骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

浅草神社を骨で聴く

2013-09-26 16:19:24 | 骨で聴く巡礼旅
浅草寺の本堂右隣にある神社が浅草神社で、通称が三社様です。
東京では代表的な観光名所となっている浅草寺ですが、すぐ隣に位置するこの神社まで足を運ぶ人の割合は意外に少ない気がします。

骨伝導機器とともに初めて浅草寺を訪れたのは、2007年の2月でしたから、もうかなりの時間が経過していることになります。

     ⇒ 浅草寺の五重塔を骨で聴く

翌年の2008年には浅草界隈の駒形堂や千束稲荷、鳥越神社などを散策しました。しかし浅草寺本堂のすぐ横の浅草神社は垣間見ただけでした。何ともアンバランスな散策の仕方だったと思う次第です。

     ⇒ 駒形堂を骨で聴く
     ⇒ 千束稲荷神社を骨で聴く
     ⇒ 鳥越神社を骨で聴く
     ⇒ 黒船神社を骨で聴く

明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になっていますが、浅草神社と浅草寺は一体化した関係といえます。

浅草寺の創建に関する逸話として、推古天皇36年(628年)に檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかり、これを土師真中知に相談した結果、観音像であると教えられたというものがあります。
この兄弟は毎日観音像に祈念し、土師真中知は僧となり、自宅を寺としました。これが浅草寺の起源に相当します。
この後、土師真中知の歿後に、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが浅草神社の起源になります。

興味深いのは、ご神体が一般の人間だということです。
漁師と僧侶です。従って一般人を祀っていることから神社の格としては江戸一低いといわれていたようです。

ところが現存の社殿は徳川家光の寄進によるものだし、昭和36年には、拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定されているほどです。江戸で一番低い神社でも歴史的な価値には影響なく、今でも例大祭の三社祭は浅草の名物です。

喧騒の浅草寺境内と隣接しているので、賑やかな音声は浅草神社にも届いてきます。こんなときは、やはり、骨伝導です。

騒音対策としての骨伝導ヘッドセットを使うのがベストな参拝かもしれません。

     ⇒ 騒音対策には骨伝導機器を

観光客の多い浅草で、静寂さを求めることは難しい話ですが、興味深い起源を持つ神社の歴史に触れ、心をおだやかにしてみるのも良いかもしれません。骨伝導ヘッドセットと一緒なら可能です。

名水「水眼」を骨で聴く

2013-09-25 11:28:12 | 骨で聴く癒しの世界
時々取り上げる名水を骨で聴くことは、様々な水の音が耳だけでなく骨から脳へと伝わることにより、癒し効果と心の潤いを与えてくれます。

今回は名水「水眼」です。

諏訪大社上社の前宮の御柱脇を流れる清流です。

     ⇒ 諏訪大社上社前宮を骨で聴く

前宮からは直線距離にして約1km程度に水源があり、そこから斜面に沿って一気に下ってきます。
前宮を訪れると、必然的にこの流れを眼にすることになります。その流れが発する音は、せせらぎの音ではありません。やや雄々しい瀬音です。

静寂な諏訪大社上社前宮に響く瀬音は、静謐な空間に一種の神々しさを伴う音を運んでくるようです。
骨伝導機器を使って、この音を骨から脳へと伝えることで、脳波が微妙に変化してくるような感じを覚えます。実に清清しい気分です。

     ⇒ 骨伝導と脳波について

宮地直一著『諏訪史 第二巻前編』の補注にある一文を引用させてもらうと、この水は「昭和四年八月十四日の調査によると水量 毎秒約1.5屯 水温(摂氏)10.7 水素イオン濃度 7.1を示し、水質中性に近く極めて良好である。而してその湧出量も、温度も、恐らく年中不変であろうと考えらるる」となっています。
古いデータをもとにしたものなので、現在では変化していることもありえますが、「年中不変」であることに、諏訪大社が連綿と続く古代からの神秘性も繋がっているような気もします。

諏訪大社というと上社では本宮がどうしても観光スポットになっていますが、前宮にも足を運んで、この水の音を「聴く」ことをお勧めします。

     ⇒ 諏訪大社上社本宮を骨で聴く

諏訪大社は上社しか参拝したことがなかったので、次に下社にも行ってみます。

銭形平次の碑を骨で聴く

2013-09-24 10:32:14 | 骨で聴く癒しの世界
野村胡堂の小説『銭形平次捕物控』は、小説だけでなく、映画やテレビの時代劇でも有名です。ここに登場する銭形平次は、神田明神下に住む岡っ引です。子分が八五郎、通称・ガラッ八で、「投げ銭」を駆使して活躍しています。

捕物帳としては、岡本綺堂『半七捕物帳』と並んで最も有名といえます。

当然ながら平次は小説の中の架空の人物ですが、神田明神の境内に銭形平次の碑が建立されています。まるで実在の人物の扱いで、なかなか興味深いものです。

神田明神は何度か訪れたことがありますが、境内の右手にある銭形平次の碑はよく知らなかったので、改めて境内に足を踏み入れることにしました。もちろん米軍採用で特許技術の骨伝導ヘッドセットと一緒です。

     ⇒ 神田明神を骨で聴く

平次は神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住んでいたという設定です。そのため神田明神界隈が小説の舞台になっていましたから、ここに碑があるのはむしろ自然なことといえます。
昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立しました。
ちなみに隣には子分・がらっ八の小さな碑もあります。

神田明神は高台になっていて、この碑が向いている先は明神下を見守る場所になります。

お祭りや結婚式がなければ喧騒はここまで届くことはなく、静かに見物できる場所といえます。最先端の骨伝導機器もここでは騒音対策ではなく、小説や映画、テレビの世界を思い浮かべ、癒し効果に一役かっている感じです。

     ⇒ 世界最先端の骨伝導機器

架空の世界とはいえ、江戸のヒーローがここで活躍していたのかと想像するのも悪くありません。

経堂駅を骨で聴く

2013-09-20 15:58:18 | 骨で聴く鉄道駅
久しぶりに小田急線の駅を取り上げます。
骨伝導機器とともに「聴く」ことにした駅は、世田谷区にある経堂駅です。

経堂駅が高架化される前は、ホームの有効長が短く、10両編成の列車は停車することができませんでした。そのため準急停車駅でありながら、千代田線直通準急は通過していました。

現在ではホームも長くなり、平日朝ラッシュ時の上りを除く準急全列車が停車するようになりました。さらに平日の日中と土休日だけですが、急行も停車するようになり、多摩急行も停車するようになりました。

経堂駅周辺は東京農大をはじめ、私立の学校が多くあり、学生たちの姿を多く見かける駅といえます。
景色が変化した点でいえば、高架化にともなって、経堂工場・経堂検車区が併設されていたのがなくなったことです。かつては駅の東側の踏切を挟んで、東側に検車区、西側に工場がありました。
現在では、検車区は喜多見検車区になりました。

世田谷らしく駅周辺の道路は決して広くなく、ゴミゴミとした感じがないわけではありませんが、それでも昔に比べると随分とスッキリした印象を持ちます。
昔ながらの商店街も健在で、活気のある駅周辺といえるでしょう。

そんな経堂駅に立ち、周囲の雑音の中で骨伝導ヘッドセットを試してみれば、それはそれで悪くありません。耳から聞こえる音と骨伝導スピーカーから聞こえる音が混ざり、街の活気の中で相手との声をハッキリと認識できます。

小田急線では以前に、以下の駅を取り上げてきました。

   ⇒ 秦野駅を骨で聴く
   ⇒ 南新宿駅を骨で聴く
   ⇒ 梅ヶ丘駅を骨で聴く
   ⇒ 和泉多摩川駅を骨で聴く
   ⇒ 世田谷代田駅を骨で聴く
   ⇒ 代々木八幡駅を骨で聴く

改めて並べてみると、何の脈絡もないことに気づきます。
それでも骨伝導機器とともに様々な駅にも出かけていきます。

中野・多田神社を骨で聴く

2013-09-12 09:13:34 | 骨で聴く巡礼旅
東京の中野区の住宅街に、多田満仲(源 満仲)を御祭神とする神社があります。
清和源氏に深く関係する神社が東京にあるというだけで貴重ですが、それが住宅街に溶け込んでいるのも興味深くあります。

多田満仲は平安時代中期の武将で、清和源氏・六孫王経基の嫡男です。
藤原摂関家との関係も深く、母は橘繁古の娘もしくは藤原敏有の娘といわれ、妻は藤原致忠の娘でした。武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍にまでなりました。

中野の多田神社の御由緒を引用させて頂くと、

「幼少より文武両道に秀で国家に凛然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を賜り国家鎮護の大任を課されたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源氏興隆に確固たる基礎を築かれた」

というように、満仲の偉勲は際立っています。
源氏の守護神といえば八幡ですが、満仲も源氏一族の御祖神として讃えられ、共に崇められるようになっています。

現在の神社のある地域は雑色村といい、この地域の文化向上に尽くされた事蹟は尠少ではないとされています。

寛治6年(1092年)、源頼義、義家の父子は前九年後三年の両役に大軍を率い奥羽の地に赴きましたが、その凱旋の帰途、祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じました。

     ⇒ 大宮八幡宮を骨で聴く

大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地が、この地域であったことから、当地に日頃淑敬する満仲公の祠を建てたといわれます。これが雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられて来たということらしいです。



兵庫県川西市にある多田神社とは、成り立ちが全く異なり、むしろ中野区のこの神社が庶民の信仰を集めた素朴な感じがします。

境内はそれほど広くはありませんが、神田川に向かった斜面に立派な社殿があり、とても気持ちのよい空間です。

実はこの多田神社は世界的な特許技術を持つ骨伝導スピーカーのメーカー(テムコジャパン)の本社からも近いのです。行政上は杉並区と中野区で別れますが、徒歩でも10分程度でいけるのではないかと思われます。

世界的な特許を持つメーカーのすぐ近くにこんな神社があるのも素敵な話です。

ぐんまフラワーパークを骨で聴く

2013-09-10 11:20:13 | 骨で聴く癒しの世界
阿比留文字で印刻された神代文字とともに強烈なパワースポットで知られる赤城神社には、以前に骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。

     ⇒ 三夜沢赤城神社を骨で聴く

日本語誕生以前の古代文字に彩られた復古神道の遺物がある聖域ですが、そこから山を降り、赤城山の裾野に広がる癒し空間があるので、今回訪れてみました。

年間を通じて花が咲いている「ぐんまフラワーパーク」です。
総面積18.4ヘクタールという広大な敷地に、フラトピア大花壇(約6000m²)や、温室エリア、庭園エリア、ガーデンエリア、キッズエリアまどがあります。
シンボルになっているのが、高さ18メートルのパークタワーで、ここから前橋市内方面が遠望できます。

年7回も花まつりが行われ、この時期(7/6~10/31)はダリアまつりです。
約400種1500株のダリアが咲き誇っています。夏から秋の暑い盛りに美しい大輪の花を咲かせるダリアは、改めて鑑賞するとそれなりの味わいがあります。

赤城山南側の斜面に広がるフラワーパークは、標高がそれほど高くないので、暑さはまだまだありますが、時より吹く風が何とも心地よく感じます。花の持つ生命力と儚さを感じ、しばし日常から離れた空間を堪能できます。

骨伝導ヘッドセットにより耳だけでなく骨から脳へと伝える音が、この空間をより快適に演出してくれているようです。さすが米軍で採用された特許技術の骨伝導製品です。

      ⇒ 米軍採用・特許技術の骨伝導製品

赤城神社への参拝だけでなく、ここにも立ち寄ることをお勧めできます。四季折々の花々に接するためには、また別の季節に来てみようとも思い、癒された状態で帰路につくのでした。

和泉熊野神社を骨で聴く

2013-09-06 10:16:56 | 骨で聴く巡礼旅
京王井の頭線永福町駅(⇒ 永福町駅を骨で聴く)より徒歩で約5~6分の場所に、明日の9月7日(土)、明後日の8日(日)と例大祭が行われる熊野神社があります。

文永4年(1267年)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのがこの神社の創建であるといわれています。
杉並区では大宮八幡宮(⇒ 大宮八幡宮を骨で聴く)や、井草八幡宮(⇒ 井草八幡宮を骨で聴く)のような巨大な神社がありますが、ここは本当に地元の鎮守の森の雰囲気です。
それだけ素朴な感じがします。

現在の社殿は文久3年(1863年)の造営で、明治4年(1871年)に修復したものだそうです。なかなか味わいにある雰囲気が出ています。



境内は神田川の河岸段丘の場所で、樹木が多く茂っています。昼でも薄暗いほどです。
その中で、徳川家光が鷹狩のとき植えたクロ松の大木が御神木として高くそびえています。

境内を出て左手の道を進むと、境外摂社として貴船神社もあります。
こちらも歴史は古く、やはり文永年間(1264年~1275年)の創建といわれています。
京都の貴船神社の祭神を勧請したもので、境内には「御手洗の小池」という池があります。雨乞いの場所で、この池はどんな日照りでも涸れることなく湧き出るといわれていました。これがこの地域の地名「和泉」の由来になったとも言われています。




しかし、神田川の改修工事や付近の宅地化により、昭和40年以降は水が涸れてしまいました。訪れたときにセミの声を耳にしながらこの池の清涼感を味わうことは出来ませんでした。
ちなみに貴船神社の例祭は5月5日で、熊野神社とは別の日です。

意外なことに東京の杉並区は訪れる価値のある神社・聖域が多くあり、まだまだ知られざる社がありそうです。今回も骨伝導ヘッドセットとともに快適な参拝をしました。

     ⇒ 神社参拝にお勧めの骨伝導ヘッドセット

正松神社を骨で聴く

2013-09-05 10:37:04 | 骨で聴く巡礼旅
乃木神社参拝の際(⇒ 乃木神社を骨で聴く)に取り上げなかったので、改めて「骨で聴く」ことにしたのが正松神社です。乃木神社の境内社です。

玉木文之進と吉田松陰が祀られている神社です。
吉田松陰といえば松蔭神社が有名で、世田谷の松蔭神社を「骨で聴く」ことにしたのは、2007年2月でした。(⇒ 松蔭神社を骨で聴く)このときとは鳥居も変わっていて、何とも懐かしい記事でしたが、それはともかく、この正松神社の意味です。

乃木希典は吉田松陰を追慕していました。そのことから16歳のときに、松陰の叔父である玉木文之進の門に入り薫陶を受けました。

玉木文之進は、長州・萩の学者であり、松下村塾の開祖でもあります。
吉田松陰を受継ぎ、幾多の國士を養成した教育者でした。國事に仆れた烈士ともいえます。

玉木文之進から受けた教育が、乃木大将の人格形成に大きく影響を与えたことは間違いないでしょう。

そのため、乃木神社戦災復興の際、萩の松陰神社から二柱の分霊を請い受け、摂社として境内に鎮守されることとなったのです。

御祭神は、当然ながら玉木文之進正韞命(たまきぶんのしんまさかぬのみこと)と、吉田矩片松陰命(よしだのりかたしょういんのみこと)になっています。

乃木神社に参拝の際は、すぐ隣にある正松神社にもぜひ足を運んで欲しいと思います。明治時代から続くエネルギーを感じ、耳だけでなく骨から脳へと伝わる音声も体感して頂けたらと思います。

明了山正受院願光寺を骨で聴く

2013-09-02 18:20:27 | 骨で聴く巡礼旅
新宿区指定有形民俗文化財で、小野篁製作との伝承を持つ奪衣婆像があるのは、明了山正受院願光寺です。靖国通りに面していて、夜になると異世界を形成する新宿二丁目にある浄土宗の寺院です。

騒音の激しい靖国通りから骨伝導ヘッドセットとともに、正受院に小さな境内へと足を運んでみました。

正受乘蓮和尚を開山として文禄3年(1594年)に創建されたといわれています。
文禄年間といえば豊臣の時代で、文禄5年にはここ最近のように大きな地震が相次いだことでも知られています。この時代の天皇は後陽成天皇で、将軍は当然ながら不在の時代でした。

正受院が有名なのは奪衣婆像で、「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めてきました。
咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣がありました。

江戸時代末期に流行した民間信仰の対象です。

もともとは三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆のことです。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられます。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さに生前の業が現れるといわれ、その重さによって死後の処遇を決めるとされていました。

また正受院は幕末の会津藩主であった松平容保が葬られた寺院でもあります。
しかし、後に会津若松市の松平家院内御廟へ改葬されたため、現在の正受院には墓石も記念碑も何も残っていません。

喧騒の新宿の中にあるせいか、寺院の醸し出す荘厳さは皆無といえるかもしれませんが、文化を継承する寺院として、存在感は格別にあります。
何気なく靖国通りを通り過ぎるにはもったいないお寺です。

ただ、騒音が激しい地域でもありますから、好きなBGMを聴くには耳をふさがない骨伝導ヘッドセットを装着しての訪問が最適です。もちろん携帯電話の通話にも骨伝導ヘッドセットは有効です。

     ⇒ 新宿の街には骨伝導ヘッドセット

都内には意外な場所にとても価値ある名所・旧跡があります。
骨伝導ヘッドセットとともにぜひお出かけください。