階のビルの2階にあり、切符売り場は1階です。
始発駅らしく、頭端式ホームになっていて、3面4線構造になっています。

隅田川に平行した位置にある駅舎ですが、線路は浅草駅を出てすぐに隅田川を直角に横断することになります。そのため、この窮屈な立地の制約上、入線可能な列車は1番線はかろうじて8両編成も入線できるものの、他はすべて6両編成に限定されています。

東京の大手私鉄各社が8~10両編成を主体としているのに対して、浅草駅はターミナル駅でありながら構造上の致命的な問題があります。

駅ビルは、鉄道省の初代建築課長であった建築家久野節が設立した久野建築事務所が設計し、清水組により施工された歴史ある建物です。
動線が明確で、複雑な構造を避けた設計になっています。そのため入口からホームまで一直線に結んでいるので、都内の他のターミナルビルと比較すると好感の持てる印象があります。

また駅ビルは、松屋浅草店がテナントとして入っています。関東では初となる本格的な百貨店併設のターミナルビルとして開業したという歴史があります。

建物そのものとしては、昭和初期を代表するアール・デコ様式として、その価値を誇っていましたが、1974年にアルミ製の外壁が取り付けられるようになり建設当時の面影は失われていました。

ところが、東京スカイツリー開業により、浅草駅にも大きな影響が生じました。
開業時の姿に復元すると同時に、待合室の新設・耐震補強工事の施行を含めたリニューアルが行われることになったのです。
2012年5月に竣工し、開業時のシンボルだった大時計も復活しました。
そして2012年11月21日、浅草エキミセとしてリニューアルすることになりました。

また浅草駅はターミナル駅でありながら、乗降人員の数が沿線ナンバーワンでないことです。開業当初は、東武本線全線中最も乗降人員が多い駅でしたが、地下鉄日比谷線との直通運転により、実質的なターミナルの座が北千住駅に移り、次に地下鉄半蔵門線との直通運転により、とうきょうスカイツリー駅・押上駅の合計よりも下回るようになりました。

現在は、東武伊勢崎線の駅では第8位という数値です。

それでもスカイツリー効果でしょうか、減少傾向から2012年度は一転して増加したという結果が出ています。

実は「骨で聴く異世界」の記事の中で安定して人気のあるページが東武線絡みの以下のページです。

     → 特急りょうもうを骨で聴く
     → 特急「りょうもう」号で行く温泉を骨で聴く

どちらも特急りょうもうが関係するページで、東武の代表的な特急「スペーシア」を取り上げていないのがポイントかもしれません。

外国人観光客も多い浅草はいつも賑わっています。
喧騒の中で携帯電話の着信があっても、通話先の相手の声がよく聞き取れないことがよくあります。そんなときには骨伝導ヘッドセットです。

今なら「全額返金保証キャンペーン」を実施しています。

     → 騒音の中でもよく聞こえる米軍採用の骨伝導機器

東京の古くからのターミナル駅・浅草駅と最先端の骨伝導ヘッドセットはよく似合います。

笹寺長善寺を骨で聴く

2014-03-18 11:12:40 | 骨で聴く巡礼旅
東京三十三観音霊場の16番札所である笹寺は、天正3年(1575)高坂弾正昌信の居所に結ばれた草庵を起源としています。高坂弾正昌信は、「甲陽軍艦」の著者として知られる甲斐国・武田氏の臣です。
開山は文叟憐学和尚です。本尊は釈迦如来石像で、これは元禄3年(1690)制作といわれています。

場所は地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅からすぐの場所で、新宿通りに山門があります。

周囲の寺院よりも歴史があることが想像できます。
なぜなら、四谷周辺の寺院は、寛永11年(1634)以降に麹町から移転してきたものが多いので、その対比から笹寺長善寺は四谷の地域に根付いていたといえるかもしれません。

曹洞宗の寺院で、正式には四谷山長善寺すすが、笹寺と呼ばれるのが一般的です。
笹寺の由来は、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠が鷹狩の途中ここに立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見てつけたものという説(「江戸名所図会」などによる)と、3代将軍・徳川家光が江戸巡覧をした時のことだという説(寺伝による)があります。
しかしどちらの説も確実な根拠があるわけではないようです。

それでも笹寺長善寺の宝物となっている「めのう観音」(新宿区指定文化財)は秀忠の念持仏です。秀忠の死後に崇源院が寄贈したという伝説や、あるいは崇源院の念持仏だったという説もあります。

この「めのう観音」は、赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像です。
像高4.9cmの小像ですが、容貌は豊麗で精密な作品で、黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されているようです。

喧騒の四谷、しかも新宿通りから少し入っただけで徳川将軍の伝説に彩られた寺院があるのは、何とも興味深い存在といえます。

喧騒には骨伝導ヘッドセットを使って、騒音対策ができます。
米軍の爆音の中でも通話を可能にした特許技術です。
境内に入ってからは周囲の音声を耳だけでなく、骨からも聴くことで伝説のロマンに浸れることでしょう。

そんな高性能な骨伝導機器ですが、増税前の「全額返金保証キャンペーン」を実施しています。在庫も少なくなっています。今がチャンスです。

     → 喧騒と静寂の狭間に骨伝導製品

ウォーキングを兼ねて都内の寺院巡りをするには、最適な場所が四谷ともいえます。その中でも笹寺長善寺はかなりの存在感を示しています。
なお、都心での高齢者のウォーキングは、特に難聴傾向の方には危険と隣り合わせといえます。骨伝導の利用をお勧めします。

武蔵村山・須賀神社を骨で聴く

2014-03-17 10:03:24 | 骨で聴く巡礼旅
東京の武蔵村山市は多摩地域北部に位置し、武蔵野台地の西に当たります。狭山丘陵を挟んで埼玉県と接しています。都内では珍しく鉄道が通っていない都市で、しかも国道もありません。

クルマ好きな人には、日産自動車村山工場があった都市として知れれているかもしれませんが、現在は工場跡地の一部が『プリンスの丘公園』となっています。スカイラインやグロリアを誕生させたプリンス自動車工業の本社工場の名が今でも残っています。

そんな武蔵村山市ですが、市の北部の狭山丘陵は圧倒的な存在感を示し、西から東へと長く続いています。そのエリアは東京都立野山北・六道山公園という広大な公園になっています。

今回訪れたのもその公園に隣接する須賀神社です。

鉄道がないのですが、もし公共交通機関で行くとすれば、JR箱根ヶ崎駅からバスを利用することになります。



現在では野山北・六道山公園内になる場所に、寛永10年(1663年)に創建されたのがはじまりといわれています。現在の奥の院です。

丘陵の奥深いところにあり、そこに至るまでの道はハイキング気分よりも登山の気分になるかもしれません。




それでも奥の院はおすすめです。
何ともいえない雰囲気が出ています。里山の奥地に日本人のDNAに刻まれた聖なる空間が横たわっている感じがします。素朴な社殿と里山が残された周囲の景観が見事にマッチしています。



里山周辺の人たちでも、誰もが参拝しやすい場所とは言いがたいといえます。
そのため、寛政2年(1790年)に丘陵地帯の麓の場所に遙拝所が建てられました。
さらに昭和51年(1976年)になって、この遙拝所が本殿と定められるようになりました。その結果、それまでの本殿が奥の院となったのです。



悪疫鎮護の神として村人の信仰を集めてきた須賀神社の御祭神は、何と言っても素盞嗚尊です。
須賀神社は日本全国に存在しますが、すべて素盞嗚尊が主祭神です。明治の神仏分離まで は「牛頭天王社」 などと称されました。

境内には乃木希典大将の書による明治三七・八年戦役(日露戦争)の碑もあります。

のどかな神社は心が洗われます。
周囲の音声を耳だけでなく骨伝導機器を使って骨からも聴きます。日本人の奥底にある何か、形を表現できないアイデンティティに通じる何か、そんな部分を刺激されるようです。
不便な印象を拭うことは難しい武蔵村山市ですが、この神社はかなりお勧めです。ぜひとも骨伝導機器とともに参拝してみてください。そこに忘れていた日本人としての「何か」を発見できるかもしれません。

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築土神社を骨で聴く

2014-03-14 18:24:39 | 骨で聴く巡礼旅
日本武道館の氏神でもある築土神社へ骨伝導ヘッドセットともに参拝です。
この築土神社は都会的な境内になっていますが、何と言っても平将門です。

940年(天慶3年)、藤原秀郷に討たれた将門の首は、京都に届けられ、晒されることになりました。この将門の首を首桶に納め、密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現在の千代田区大手町周辺)の観音堂に祀ったという伝説があります。

大手町の将門の首塚とは伝説が異なります。
大手町の首塚の伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、現在の千代田区大手町1丁目に落ちたというものです。

築土神社の場合は、その観音堂が津久戸明神と称したのが始まりのようで、後に、1478年(文明10年)には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を造営したといいます。

江戸時代の文献によれば、平将門の首は神社内に安置されていたといわれていますから、将門信仰の象徴的神社となっていたのは事実でしょう。

しかし、明治時代いは、将門は相殿に格下げされてしまい、天津彦火邇々杵尊が主祭神となりました。




境内には世継稲荷もあります。
1441年(嘉吉元年)、飯田町(現在の九段坂から中坂付近)に創建されました。
当時はこの辺一帯は田安郷といわれていましたから、田安稲荷と称されました。
1590年(天正18年)に、江戸幕府2台将軍・徳川秀忠この地を巡覧し、この神社を参詣したといわれます。そのときに橙の木があるのを見て、これが「代々」と同音であったことから「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛したといいます。
これ以降、田安稲荷は世継稲荷といわれるようになったという話です。

平将門に関連する神社仏閣の代表格といえば、神田明神と成田山新勝寺です。
骨で聴く異世界でも以前に訪れています。

     → 神田明神を骨で聴く
     → 成田山新勝寺を骨で聴く

大怨霊ともいわれる将門ですが、実際の業績を見ると、天神様とは異なる信仰になる気がします。



そんな将門に思いを巡らせながら、大都会の真ん中にある築土神社の周囲を耳だけでなく骨でも聴きます。骨伝導機器の威力により、頭の中は時空をこえていきそうな気分です。
米軍採用で特許技術を誇る骨伝導機器だからこその威力です。

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鎌倉幕府、江戸幕府と、二つの幕府が関東にありましたが、本当の先駆けは平将門かもしれません。骨伝導ヘッドセットでそんな声を聴いたような気がします。

杵築大社を骨で聴く

2014-03-12 10:38:14 | 骨で聴く巡礼旅
米軍採用・特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットと各地の神社仏閣を訪れていますが、神社の中で「大社」と名の付くところはそれほど多く参拝していません。
それもそのはずで、大社とは大きな神社のことで、街中にそれほどの規模のある神社は多くありません。

平安時代初期の延喜式神名帳に大社として列格されたのは全国で492の神社しかなく、さらに遡れば、単に大社といえば一般的には出雲大社のことを指していたほどです。

それでも時代が変わり、戦後になると旧官幣大社や旧国幣大社などの神社が大社を名乗るようになってきました。

以前に訪れた骨伝導巡礼で「大社」といえば、諏訪大社と三嶋大社しかありません。
ようやく今回、三番目の大社へと向かうことになりました。

しかも、東京の武蔵野市で、JR中央線の武蔵境駅からの徒歩圏内にあります。
杵築大社です。

日赤病院の前の通り沿いにあるので、実は何十回となく通り過ぎてきた場所です。悪名高かった「開かずの踏切」が中央線の高架化によって解消されたので、ここに立ち寄る余裕が生じたといえます。

実際の杵築大社は都会の神社だけあって、境内の敷地面積が広いわけではありません。それでも、確かに周囲のよくある神社とは風格が異なる感じがします。

ここは、徳川幕府の3代将軍・家光の従兄弟で、家康の二男にあたる松平秀康の三男(松平出羽守直政)が、十二町四方を御用屋敷と定め、鷹狩りをして遊ばれたところと伝えられています。
松平出羽守直政は出雲国松江29万石の領主である松江城の城主です。いわゆる出雲の殿様、でした。
その松平出羽守直政公は信仰心が厚く、この屋敷内に徳川幕府の繁栄と、天下泰平を祈願して、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷社を創建しました。つまり最初は松平藩の屋敷神だったわけです。

承応年間には、徳川幕府4代将軍・家綱が玉川上水を築いて新田開発を行いました。
この地の松平家屋敷奉行が長百姓となり、境新田の開拓につとめるようになります。その子孫である境本仲右エ門は、境村の名主として村人と共に活躍したといわれます。

貞享年の間に、御上地となり、松平藩の屋敷神から境村の氏神社となり、大社様と呼ばれるようになったようです。村人からは崇敬されるようになりました。

戦後には、地元商店会の発展を念願して、商売繁昌の神や、出雲の美保神社よりえびす様を勧請しました。そのため、「恵比寿・大黒」二福神を祀る大社として、地元住民はもとより近隣市町村の人々から広く崇敬をあつめるようになりました。




境内には武蔵野市の市史跡になっている「杵築大社の富士山」もあります。
明治14年5月に境本村をはじめ近隣22町村の丸嘉講の協力により作られたものです。何ともいい雰囲気を醸し出しています。

それほど大きな印象はありませんが、調べてみると、東京の三多摩では清瀬市にある富士山神社に次いで大きなものなのだそうです。

出雲との関係だけでなく、富士信仰の規模の大きさもわかるといえます。

そんな杵築大社は、コンパクトにまとまっていて、とても好感がもてます。目の前に「開かずの踏切」による渋滞のクルマの列がなくなった影響もあるかもしれません。
重低音のエンジン音が続けば、骨伝導ヘッドセットによる騒音対策という役目も大きいといえますが、今では、純粋に周囲の音声を耳だけでなく骨からも聞くことに専念できます。

米軍で採用された特許技術を誇る骨伝導ヘッドセットにより、杵築大社の存在感がさらに増した気分です。

     → 高性能な骨伝導製品が全額返金保証!

社殿では、何度も前を通りながら一度も参拝しなかった非礼をお詫びしました。

中嶋神社と中仙川不動堂を骨で聴く

2014-03-10 10:41:36 | 骨で聴く巡礼旅
中央高速が東西に走るすぐ近く、三鷹市中原に中嶋神社が鎮座しています。
住宅街と少しのどかな雰囲気を持った地域です。

中嶋神社の創建年代は不詳です。それでも歴史は古いようで、この地域に古くからあった稲荷社を、慶長3年(1598年)に現在地へ遷座したといわれています。明治6年には村社に列格しました。

都会の神社という印象は全くなく、鄙びた村落の一角にあるような感じさえ漂う境内です。

厳島神社の境内社には水がなかったものの、何となく雰囲気はあり、社殿にまっすぐ向かう参道には木々が生い茂り、それが聖なる空間へ続いているようにさえ思えます。



そしてここには、社地奥には中仙川不動堂があります。

江戸開府当時は、この地域は青山百人組の給地でした。
慶長19年(1614年)、大阪の陣の軍功により柴田勝家の孫・勝重に与えられました。後北条時代の土着支配に変わり、江戸を中心とする徳川幕府の新たな支配体制の中で村落を形成するようになりました。

この不動堂の濫觴については詳細不明ながら、「新編武蔵風土記稿」の「中仙川村」の記録に以下のように記されています。

「堂地三畝十歩、年貢地、三間四方、西原にあり、立身の木像、長一尺餘、慈覚の作なりと云 別当大行院 堂の側にあり、富永山と號す、本山修験、小田原王瀧坊の配下、佐々木の後裔にて、鼻祖は富永勘解由左衛門と云しよし…云々」



往昔よりこの地に文殊院という修験者がいて、元禄の頃から大行印慶元という修験者によってその名も大行院と改められたといいます。

文殊院時代からの宝物として、新田義貞の手旗と、義貞の部下・篠塚伊賀守自筆の、鎌倉追討に際しての願書(元弘3年・1333年)が所蔵されていたとも記されています。
しかし、その所在については不明です。

現在の不動堂は昭和40年(1965年)に再建されたものです。
堂内には、不動明王像、不動明王及び二童子像、摩多羅神像、烏枢沙摩明王像、役行者及び二鬼像など五体の尊像が守護神として合祀されています。

鄙びた雰囲気の神社に不動堂という組み合わせで、三鷹市内にいるような感じはまるでしません。どこか旅情を喚起されるかのようです。

こんな貴重な空間に立ち、骨伝導ヘッドセットで周囲の音声を聞いてみます。
耳だけでなく骨から脳へと音声を伝えることで、よりこの聖域の「気」が染み込んでくるようです。

米軍採用で特許技術を駆使した骨伝導機器だからこそ、実現できた感覚かもしれません。
それほどの驚異的な性能を持った製品が、「全額返金保証」キャンペーンを実施しています。折り返し地点を過ぎたようで、数量はかなり少なくなっているようですので、お早めにお試しください。

     → 米軍採用の骨伝導製品・返金保証

23区と同じような扱いになっている三鷹市と武蔵野市ですが、陸の孤島のようなエリアには、驚くようなお勧めポイントがたくさんありそうです。
これだから骨伝導巡礼はやめられません。

遍照山高野寺文殊院を骨で聴く

2014-03-07 10:48:06 | 骨で聴く巡礼旅
御府内八十八ヶ所霊場の打留札所として知られる文殊院は、高野山真言宗の寺院です。
江戸時代には、芝二本榎(港区)の学侶方高野寺(現在の高野山東京別院)と並んで、高野山の行人方の触頭として真言宗では重要な寺院でした。

現在は落ち着いた住宅街の中にひっそりと建っているという印象です。
場所は杉並区の和泉にあり、神田川を見下ろす段丘上にあります。北側を方南通り、南側を甲州街道、東側を井の頭通り、西側を環七通りに囲まれた住宅街で、このエリアの中では真ん中のような場所です。



寺伝によれば、開山は高野山興山寺の木食応其上人です。
しかし実際には、「文政寺社書上」によって、勢誉師が、慶長5年(1600年)徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し、開創したといわれます。

徳川氏の江戸開府によって、寛永4年(1627年)に応昌師が江戸浅草に寺地を賜り、駿府城北の丸の建物を拝領して移築しました。

元禄9年(1696年)には麻布白金台町(現在の港区白金台)に移りました。

「江戸名所図会」には、「白金高野寺」として描かれています。

最終的に杉並区の現在地に移転してきたのは大正9年といわれます。
白金台の区画整理によるものだそうです。



宝暦年間(1751-1764年)に御府内八十八ヶ所霊場打留の札所となりました。
そのため、境内には大師信仰を示す八十八ヶ寺大師石像や「お砂踏の石」があります。

また、本尊も弘法大師坐像です。
室町末期の作といわれ、「難産の女人を救い給う安産守護のご本尊」として信仰されており、多くの女性が安産祈願に参詣したといいます。

杉並区の寺院としては、弘法大師像は極めて珍しい存在といえます。

そんな閑静な文殊院で骨伝導機器を使って周囲の音声を聴いてみます。
静寂の中に生活の音がかすかに聞こえてきます。
米軍採用の特殊な特許技術を誇る骨伝導機器でなければ、この感覚は味わえないでしょう。本当に落ち着きます。

折りしも、まだこの驚異的な技術力を持つ骨伝導製品が、「全額返金保証キャンペーン」を継続しています。このキャンペーン用在庫も順調に減っているようですので、この機会に新しい同行二人の旅、弘法大師との遍路旅を骨伝導機器とともにするのはいかがでyそうか?

季節は確実に遍路や巡礼の季節に近づいています。

     → 巡礼・遍路には最先端技術の骨伝導機器

四国だけが弘法大師との旅ではありません。
身近な遍路旅は新たな発見を生むことがあります。そして耳の遠い方には、安全面で骨伝導機器のご利用をお勧めします。


雷電爲右エ門を骨で聴く

2014-03-03 11:51:05 | 骨で聴く癒しの世界
外国人力士が活躍する大相撲ですが、史上未曾有の最強力士とされている人物をご存知でしょうか?

記録を見ただけで驚くべき数値が並んでいます。

現役生活21年
江戸本場所在籍36場所中、通算黒星が10
勝率.962 254勝10敗

昨年国民栄誉賞が授与された「昭和の名横綱」大鵬の記録が生涯の勝率.838ですから、9割6分を超えるという記録がいかにすごいか分かります。

その史上未曾有の最強力士が、雷電爲右エ門です。

江戸後期に活躍した信濃出身の相撲取りです。
身長は六尺五寸(1m90cm)、体重は四十五貫(168.7kg)だったといわれています。
現在の力士と比較しても恵まれた体格といえるほどです。

地方巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門にスカウトされ、寛政2年(1790年)に24歳でデビューしました。
あまりにも強すぎたため、張り手、カンヌキが禁じ手とされ、使うことを許されない、という制約を受けたほどです。
いわばハンデを背負わされたわけですが、それでもこの驚異的な成績を残したわけですから、想像を絶する強さだったとしかいいようがありません。

また、最後まで横綱免許は授与されませんでした。しかし、富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されていて、横綱と同列に扱われることもあります。

横綱免許を受けなかった理由として、実は諸説があり、真実は謎のままといえます。
例えば、土俵上で対戦相手を殺してしまったためとする説、推薦を辞退したとする説、雷電の抱え主である雲州松平家と吉田司家の主家・熊本細川家の対抗意識による説などです。

そんな雷電爲右エ門の像が出身地の近くにある諏訪大社上社本宮にあります。

     → 諏訪大社上社本宮を骨で聴く

圧倒的な力を持った力士と、驚異的な技術力で米軍に採用された骨伝導製品。
何となく共通するような気がしてしまいます。

     → 米軍の爆音を制御する通信技術に骨伝導!