骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

東久留米・子ノ神社を骨で聴く

2016-11-30 11:31:02 | 骨で聴く巡礼旅

西武池袋線の東久留米駅からのどかな住宅街とその先の緑に囲まれた丘に連なる場所に、子ノ神社は鎮座しています。

 

旧小山村の鎮守です。

もともとは文禄元年(1592年)に、当時の領主・矢部藤九郎が本地仏として地蔵尊の勧請したと伝えられています。除地1町5段(4500坪)を有し、社地には槻・杉雑樹など繁茂していたといわれるような場所だったようです。現在でも武蔵野の面影が残る周囲は、十分に雰囲気を残しているといえるかもしれません。

拝殿の建立は文政元年(1818年)10月で、明治4年(1871年)、明治42年(1909年)等、数回にわたって修築がなされました。

 


社名はもともと「根神明神」だったようです。

のちに十二支の子を用い「子ノ神社」と変更されました。

この「子」は大黒天の神使いであり、縁日を甲子祭として子の日を選ぶなどの故事から習合されたものと思われています。

祭神は出雲大社の祭神と同一神の大国主命です。国土開発の神であり、縁結び、子孫繁栄、五穀豊穣の神です。


創立者の領主・矢部氏とは、相模三浦氏の子孫で、小田原北条氏に仕えていました。

しかし江戸時代、・徳川幕府になってから、300石を賜って、この地・小山村の地頭となりました。屋敷跡は神社の西方だったといわれます。

 

東京郊外の東久留米市らしい立地に鎮座する小さな神社ですが、静寂の境内と丘から都市部を見下ろす爽快感で、何とも癒し効果抜群です。わざわざ訪れる人もいないでしょうが、何の意味もなくこの境内に佇むだけで大いなる付加価値を感じる場所です。

 


阿波洲神社を骨で聴く

2016-11-27 10:06:43 | 骨で聴く巡礼旅

西東京市は保谷市と田無市が合併した都市で、平成の大合併に先駆け、21世紀最初の新設合併による市とし誕生しました。

そんな旧田無市と旧保谷市が特に合併して不自然さを解消した場所があります。それが旧保谷市の新町です。

細長く旧田無市に入り組んでいた地域で、どこに行くにも旧田無市の地域を通らないと不便でならない場所でした。

 

そんな地域で岩倉高校の野球部に隣接して阿波洲神社が鎮座しています。

田無神社が兼務社になっています。

 

 

通り側から鳥居を潜り、社殿に向かうには90度右に曲がらないといけない構造です。

いわゆる参道と社殿の位置関係は「怨霊封じ」型といえます。しかし、この阿波洲神社の由来を見ると、怨霊系とは思えなくなります。

 

宝暦2年(1752年)に、紀伊国(和歌山県)の粟島明神の分霊を勧請し、粟嶋明神として創建されたといわれます。

粟嶋明神は紀伊国加太浦の淡島明神が総社で、祭神は女神の頗梨采女と粟=淡にちなみ、日本神話に登場する少彦名命になっています。

江戸時代には、浅草寺境内に祀られた淡島明神が当時の女性に人気でした。

この粟嶋明神も、拝殿前の鈴に下がる五色の紐を切って安産の腹帯にする習俗や、女性たちの針供養・捨雛が行われていたようです。

女神の特徴や庶民信仰の側面を持ち、開発途上の新田ではあったものの、独立した一村の鎮守神でもありました。そのため、年中行事は農耕神の少彦名を祀る神社として、全て村の農作の豊饒を祈念する儀礼だったようです。

 

かつて、この地域に武蔵野の原野を開拓するために、上保谷村の人々が移り住みました。

しかし、この場所は農耕に適した地所ではなく、苦労を強いられたといいます。

そんな場所に女性に人気で、しかも農耕神を祀る鎮守さまとして、この阿波洲神社は大きな役割を担っていたといえます。

 

ちなみに粟嶋明神から阿波洲神社になったのは、明治以降です。

しかし祭神に変更はありません。

 

そんな新田開発の鎮守の森で、周囲の音声を骨で聴きます。

騒音対策として、工場や現場作業の聞こえない悩みを解決してきた骨伝導スピーカーですが、このような歴史的な場所で使用することで機能性とは別の側面が現れます。おそらく脳波の問題でしょう。

米軍で爆音の中でも通話を可能にした特許技術が、全く異なる環境で全く異なる効能を生みます。

その秘密は実際に阿波洲神社で骨伝導体験により判明することでしょう。

 

米軍採用・特許技術の骨伝導製品へ

 

 


祐天寺を骨で聴く

2016-11-24 17:23:18 | 骨で聴く巡礼旅

東京の目黒区で寺院の名称が地名や駅名になっているといえば、祐天寺といえるでしょう。

目黒線の不動前駅も目黒不動が由来の駅ですが、祐天寺はそのものズバリの駅名です。

 

そんな祐天寺ですが、東急東横線祐天寺駅からは南下して駒沢通りに出た先にあります。

寺院の地名は東京都目黒区中目黒5丁目で、駅は目黒区祐天寺2丁目になります。

 

浄土宗の寺院で、山号は明顕山。

本尊は祐天上人像(本堂安置)と阿弥陀如来坐像(寄木造、阿弥陀堂安置)です。

 

 

地名になっているだけあって、この周辺では巨大な寺院といえます。

現在の本堂は常念仏堂として建立された堂宇を再建したもので、国の登録有形文化財になっています。

 

江戸時代の享保3年、増上寺36世住持の祐天の体調が悪化したため、弟子の祐海は祐天が常念仏を行える廟所を探すことになりました。しかし同年7月に祐天が亡くなってしまいます。

その祐天ですが、廟所を目黒の地に建立したいという望みがあり、祐海は目黒にある善久院を購入し、祐天の廟所と常念仏堂を建立再興したといいます。

そのときは損傷が激しかったようで、そのときの善久院が現在の祐天寺に発展するとは想像できないほどだったといえます、

 

 

祐天寺としては、享保8年(1723年)に寺号が正式に許可され、祐天を開山としました。

祐海は第2世となりました。

 

またこの祐天寺で特筆すべきことは、境内に大正天皇の生母である柳原愛子の墓があることです。

 

そんな祐天寺を骨で聴きます。

駒沢通りの喧騒と隣接しているものの、落ち着いた雰囲気に包まれています。

耳だけでなく骨からも周囲の音声を聞きとり、癒し効果を堪能できます。米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとの相性が良いようで、都会の寺院でありながら旅先で出会ったような気分も味わえました。

 

米軍採用・特許技術の骨伝導製品へ


東久留米市・大圓寺を骨で聴く

2016-11-14 11:24:58 | 骨で聴く巡礼旅

2012年にフジテレビ系列で放映されていた『鍵のかかった部屋』の第1話で、芹沢(佐藤浩一)や青砥(戸田恵梨香)の背景に映っていた木造の仁王門が東久留米市の大圓寺です。

東久留米市内では、曹洞宗の浄牧院、真言宗の多聞寺と並ぶ市内の古刹です。

大圓寺は普門山三皇院と号す天台宗寺院です。

 

江戸時代には、現在の東久留米市内の各村には天台宗寺院が多く栄えていたようです。しかし、大正時代の初めにはこの大円寺と宝泉寺の二ケ寺だけが残り、他はなくなってしまいました。

東久留米駅からは西口を出て清瀬・所沢方面に向かう西武池袋線に沿って北西に進み、踏切のある道路に出て左折、その先にある斜めに交差する通りを進んだ先にあります。

黒目川がのどかな流れを超えると、荘厳な姿の寺院が現れてきます。

 

 

東久留米七福神の恵比寿尊、福禄寿尊、寿老尊が山門に安置されているので、それだけで存在感が増した雰囲気を感じます。

東久留米市指定文化財も多くあります。

 

庚申塔(東久留米市指定文化財)
馬頭観音塔(東久留米市指定文化財)
石橋供養塔と力石(東久留米市指定文化財)

 

東京の郊外らしい風景と適度な規模、荘厳さを持つ大圓寺。

秋の陽ざしによくあいます。