骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

芝丸山古墳を骨で聴く

2015-11-27 12:04:03 | 骨で聴く癒しの世界
東京の都心部に前方後円墳があるというのは意外な印象を受けるでしょう。

しかし、古墳時代は畿内の倭王権が前方後円墳を単に墳墓というより、技術革新を背景にした政治的シンボルとして巨大化させていく一方で、吉備国や毛野国などをはじめとする地方でも、畿内に勝るとも劣らない巨大古墳が造営されてきました。関東でも毛野国から広まった可能性もあります。

そんな時代的な背景を考えれば、東京の中心部に古墳があっても不思議ではないことになります。
ただ一般的にはあまりイメージできるものではなく、しかも都心部の古墳という知名度が低いといえます。

そこで今回、骨伝導ヘッドセットともに訪れたのが都内で最大級の前方後円墳「芝丸山古墳」です。



全長約106mの前方後円墳ですから、それなりの規模といえます。
明治時代に調査が行われ、出土した埴輪などから、4世紀後半~5世紀前半のものと言われています。
1979年には都指定の史跡として登録されました。ただ残念なことに墳頂部や後円部西側が大きく削られているため。古墳建造当時の姿ではありません。また、古墳の麓には縄文時代後期の「丸山貝塚」も発見されています。

南武蔵族長の墓だったのではと言われています。

芝公園の中にあるので、都会の喧騒に隣接しているもののなかなかどうして、それらしい雰囲気が漂っています。
墳頂部に続く坂道を登っていくと、中腹には「円山随身稲荷大明神」が祀られています。
増上寺が移築された際、ご本尊を守るために、裏鬼門であるこの場所に建立されたものと言われています。都内とは思えない空気が漂っているような感じです。木々が生い茂り、今の季節でも深い緑に囲まれています。鳥居の奥に続く参道と、小さな社のバランスが良く、聖なる空間のような、俗世間から一線を画すような、そんな雰囲気さえ感じます。



古墳の隣は芝東照宮、その先に増上寺。
古代から続く聖地の空気を感じ取った徳川家が廟地に選んだとしたら、まさに江戸幕府繁栄の基礎はここにあったのかもしれません。

今回はこの場で耳だけでなく、骨からの周囲の音声を聴きました。
特に変わった音声が聞こえてくるわけではありません。しかし耳だけでなく骨伝導でも周囲の音声を聴くことで、脳波に変化が生じた気分です。骨伝導で癒し効果、といったところでしょうか。

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妙正寺を骨で聴く

2015-11-24 16:28:55 | 骨で聴く巡礼旅
妙正寺は東京都杉並区清水にある日蓮宗の寺院で、山号は法光山です。
環状八号線と早稲田通りに囲まれた住宅街にあります。すぐ北側には妙正寺公園があります。

この公園には妙正寺川の水源にもなっている妙正寺池があります。公園らしい遊具や広場がありますが、何といっても池の存在感が大きく、周辺住民の憩いの場になっています。また、園内で妙正寺川に支流の井草川が合流しているのですが、残念ながら現在は井草川は暗渠です。



妙正寺池は古くから武蔵野台地の湧水池のひとつでした。
妙正寺は1352年にこの池のほとりに建てられました。しかし池や川の名はあとから建立された寺院の名に因んでいます。
ちなみに妙正寺の弁才天はかつては、妙正寺池のほとりにあったものでしたが、付近の宅地化が進んだことで、公園として整備されてきました。

残念なことに妙正寺池の湧水は現在は減少してしまい、池の水は人工的に揚水しているものだそうです。

さて、寺院のほうですが、中山法華経寺第3世・日祐上人が堂を建てたことから誕生しました。
日蓮宗ですから、法華経の守護である天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を勧進し、奉ることになりました。



正保3年(1646年)に社殿を再建し、その3年後、慶安2年(1649年)には徳川3代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄りました。
これをきっかけにして、葵の紋幕と朱印地・五石を賜り御朱印寺になったことで、江戸でも有名な寺院の一つになりました。

天保元年(1830年)には本堂が焼失したものの、天保3年(1832年)には再建しています。
大きな改築は昭和に入ってからで、昭和6年(1931年)です。これが現在に至っています。

本堂の裏手には稲荷神社も鎮座しています。



杉並区の閑静な住宅街のせいか、境内は静寂です。
とても気持ちよい空間が広がっている感じがします。決して大きな寺院ではありませんが、適度な規模と清々しい空間に包まれて、日常の中の非日常気分を味わうことができます。



もうすぐ慌しい師走です。
その前に、都会にありながら静寂に包まれた古刹を訪れてみるものも良いのではないでしょうか。

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その裏側で、杉並区、いわば特許技術のお膝元の杉並区の妙正寺を堪能しています。

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サイケ・デリーを骨で聴く

2015-11-20 15:19:28 | 骨で聴く体験記
毎年出展している「すぎなみフェスタ」の「産業フェア」会場に、高円寺のゆるキャラ「サイケ・デリー」がやってきました。

誕生日は11月1日ですが歳はとらないそうで、どう見ても男のようですが、正式には性別不明だそうです。インド風のターバンを身につけ、真っ赤な唇と立派なヒゲが目立ちます。また足袋を履いていて、阿波おどりのステップを刻むそうです。

ほかにも特徴があって、目が赤く光ったり、真っ赤な舌をペロリと出してたります。この舌でなめられると幸せになれると言われ、「ペロペロハッピーパワー」とされているそうです。
しかし、口の場所と舌の動きがどこか卑猥な感じもしなくもありません。

とのもかくにも、かなりインパクトのあるキャラクターです。

同じ部屋には、ケンコーマヨネーズ様、エン設備システム様、ゴールドファイアー様、鍛造工芸 行川様、シルバークロー様が出展していましたが、サイケ・デリーが入ってくるとすべての出展者も目が釘付けになりました。

杉並にある米軍採用・特許保有の骨伝導メーカーであるテムコジャパンのブースでも、初めての骨伝導体験をしていたお客様が、その骨伝導の性能に驚いたすぐあと、今度はサイケ・デリーの姿に驚愕するというシーンがありました。

今回で3回目でしたが、今年は天候に恵まれず、全体的に不調で終わったフェアでした。
しかし毎年、このフェアのあとは「骨で聴く.com」の○周年キャンペーンが実施されます。今年は9周年です。
継続は力なり。

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ちなみにサイケ・デリーさんですが、怖がって泣いていた子供の姿も見ました。
泣かせるキャラは、やはり衝撃的です。

井荻駅を骨で聴く

2015-11-19 12:33:54 | 骨で聴く鉄道駅
西武新宿線の井荻駅といえば、都内有数の渋滞箇所にあるイメージが強かったのですが、1997年(平成9年)4月30日に井荻トンネルが開通したことで様変わりしました。

かつての井荻駅は環状八号線と西武新宿線が井荻駅前で踏切による平面交差をしていた場所にあり、完全に南北を遮断していた象徴的な駅でした。西武新宿線は池袋線と並ぶ西武の大動脈ですから、運行本数が多く、しかも井荻駅は急行・準急が停車しないことから通過する電車も井荻踏切では低速で走行していました。

その結果、当時の資料によると、1時間当たり平均で約32分、ラッシュ時には約46分、踏切が閉まっていたようです。まさに南北を遮断する開かずの踏切でした。
しかも環状八号線は未完成な道路で、開通区間は徐々に延びていきました。それにともなって交通量も増大する傾向にあったのです。
これで渋滞しない理由がないといえます。

この解消策として連続立体交差の計画がありました。
しかし井荻駅前には側道用の用地が取得できていなく、しかも道路幅員が狭いことで2車線分の立体交差しか建設できない状態だったのです。不完全な立体交差では新たな渋滞の引き金になります。

そこで、西武新宿線の南北で環八通りと交差している早稲田通り、新青梅街道、千川通り、旧早稲田通りといった幹線道路との立体交差事業と一体化する策がとられました。これが井荻トンネルです。
井荻トンネルの出入口は、側道用の幅員がある部分に建設することで先の課題をクリアし、井荻駅前の側道はトンネルの真上を通るという珍しい構造になりました。
この側道用の道路は井荻駅前の渋滞を早期に解消するため、トンネルに先行して上下1車線ずつの陸橋が建設されました。

井荻駅もトンネルと前後して大きく変貌をとげました。
1997年5月13日に新駅舎が完成し、上りホームの移設、北口の新設という大きな変化とともに、跨線橋が設置され、しかも線形まで変更されました。翌1998年3月13日には終電後に大規模工事を行い、下り1ホーム、上り島式ホーム2面を、下り、上りとも1ホームの形に改良しました。旧ホーム跡地には通過線が設置されました。

大きく変貌した環状八号線と西武新宿線井荻駅ですが、クルマで通過することしかなかった場所に初めて訪れました。
現在ではトンネルを通れば駅すら認識できなくなりましたので、改めてこの駅に降り立つと感慨深いものがあります。

技術力で渋滞解消に向かった地点に立ち、世界的特許で米軍にも採用された骨伝導ヘッドセットを使ってみれば、何ともいえないパワーを感じることができます。騒音の激しい工事でも骨伝導ヘッドセットと無線機の組み合わせは活躍しています。そんなことを思いながら、お買い得の米軍採用の特許技術骨伝導機器「9周年記念キャンペーン」へ GO!

芝東照宮を骨で聴く

2015-11-18 15:28:06 | 骨で聴く巡礼旅
日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つが東京タワーの近くにある芝東照宮です。

東京の中心部に位置し、芝公園の一角に鎮座しています。
もともとは増上寺内の社殿だったようです。

東京の港区でパワースポットというと、東京タワーと増上寺が挙げられますが、その二つに囲まれた場所に鎮座する東照宮も知る人ぞ知るスポットだそうです。
ただ場所はそれほど分かりやすい場所ではなく、規模も決して大きくありません。
増上寺から日比谷通りを三田方面へ少し歩いたところにあり、地下鉄の芝公園駅からも近いのですが、どちらかというと古墳後を公園にした芝公園のほうが都会のオアシス的で、どちらかというと東照宮は地味な印象です。

しかし祭神が徳川家康で、東京の前身である江戸を築いたことを考えると、確かにパワーが漲っていても不思議ではないのかもしれません。

慶長6年(1601年)に還暦を迎えた家康は記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に祭祀していましたが、元和2年(1616年)の家康死去に際し、「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。
同年着工、翌元和3年(1617年)竣工した社殿に、家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれるようになりました。これが芝東照宮の起源です。

江戸幕府3代将軍・家光は寛永10年(1633年)に新社殿を造営し、旧社殿は開山堂となりました。社殿として整ってきたのは、寛永18年(1641年)の移転改築のときで、駿府城から移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営されることになりました。これで豪奢な社殿が整ったことになります。

明治時代の神仏分離令は東照宮にも及び、増上寺から切り離されることになりました。これが現在の芝東照宮で、明治6年(1873年)には郷社に列しました。



本殿は大正4年(1915年)に特別保護建造物に指定されました。現在の重要文化財に相当します。
しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失してしまいました。

現在の社殿は昭和44年(1969年)に再建されたものです。

オフィス街に隣接するロケーションでありながら、境内の自然は気持ちよい空気に包まれています。参道が駐車場になっているのは都会の神社のご愛嬌として、石段を登った先の右手には樹齢350年を超す神木の大イチョウがあり、なかなかの迫力です。徳川家光が植樹したと伝えられており東京都の天然記念物に指定されています。

やはり都会の神社には騒音と隣り合わせです。
骨伝導ヘッドセットの出番になります。9周年記念も実施していますから、耳を塞がない世界最先端技術の骨伝導ヘッドホンや骨伝導イヤーマイクなど、この機会に手に入れ、都会の聖域で堪能してみるのも良いかもしれません。
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東照宮というと、実は群馬県太田市に鎮座するものが日光より簡素で好きなのですが、改めて芝に参拝すると、ここはここで荘厳な感じがして好きになりました。ちなみに太田市の東照宮は徳川家が源氏の新田氏の一族で、その地元に鎮座しています。


中原生品神社境内の敷石住居跡を骨で聴く

2015-11-02 17:00:15 | 骨で聴く体験記
昭和60年(1985年)、関東平野が本格的な山岳地帯に入る手前の場所で発見されました。
発見されたのは六角形の敷石住居で、住居の中央に5石を使った炉と、南入口に4石を使った炉状遺構がある珍しい形でした。しかも出土状態も良好で、この周辺地域では極めて珍しいものだということが分かりました。

この敷石住居跡は、中原生品神社の東側です。
群馬県太田市ですが、旧薮塚本町で、県道太田大間々線から桐生方面に向かって左折し、東武桐生線の踏切を越えてすぐ左手にあります。神社としては決して大きくはありませんが、鳥居の東奥に「生品神社敷石住居跡」があることで、近づくと史跡らしい雰囲気が伝わって起案す。

しかし実際に発見されたのは、現在の場所ではありません。しんなし川の改修に伴う発掘調査の際に当時神社境内地だった所から見つかったのですが、保存のために、南に34m移動し、覆屋をかけ復元整備しまたからです。



石敷の寸法は、東西最大幅2.5m、南北最大幅3.3mで、石材は赤褐色の安山岩系の平石と花崗岩系の川原石だそうです。
年代は、住居内から発見された土器から考えると、縄文時代の中期末から後期初頭にかけてと思われます。約4000年前という推定です。

しかしこの遺跡には謎があり、中央にある石囲いの炉は火を使っていたらしく、石に熱による剥離がみられるものの、入口にある炉状遺構には火を使った形跡がまったく見られません。埋甕の代用か他の目的か、現在ではまだ謎です。

とにかく、古くからこの地に人々の営みがあったことに思いを巡らすだけで、古代のロマンを感じます。
縄文時代から、人々の生活は、実はあまり変化していないのかもしれないとも思ってみたりします。確かに文明は進みました。しかし一つの住居で家族が暮らし、日々の生活を送るということは共通です。

科学がまだ未発達だったことから、現在とは比較にならない不便があったとしても、それはあくまで現在の目で見ているからに過ぎません。もしかしたら、未来の人にとっても、現在の生活は未熟で不便なものに思われるかもしれません。
それでも科学技術は積み重ねで進化していきます。

現在の最先端技術で米軍採用・特許技術の骨伝導機器も、最初のステップなのかもしれません。
耳を使わず、爆音の中でも通話を可能にし、高齢者の難聴対策にも威力を発揮する技術も、まだまだこれからの進化があると思うと、それも未来に向かってのロマンです。

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