骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

霊巌寺・松平定信の墓を骨で聴く

2015-09-30 10:59:23 | 骨で聴く巡礼旅
江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫で、寛政の改革で有名な松平定信の墓は、山号は道本山、院号は東海院の霊巌寺にあります。江東区にある浄土宗の寺院です。

霊巌寺の最寄り駅は地下鉄の清澄白河駅です。地名も「白河」ですが、これは松平定信が陸奥白河藩の第3代藩主だったことに由来するのだそうです。




下町らしい商店街の一角にあり、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されています。

江戸時代の創建で、寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人により開山されました。当時は日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島に創建されました。後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなりました。
現在地への移転は、万治元年(1658年)で、徳川幕府の都市改造計画の一環によるものでした。



松平定信の墓は、本堂の横にあります。ひっそりとしていてなかなかの雰囲気が漂います。



やはり松平定信のといえば、寛政の改革です。
松平定信の前任者は田沼意次で、重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治でした。
寛政の改革では、田沼の政策の反動ともいえる厳しい倹約政策を行い、腐敗した役人の賄賂を排除、さらに旗本への学問吟味政策などを行いました。
この改革は一応の成果をあげることに成功しました。



しかし、その厳しさゆえに、老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されたほどでした。
批判は幕府内に留まらなかったようで、様々な方面から続出したことで、わずか6年で老中を失脚することになりました。

失脚後は白河藩の藩政に専念し、藩財政を潤わるほどの腕を見せました。

そんな松平定信の墓のある霊巌寺にて、周囲の音声を骨で聴きます。
耳だけでなく骨からも音声を脳へ届けます。

骨伝導の最先端技術科から江戸の改革政策を考えるのも興味深いものです。現代の政治との比較もおもしろいかもしれません。

  最先端の骨伝導技術はこちらです。

創業100年以上のやまもと屋・カレーうどんを骨で聴く

2015-09-25 11:00:57 | 骨で聴くビジネス
創業117年の老舗のうどん店ですが、人気メニューはカレーうどん。

二回目の訪問で、前回はたまたま入っただけでした。今回は骨伝導イヤホンとともに堪能することにしました。カレーうどんを骨で聴きます。

群馬県みどり市の旧大間々町にある店舗です。街道沿いに築100年以上の木造建築は、昔ながらの店構えととともに大きな存在感を示しています。駐車場は店の横で、舗装されていないので、これも昔ながらの雰囲気を醸し出しています。

席数は32席の店舗ですが、昼時は待っている人もいるのでより小さく感じます。

2回とも訪れたときはそばが終わってしまい、うどんのみでした。
しかし、周囲を見渡してみればほとんどの人が注文しているのはカレーうどんです。
初代店主から受け継いだカレーうどんは、製法、材料は当初のままで、地元の小麦や野菜などを使用しているそうです。

創業100年以上の老舗店舗で名物がカレーうどんというのも、何だか違和感を抱きましたが、実際に食べてみると納得。
とにかく食べやすく、クセがないのにあとをひく感じがたまりません。

メニューにはカレーうどん単品だけでなく、様々なバリエーションがあるのも特徴です。
レディースカレーうどんセット、カレーうどんセット、結構人気なのがカレーうどんのトッピングに餅を入れるものもあります。

カレーうどんは上品に食べるのではなく、豪快に食べたくなります。そばや普通のうどんの汁を啜る感覚と異なり、コクのある汁は感覚的には「食べる」感じです。

そんなカレーうどんを食べる周囲の音声を集音マイクでひろい、骨伝導イヤホンで聴きながら食べてみます。
耳だけでなく、骨から伝わることで旨みが増したように感じます。

地方都市の小さな店ですが、地元の人に支えられ、初めて訪れた人にも優しい味を伝承していくことに感激です。
骨伝導イヤホンを使って食するのもおすすめでした。

音声増幅器の骨伝導きくちゃんでぜひ試してください。
 → 骨伝導きくちゃん

金王八幡宮を骨で聴く

2015-09-11 15:13:07 | 骨で聴く巡礼旅
豪雨による被害が関東地方で発生した翌日、久しぶりに太陽が輝きました。

変貌激しい東京の渋谷でも、ここ最近の暗い表情に明るい日差しが包まれました。
渋谷警察署の裏手、六本木通りから少し入った場所に鎮座する金王八幡宮にも、太陽の光が届きました。

いつものように米軍採用・特許技術を誇る骨伝導機器とともに参拝に訪れました。

歴史は古く、堀河天皇の御代で寛治6年(1092年)から鎮座したといいます。
桓武天皇の曽孫・高望王の後裔で秩父別当武基は、平忠常の乱を平定したことで、軍用八旒の旗を賜りました。

武基の子・武綱は、嫡子・重家とともに後三年の役の源義家の軍を従え、大功により名を河崎土佐守基家と賜りました。
信奉する八幡神の加護なりと、武蔵谷盛庄に八幡宮を勧請しました。

重家の代となり、堀河天皇より渋谷の姓を賜りました。
このときの築城こそが、八幡宮を中心にしたもので、渋谷氏は代々この八幡宮を氏族の鎮守と崇めてきました。

名残として、現在でも境内に渋谷城砦の石が保存されています。



渋谷氏は、現在の都内では高級なイメージを持つ地域を領していました。
渋谷から青山、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木などがそうで、代々木までも含んでいました。



渋谷の街は、再開発で工事の音が周囲のビルに響いています。
人の喧騒も激しい街です。

携帯電話を使う場合でも通話相手の声が良く聞こえないこともあります。
まさに米軍で採用された骨伝導ヘッドセットが大いに活かされる街です。そんな街にある金王八幡宮は、貴重な癒し空間といえるかもしれません。

亀戸天神社を骨で聴く

2015-09-08 17:18:56 | 骨で聴く巡礼旅
太宰府天満宮に対し東の宰府として「東宰府天満宮」と呼ばれたり、「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」などとも称された亀戸天神社へ、激しい雨にも関わらず参拝に行きました。骨伝導巡礼として、何とも久しぶりの投稿になりました。

亀戸では弟橘姫の伝説に彩られた亀戸浅間神社(亀戸浅間神社を骨で聴く)や、亀戸水神駅(亀戸水神駅を骨で聴く)で訪れて以来です。



「東宰府天満宮」と呼ばれていただけあって、都内の神社としては格式を感じさせます。
歴史も古く、1661年(寛文元年)に、菅原道真の末裔で太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が江戸の本所亀戸村に来たとき、この地にあった天神の小祠に天神像を奉祀したのが始まりとされています。その天神像は、道真ゆかりの飛梅で彫ったもので、菅原大鳥居信祐はこれを持って、天神信仰を広めるために諸国を巡り、社殿建立の志を持っていたといわれます。

明暦の大火からの復興開発事業の地として本所の町が定められたことから、4代将軍・徳川家綱はその鎮守神として現在の社地を寄進したこことで、現在の亀戸天神の基盤ができました。





特筆すべきは1662年(寛文2年)に、地形・社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋など、九州の太宰天満宮に倣い造営されたことです。
特に赤い太鼓橋は、男橋・女橋とも圧倒的な存在感で、三世一念の理として人の一生を見事にあらわしているといえます。

雨滴が目の前の光景を邪魔するものの、参拝者の少ない境内は何ともいえない神秘性を醸し出しているようです。
雨が奏でる音もノイズではなく、一定のリズムを刻みながらこの聖なる空間を演習しているようです。

こんなとき、耳だけでなく骨でも聴きます。
折りしも昇殿参拝があったようで、かすかに祝詞も聞こえてきます。

米軍採用・特許技術の最先端・骨伝導音声増幅器もこの空間に溶け込んでいます。 骨で聴く.com