骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

黄檗宗海福寺を骨で聴く

2016-03-30 12:13:34 | 骨で聴く巡礼旅
臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである黄檗宗ですが、江戸時代に始まったことから、一般の人には少し馴染みが薄いかもしれません。しかも、臨済宗、曹洞宗が中国から渡来し、徐々に日本風に姿を変えてきたのに対して、黄檗宗は現在でも明朝風様式を伝えているので貴重ともいえます。

そんな黄檗宗の寺院の一つである海福寺へ米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに立ち寄りました。



海福寺は、黄檗宗の宗祖である隠元隆埼が明から来朝した万冶元年(1658)に江戸深川に開創した寺院です。しかし東京の目黒区に移転したのは明治43年(1910年)です。
移転の際、現在の新宿区上落合にあった廃寺の泰雲寺を合寺しました。

その名残ともいうべきものが山門です。
赤い四脚門は目黒区の指定文化財になっていますが、これこそ泰雲寺から移建されたものなのです。



中央にある親柱二本とその前後に二本ずつある四本の控柱からできています。細部絵様の様式に江戸時代中期の特質を備え、当時の日本建築の代表的な門の形式です。
山手通りからすぐ近い位置にある山門ですが、周囲の環境からも不思議となじんでいます。浮いた感覚のない朱色の山門は、なかなかに見事といえます。

また境内には武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられる九層の塔もあります。



本尊は釈迦如来坐像で、左側には隠元国師の木造が安置されています。
隠元像はかなり珍しいので、それだけでも貴重な寺院です。

貴重といえば、難聴対策や騒音対策に耳を使わないで「聞く」ことも貴重な体験になります。
実際の体験がないと、なかなかその理解できないのが骨伝導ですから、体験すること自体が貴重です。
そんな骨伝導機器の世界最高レベルの製品は、「骨で聴く.com」へ。


たこ薬師成就院を骨で聴く

2016-03-29 15:40:36 | 骨で聴く巡礼旅
たこ薬師は、本来の仏教信仰ではなく、仏教を介した民間信仰のようなものかもしれません。
日本各地に伝承信仰として残っているようですが、東京で最も有名なのは目黒のたこ薬師成就院です。

今回は春の陽ざしに誘われ、骨伝導ヘッドセットとともに蛸薬師巡礼です。

目黒のたこ薬師成就院は、慈覚大師(円仁)が自身の眼病平癒のために作ったものに由来すると伝えられています。

慈覚大師は天台宗の宗祖・伝教大師最澄の高弟です。
現在の栃木県壬生町に生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登りました。

承和5年(832年)には唐に渡り、同14年に帰国するまで、唐各地をまわり、多くの仏法を会得したといわれます。この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」で、のちに米国の元駐日大使ライシャワーが研究し、英訳出版されたことでも知られます。

慈覚大師は若いときから眼病を患っていました。
唐に渡ったときには、自ら薬師如来の小像を刻み、肌身につけていたといいます。
しかし、帰国の際、暴風雨にあい、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれることができたそうです。無事に筑紫の港に帰り着きました。

その後、諸国巡礼で肥前の松浦に行くと、海上に光明を放たれていました。
海神に捧げた薬師如来像が、蛸にのって浮かんで顕現しました。

慈覚大師は随喜の涙にむせび給ったといわれます。
さらにその後のことです。

東国をめぐり天安2年(858年)に目黒の地に来ました。目黒では疫病が流行していました。
そこで、松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模し、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納めました。これが蛸薬師如来とたたえまつられるようになりました。




現在のたこ薬師成就院周辺は目黒不動の近いことから、活気のある門前町の商店街に近く、山手通りからも遠くない場所です。
喧噪の商業地区と閑静な寺町、車が疾走する主要道路という複雑に入り組んだ環境で、ここでは耳だけでなく骨からも音声を伝達するのが良いでしょう、骨伝導です。
しかし骨伝導機器なら何でも良いとはいいません。

慈覚大師の偉業を称える意味でも、世界最高レベルの技術、米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットが適しています。
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たこ薬師成就院の本尊は秘仏です。1月8日の初薬師縁日にだけご開帳となります。
薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主です。諸病を治す法薬を与える医薬の仏さまです。ここでは、日光菩薩、月光菩薩を脇持とした薬師三尊像として安置されています。


白子熊野神社を骨で聴く

2016-03-26 16:38:44 | 骨で聴く巡礼旅
和歌山県の熊野那智大社に伝わる「米良文書」の「武蔵国檀那書立写」に、「しらこ庄賀助、庄中務丞」の名があります。
それが現在の埼玉県和光市白子に鎮座している熊野神社です。

実はここ、つい最近取り上げた清龍寺不動院のすぐ隣に位置し、境内も連続した位置関係にあります。

 → 清龍寺不動院を骨で聴く

白子熊野神社の創建年代は不詳ですが、「米良文書」の記述から考えれば中世には存立していたようです。




江戸時代には白子村の鎮守社として崇敬され、戦前まで村社に列格していました。
また、境内には富士塚もあり、湧水もあります。
自然異囲まれ、四季折々の表情を見せる貴重な神域です。




この地域の「白子」という地名ですが、実は歴史は古く、天平宝宇2年(758年)に朝廷の命によって渡来新羅人のために新設された武蔵国新羅郷です。転訛して「白子」となったとされています。

もともとは白子の鎮守は氷川神社だったようです。
いつの時代に、氷川神社からこの熊野神社になったのか、分かっていません。




江戸時代には川越街道の白子宿として栄えた町の中心的な役割を担っていたようです。

そんな熊野神社を骨で聴きます。
かつての宿場町の神域を耳だけでなく骨からも聴きます。骨伝導です。

自転車でもイヤホン禁止になった現在、骨伝導ヘッドセットは活躍の場を広げています。
幅広い活躍には、本物の、米軍採用・特許技術の骨伝導機器だけが選択されていくでしょう。
そんな世界最先端の骨伝導技術はこちらです。


新倉氷川八幡神社を骨で聴く

2016-03-25 13:04:48 | 骨で聴く巡礼旅
前回訪れた和光市の下新倉氷川八幡神社から、外環道方面に向かい、幸魂大橋の手前を左に入った場所に鎮座する新倉氷川八幡神社へ骨伝導巡礼です。

下新倉氷川八幡神社を骨で聴く

前回の下新倉と今回の新倉は、もともと一つの村であったようです。その関係なおかどうか分かりませんが、神社の名称も同名になっています。
ただ、新倉のほうが下新倉よりも遅れての創建で、弘安年中(1279~1288年)のようです。明治の時代の社格では村社でした。




交通量の激しい外環道に近いにも関わらず、ここは荒川低地帯から高台に登ったところに鎮座しているせいか、かなり鎮守の森の雰囲気があります。
小高い丘の上に緑が広がり、まるで城跡のような雰囲気です。



ただ参道は狭く、宅地化された周囲の狭間にある印象です。
それでも鳥居をくぐり、境内に入ると拝殿前は開放的になります。
なかなか雰囲気の良い神社で、わざわざ来るだけの価値はあります。



同じ氷川八幡神社ですが、下新倉氷川八幡神社とは明らかに印象が異なるのが興味深いといえます。
そんな印象の違いといえば、耳で聴くのと骨で聴くのも同様かもしれません。
ただ、この場合は慣れの問題です。

でも骨伝導を使うといっても、性能さもあるでしょう。
そこはやはり米軍採用・特許技術のものが一番です。

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テル子女神像を骨で聴く

2016-03-24 18:12:37 | 骨で聴く癒しの世界
謎の胸像「テル子女神像」は、世田谷区の三軒茶屋駅からほど近い住宅街にあります。

太子堂の商店街から住宅街に入り、細い路地裏のような場所に忽然と現れる印象です。
国道246号線からは、烏山川に向かって暗渠が繋がっています。当然、下り坂になりますが、暗渠に沿った道路が「下の谷商店街」に出る直前にテル子女神像があります。

隣は木々に囲まれた一軒家で、テル子女神像のまわりには雑草が茂っています。




何ともシュールな印象です。

この地域は渋谷からも近く、世田谷でも三軒茶屋エリアですから地価は高いはずです。
そんな地域に、ぜいたくな土地の使い方で女神像があるというのは、何とも不思議です。

インターネットでいろいろと調べてみると、なるほど、と思わせるような逸話がありました。
しかし伝聞情報だけを無責任に掲載するのは躊躇われるので、今回はこの衝撃的かつシュールな出会いだけを堪能し、周囲の音声を骨で聴きます。

不思議な感覚と、耳だけでなく骨でも聞く感覚は何となく共通するような気もします。
そこで耳を使わない、しかも米軍で採用された特許技術の骨伝導機器をお勧めします。

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おそらく三軒茶屋に馴染みのない人は、探しにくい場所だと思います。
正確な住所も調べていません。
でも、もし三軒茶屋に来た際には、探検する感覚でぜひ探してみてください。その際に骨伝導ヘッドセットをお使いになるのがおすすめです。

下新倉氷川八幡神社を骨で聴く

2016-03-23 10:34:39 | 骨で聴く巡礼旅
笹目通りを東京から埼玉県に入り、川越街道、東武東上線を超えた先の信号を左折した先に氷川八幡神社が鎮座しています。
住所表示では和光市下新倉になり、実は上新倉にも氷川八幡神社があります。今回は下新倉の神社へ骨伝導巡礼です。




73代・堀河天皇の寛治5年(1091年)に八幡宮として創建し、のちの文禄3年(1594年)に氷川神社を合祀したといいます。
明治の時代には社格が村社列格になりました。



社殿は新しく、平成8年に本殿幣殿拝殿が新築されています。




比較的新しい本殿ですが、それ以前はどうしていたかというと、白子小学校の奉安殿を移築したものでした。
これは昭和20年の空襲により旧社殿は焼失したことによります。

拝殿は昭和24年に再建し、本殿新築と同じ平成8年に神楽殿を移築しています。




地元の人々に大切にされてきたことがよく分かります。
ただ、この神社には不思議なことがあります。
参道です。

本殿の真正面に参道がなく、隣の駐車場との境目に至ってしまいます。
社殿は南面していて、東西に鳥居がある構造です。
東西、どちらの鳥居から続く参道を進んでも、90度向きを変えた場所に社殿があることになります。
大怨霊の神社では直角に折れ曲がる参道は珍しくありませんが、ここまでの参道はあまり目にしません。

ただ、そんな構造になっているおかげで、社殿前の空間が開放的で、ある種の爽快感があるといえます。

そんな爽快な気分で周囲の音声を骨で聴きます。
耳だけでなく骨から脳へと音声を伝えます。米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットでこの不思議な参道を堪能します。

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次はこのまま上新倉の氷川八幡神社へ向かおうと思います。
もちろん、お供は米軍採用・特許技術の骨伝導機器です。

美女神社を骨で聴く

2016-03-22 10:43:43 | 骨で聴く巡礼旅
埼玉県朝霞市に鎮座する美女神社。

おそらくこの名称の神社は、日本全国でもここだけではないかと思われます。
ただ、正確には「びじょ」ではなく、「うつくし」だといいます。祭神の「市杵嶋姫命」に由来します。

市杵嶋姫命は海や水、航海の神で、宗像大社(福岡県宗像市)に祀られている三柱の女神の一柱になります。
『古事記』では市寸島比売命、『日本書紀』では市杵嶋姫命と表記されています。

アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約の際に、スサノオの剣から生まれた五男三女神の一柱で、『古事記』では別名が狭依毘売命です。宗像大社では中津宮に祀られています。

広島の宮島に鎮座する厳島神社の祭神にもなっていて、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされています。
朝霞市の美女神社も、「うつくし」の呼び名は「いちきしま」が「うつくし」に変化したものだと考えられているようです。



また別の説もあり、朝霞から荒川を挟んだ場所に戸田市の美女木という地名がありますので、これが由来ともいわれます。



境内は狭く、質素な印象の神社です。
周囲ものどかな雰囲気で、荒川にも近く、散策とともに参拝するのに最適な神社です。

清龍寺不動院を骨で聴く

2016-03-21 11:35:22 | 骨で聴く巡礼旅
全国でも珍しい護摩修行ができる寺院として、埼玉県和光市の清龍寺不動院は知る人ぞ知る存在です。
また、この寺院は、乃木将軍が日露戦争で雌雄を決する戦い・旅順攻撃をする前に坐禅と滝行をしたことでも知られています。

そんな清龍寺不動院ですが、実は境内にある洞窟のパワースポットとしても知られています。



清龍寺不動院の本堂は小高い丘の上にあり、まず目にするの乃木将軍の写真です。
乃木希典は長府藩士の武士であり、教育者であり、そして偉大な軍人でした。長府藩士として戊辰戦争に従軍し、1894年の日清戦争では旅順をたった1日で落とし、続く1904年の日露戦争では、今度はロシア軍の旅順を落としました。
このことから世界的に名を知らしめるようになりました。

乃木公園、乃木神社は以前に取り上げたことがあります。

 → 乃木公園を骨で聴く
 → 乃木神社を骨で聴く



境内は自然に包まれ、埼玉県でも東京都の境に位置する場所とは思えない雰囲気です。
そんな一角に「開運利益洞窟めぐり」と書かれた洞窟の入り口があります。




溶岩の山が築かれ、周囲の自然環境の中に荘厳な雰囲気が漂っています。
少し進むと洞窟の入口です。



門を開け、洞窟に足を踏み入れると電灯のスイッチがあります。これをオンにして中へと進むことになります。
日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成された「神仏習合」らしく、稲荷社が現れてきます。



洞窟の中はただでさえ、日常空間から離れた少し異質な雰囲気がありますから、これだけの神聖な場所という意識があれば、パワースポットといわれるのも頷けます。ヌミノーゼ心理の観点からも納得です。

ちなみにここは、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠が家康の守護神を祀るために建立したといわれます。
家康の守護神は不動明王です。

都心からも決して遠くない場所に、これだけの荘厳な場所があることが貴重です。
日常の隣にある非日常の空気が充満しています。

おそらく初めて耳ではなく、骨で聴く骨伝導を体感したのと同じように衝撃的な展開があると思います。
骨伝導機器も、難聴対策や、騒音対策として、様々な場面で活躍しています。
乃木将軍も現在にいれば、軍事的に活用していたことと想像されます。

 → 米軍採用の骨伝導特許技術はこちら

とにかく、おすすめな場所です。
ぜひ、この神聖な空気に触れてみてください。

喜多見氷川神社を骨で聴く

2016-03-15 14:07:34 | 骨で聴く巡礼旅
東京の世田谷区では屈指の規模を誇る喜多見の氷川神社です。
せたがや百景にも選ばれていて、「江戸」という地名の由来となった江戸氏が暮らしていた地域です。
江戸氏はのちに喜多見氏と姓を変え、この地に喜多見藩がありました。

高級住宅街のイメージのある世田谷区ですが、この地域は古来からの風習がより濃く残り、住宅街であってもどこかのどかな雰囲気を持つ、ある種、特別な文化を持った地域といえるのかもしれません。



江戸氏がこの地を治めるようになったのは、源頼朝に助力し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によるものです。現在の喜多見だけでなく、武蔵七郷を賜りました。そのため江戸氏一族は東京全体に広がっていきました。同じく東京では豊島氏が治めていたことから、両氏がまさに栄えていたことになります。

では、この現在の喜多見は、というと、母方の実家一族が暮らしていたようです。
しかし、室町時代には関東は内乱の舞台となり、ここで太田道灌が台頭します。ついに1457年には江戸の地を道灌に譲る形で明け渡すことになってしまいます。
そこで一族がいた喜多見に移り住むことになったといわれます。

次に世田谷を治めていた吉良氏の配下に入り、その吉良氏も衰退時期に入ります。
永禄13年(1570年)、この地の領主だった江戸刑部頼忠(のちの喜多見氏)が社殿を修復し国家安泰、武運長久を祈願したという棟札が残っているのが氷川神社です。



神社としてのい歴史としては、天平12年(740年)の創建と伝えられています。しかし、多摩川に近い位置でもあり、洪水などで神社にまつわる古文書など流失してしまっているため、詳細は分かっていません。

この氷川神社は何といっても参道です。
参道からの風景は昔からほとんど変わっていないと思われます。都会の神社という雰囲気は全くありません。



二の鳥居も注目です。
小さな石鳥居ですが、特徴的なのは棒状のしめ縄が掛けられている点です。承応3年(1654年)に喜多見勝忠の子、喜多見重恒、重勝兄弟が寄進したもので、世田谷区に現存する最古の石鳥居です。
世田谷区指定有形文化財に指定されています。

鎮座している場所は、初めての人にはなんとも行きにくい場所で、それもこの神社の魅力といえるのかもしれません。
こんな世田谷らしくない神社こそ、米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットで周囲の音声を耳だけでなく骨でも聞きたいものです。
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狛江・慶岸寺を骨で聴く

2016-03-11 11:21:11 | 骨で聴く巡礼旅
世田谷通りが世田谷区から狛江市に入ってすぐの場所に慶岸寺はあります。
榮氷山道安院と号する浄土宗の寺院です。



山門は世田谷通りから喜多見駅方向へ入った道路沿いにあります。
この周辺はかつて岩戸村といいました。その村民だった河合氏が開基となり、僧然度(正保2年1645年寂)が開山したといいます。



この寺院で注目したいのは塩地蔵です。

もともとは子育てや安産の守り神として崇められていた地蔵でした。
霊験あらたかだったようで、願いが成就した折に塩を奉納した事から何時からか塩地蔵と呼ばれるようになったといわれています。



また、子育てや安産以外にも歯痛や頭痛にも霊感があるといわれています。

よく見ると、塩の浸食が進み、原型をあまり留めていません。かなり腐食が進んでいるので、このまま維持できるのかどうか不安になりますが、逆にいえば、それだけ人々を助けてきたともいえます。
一見の価値ある地蔵尊です。

恵比寿・福徳稲荷神社を骨で聴く

2016-03-08 11:46:45 | 骨で聴く巡礼旅
恵比寿駅のすぐ隣りに、知る人ぞ知るパワースポットがあるということで、出かけてみました。
西口前には駅前広場がありますが、その南側から線路沿いに続く小さな道があります。すぐに急な坂が現れます。いなり坂です。
高低差11m、平均斜度5度ということなので、かなりの急坂といえます。

その坂の途中にパワースポットといわれる福徳稲荷神社があります。
神社と反対側は山手線・新宿湘南ラインのホームと線路です。




東京の街中の神社らしく、小ぢんまりとしていて鎮守の森もありません。
存在感はあまり感じられない雰囲気です。

ではなぜこの小さな神社がパワーを与えてくれるのか、というと、それは伝説によります。

かつて、この周辺一帯が江戸下渋谷村といわれていた時代に遡ります。
福徳稲荷神社が鎮座する場所は、「稲荷山」とよばれていました。現在はすぐ横が恵比寿駅なので山という雰囲気ではありませんが、確かに地形から見渡せば山といえます。

さて、そこで伝説です。

現在の広尾にある「祥雲寺」が舞台です。
当時の住職が鈴木子順という人で、夢の中に福徳稲荷大明神があらわれたそうです。

「今夜、火難あり」

と、福徳稲荷大明神がお告げになったそうです。

その夜、祥雲寺内にあった霊泉院という建物が本当に火事にあったそうです。



明治の時代にもあります。

明治39年、すぐ隣りに位置する恵比寿駅を建設する際の出来事です。
当時この工事に従事している職人達がこの稲荷社域で小便をしたり絵馬を割ってたき火をするなどしていたようです。
すると、職人たちに事故が多発し、多くのけが人が出ただけでなく、作業中に死んだ人もいたそうです。

恵比寿駅の工事としては大変な事態になったわけですが、その後、福徳稲荷で悪さをする人が減ったといわれるようになりました。



明治41年には恵比寿駅前にあった「鈴木庵」という蕎麦屋の夫婦が福富稲荷大明神のお告げを聞いたという伝説も残っています。
いうものでした。
そのため、お告げの通りにすると、鈴木庵のご主人が抱えていた大きな病気が完治したそうです。

ちなみに鈴木庵という蕎麦屋ですが、現在の恵比寿駅前の三井住友銀行付近にあったようです。
記録によると、昭和の中ごろまはそこで店を構えていたようです。

このように伝承されていくものは、現代の都市伝説と大差ないといえますが、この小さな神社がなぜそこまでの伝説を生むのか、そこは注目すべきポイントです。
古来より特別な場所に鎮座していたからこそ、神社としては小規模でも人々から特別な存在になっていた可能性もあります。

実は東京の神社では意外に多いパターンが、神域になる以前から特別な場所だったというものです。例として古墳があります。
例えば芝丸山古墳の隣には東照宮が鎮座しています。
杉並の大宮八幡も古墳との関係が強い神社です。

つまり古墳そのものが古来より聖域となっていて、そこに明確に分かる神を勧請したことで、より強いパワーと日常生活の隣の異空間になっていたのかもしれません。

実はここにも「福徳稲荷古墳跡」があり、少し坂を上がると「渋谷塚古墳」もあります。
福徳稲荷古墳跡は無名古墳として指定を受けていて、まだ未発掘だそうです。

現在では恵比寿駅のすぐ隣ということで、古墳や数々の伝説を残す神社も、それほど目立つものではありません。
しかし古来より、この地域の人々に親しまれ、恐れられてきたことは今後も語り続けていく価値があるのではないかと思います。

たとえそれが都会のパワースポットという伝承であっても。

沼袋氷川神社を骨で聴く

2016-03-04 11:39:04 | 骨で聴く巡礼旅
西武新宿線の車窓から見える沼袋氷川神社。
中野区内でも大きな規模を誇ります。今回も米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットを装着しての参拝です。

歴史のある神社で創建は南北朝時代まで遡ります。
97代・後村上天皇の正平元年(光明天皇の貞和2年)に、武蔵国一の宮である大宮(現在のさいたま市)鎮座氷川大社から分霊され、祀られたことに由来するようです。



文明9年(1477年)の、太田道灌と豊島氏との間で行われた江古田・沼袋原の戦いの際には、この神社に太田道灌が陣営を置いたと言われています。その際に戦勝を祈願して境内に杉の木を植えたと言われています。

これが「道灌杉」と呼ばれ、高さ30メートルほどの大木となり、長く親しまれてきましたが1942年に枯死していました。



記憶に新しいことといえば、1988年に昭和天皇在位60年を記念して作られた社殿が、わずか1年数か月後、過激派によるゲリラにより焼失してしまったという事件です。社殿は翌1991年に造営されました。

境内には「三本願い松」があります。



「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と杉の木に願いを掛けて、不運・災難から逃れ松の木に幸福を願うと、必ず叶うと信じられて来たというものです。森や林、木々という日本人が自然の恩恵や営みに日常的に触れていて、木に宿る魂に対する謙虚な姿勢が見て取れます。




比較的新しいものでは、中野七福神もあります。
平成21年に天皇陛下御即位20年並びに天皇皇后両陛下御成婚50年を記念して、境内に奉齋されたものです。

中野区内では七福神の礼拝ができる唯一の場所です。



西武線の車窓から見るのと違い、実際に境内に足を踏み入れてみると、かなりの存在感があります。
下沼袋村の鎮守でしたが、今では中野区だけでなく、より広い地域から参拝者が訪れるだけのパワーがあります。

そんなパワーに肖って、耳ではなく骨で聴く驚異のパワーもぜひ体感してください。
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伊藤稲荷神社を骨で聴く

2016-03-02 11:51:23 | 骨で聴く巡礼旅
渋谷区の伊藤稲荷神社です。
実はこの「伊藤」とは人の名前なのですが、それが誰なのか謎です。

東京都神社名鑑によれば、

古くこの地に伊藤某という豪族が住み、その邸内社だったといわれている。
元禄年中(一六八八-一七〇四)より祭祀が盛んになり、伊藤前という町名が今の上智・氷川にかけてかなり広い地域に用いていたのを見れば、相当信仰のあったようで、小社の割には、祭典が賑わった時もあったように言い伝えられている。

と、いうことだそうで、伊藤某という豪族とは誰なのでしょうか?




明治通りから少し入った場所に鎮座していますが、それほど目立つことはありません。
社殿は昭和62年に再建していますが、謎の伊藤氏のことを思うと不思議な感じがします。

不思議といえば、初めて骨伝導で聞くことを体験した人は多くがこの「不思議」な感じを口にします。
耳を使わずに聞くことは衝撃的といえるかもしれません。
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