骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

花園神社を骨で聴く

2012-10-27 11:35:26 | 骨で聴く巡礼旅

 日本最大規模の歓楽街・新宿の街の中心であり、新宿総鎮守として街の守り神として祀られているのが花園神社です。江戸時代に内藤新宿が開かれて以来の街の守り神という歴史を誇っています。しかし創建は江戸時代より古いようで、詳しい由緒は不明ですが、徳川家康が江戸に入った1590年にはすで存在していたようです。大和国吉野山よりの勧請と伝えられています。

 元々は現在地よりも約250メートル南にあったようで、寛政年間に朝倉筑後守の下屋敷の敷地内となったことにより参拝ができなくなり、氏子がその旨を幕府に訴え、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝領し、遷座したといわれています。神社の由来となったのはことの時で、遷座した現在地が多くの花が咲き乱れていた花園の跡であったことのようです。その結果「花園稲荷神社」と呼ばれるようになり、またの名称として、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職が別当を勤めたことから「三光院稲荷」ともよばれました。単純に地名からも「四谷追分稲荷」と呼ばれてもいたようでうす。

 明治時代には村社となり、名称は単に「稲荷神社」となりました。しかし1916年(大正5年)に東京府知事に対し改名願を出し、許可されることになり、「花園稲荷神社」と正式に改称しました。
 現在の「花園神社」に改められたのは郷社に昇格した1965年(昭和40年)で、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられたときです。末社・大鳥神社を本殿に合祀しました。

 神社としては参拝者が集まるだけでなく、敷地内で各種劇団による催し物などが定期的に開かれたりすることで、新宿の街の文化の一翼も担いっている事により、大勢の人々が訪れます。堂々とした存在感の朱塗りの鮮やかな社殿も、花園神社のシンボル的存在とともに、参拝客だけでなく休憩場所や待ち合わせ場所として使われています。従って閑静な神社の聖域という雰囲気は一切なく、花園神社に人影が途絶える事がないほどです。

 骨伝導ヘッドセットとともに巡礼する旅も、花園神社では異質なものになります。別に「神様の声」を骨伝導で「聴く」わけではありませんが、周囲の静寂な中でもかすかに伝わる音声を耳だけでなく骨からも伝えることで、骨伝導特有のシータ波状態となり、癒し効果をアップさせることが可能といえます。それを体感するための骨伝導巡礼ともいえるわけで、ある意味ではパワースポットであろうが、歴史的神社仏閣であろうが骨伝導の活躍用途はこれに集約されるともいえます。
 しかし花園神社の場合は、他の聖域と異なり、新宿の街の文化であり、庶民の集まる場所であることから、むしろ街中での騒音対策としての機能を骨伝導が担えます。騒音の激しい工場の中、工事現場、電車のガード下のような場所でも、明瞭に「聴く」ことのできる特許技術がここで活かされます。

 活気ある新宿の花園神社では、骨伝導機器についても文明と都会型の使用が中心となって、その驚異的な効果を堪能できそうです。

          ⇒ 驚異的性能を堪能できる骨伝導製品

 新宿区内の神社仏閣は今までにも取り上げてきましたが、中心的な存在である花園神社については、やはり特別扱いです。個人的な思いでも多く詰まった身近な神社をようやく骨で「聴く」ことにしたのは、ある意味で大きな転換点にきていることを感じたからかもしれません。

ポルシェ 356を骨で聴く

2012-10-26 15:29:00 | 骨で聴く名車

 世界の名車ともいうべきポルシェですが、骨伝導とともに取り上げるのはFRポルシェばかりでした。そこで今回は製品名にポルシェの名を冠した初のクルマであるポルシェ356・Porsche 356を取り上げます。

 今でこそ世界トップレベルのスポーツカー製造を行うポルシェですが、創業当時は他社の車輌設計・開発請負を主な業務としてきました。それが転換点を迎えたのが、この356なのです。すべてはここから始まったともいえます。
 ポルシェが第二次世界大戦終戦後に開発に着手し、「356」の社内の開発コードで誕生しました。設計担当はフェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ、スタイリングはポルシェ社員のエルヴィン・コメンダでした。エルヴィン・コメンダといえば、フォルクスワーゲン・の代名詞的存在であるビートルを手がけた人物です。そのためビートルとの間には共通点が多いのが特徴ともいえます。

 設計が始まったのは1947年6月でした。終戦後の資材や物資が入手困難な状況でしたが、翌年には試作車が完成しました。そしてすぐにインスブルックのレースに出場して優勝という快挙を達成しました。

 試作車から量産化に至る過程で、車体はクーペとカブリオレの2種となり、後部に補助シート2席を追加することになりました。フォルクスワーゲンとの構造、部品の共通化によるコストダウンが行われ、エンジンもフォルクスワーゲン用369型をベースとしました。しかし、スポーツカーカテゴリの1,100ccクラスへ出場できるように1,086ccに縮小しました。出力は当初35英馬力でしたが、1949年11月以降は40英馬力となり、最高速度は140km/hでした。

 その後1965年モデルまで発展し、量産が開始されてから約15年に渡り細かい改良を重ねて発展を続けてきました。ポルシェでは記念すべきモデルでした。

 往年の名車には最先端の特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットとともに対面したいものです。今とは異なるエンジン音は、騒音というものではありません。米軍採用の骨伝導としての役目ではなく、じっくりと耳だけでなく骨からもこの音を聴きたいものです。

          ⇒ 特許技術の世界最先端・骨伝導製品

 昔から大好きなポルシェですが、356まで遡って堪能できたらという希望を抱き続けています。やはりポルシェには骨伝導製品がよくあいます。

新宿 法善寺を骨で聴く

2012-10-25 11:00:15 | 骨で聴く巡礼旅

 新宿区の隠れた巡礼スポットを廻っています。骨伝導機器とともに出かけた今回の場所は、日相上人が創建した春時山法善寺です。小さな商店街の中にある霊験あらたかな雰囲気をもつ寺院です。

 池上本門寺に帰依していた鳥取城主の池田家4代・綱清から中正院日護上人作の七面天女像を献ぜられた実相院日相上人が一宇を建立して祀ったのが法善寺の七面大明神といわれます。法華宗独特の七面信仰が江戸へ進出した最も早いものです。

 七面信仰は、女人成仏を説く法華経が、その証拠として竜女の成仏を示していることと、吉祥天女として垂迹し、山の守護神となった時の姿が竜であったという伝説とが結び付いたものです。日蓮宗独特の除難招福の信仰です。

 境内は広いわけではなく、商店街の喧騒も届かず、ひっそりとしています。静かに落ち着いて参拝するのに適しています。静寂の中、七面信仰を全身で感じながら骨伝導を使って周囲を「聴き」ます。米軍で採用された特許技術の骨伝導機器が、騒音でもなく、難聴でもなく、ただ静かさを骨へと伝えます。耳から入る静寂と骨から伝わる静寂とを感じ、それでもここは新宿区の一角であるという現実を知ります。

          ⇒ 驚異の特許技術・骨伝導

 特に有名な寺院でなくとも、地元に根付いていることはそれだけでパワーが宿っているといえます。七面信仰の江戸最初の地に立ち、骨伝導を堪能しながら静かに思いを巡らせました。

南沢氷川神社を骨で聴く

2012-10-23 13:46:37 | 骨で聴く巡礼旅

 東京の多摩地区で隠れたパワースポットへの巡礼として、今回は東久留米市の南沢氷川神社を訪れます。

 東久留米市中央部に位置する場所で、落合川上流「南沢緑地保全地域」の湧水地に鎮座しています。境内の前後が川に囲まれていて、この神社だけが高台に位置しています。それだけで特別な聖地という雰囲気です。

 実は以前、「南沢緑地保全地域」とすぐ近くの多聞寺は骨伝導機器とともに訪れたことがあります。

          ⇒ 南沢湧水を骨で聴く
          ⇒ 宝塔山吉祥院多聞寺を骨で聴く

 古来より湧水守護神として奉斎されてきた神社です。出雲「斐伊川」の故事にならい、氷川神社を創立したものと伝えられています。
 清涼感が漂う独特の雰囲気を醸し出していて、水の流れを骨伝導機器を使って聴くことで間違いなく癒し効果はアップします。
 米軍に採用された特許技術の骨伝導機器ですが、この地では騒音対策や難聴対策というより、耳だけでなく骨からも聴くことで、目に見えないパワーを感じる気さえします。

          ⇒ 驚異の骨伝導パワー製品

 この付近からは湧水の地らしく、土器、やじり等多く出土してきました。古来より人が住み、また崇拝対象の場所としていたことがうかがえます。

 南沢氷川神社の地に伝わる伝承には、在原業平の古伝があります。古文書によると、業平が東下りの折りに当地に宿を求め、社前に立ち寄る旨記述されています。

 歴史ある神社と湧水の清涼感あふれる雰囲気を堪能できるのは、まさに隠れた名所であることは間違いありません。骨伝導ヘッドセットとともにぜひとも参拝して頂きたい神社です。

森の遊園地を骨で聴く

2012-10-22 13:19:15 | 骨で聴く体験記

 千葉県野田市の市街地に小さな遊園地があります。森の遊園地と名付けられたもので、家族連れで楽しめるファミリー遊園地です。1日たっぷりと遊ぶというよりも、ほんの少しの時間でも遊園地を堪能したい方に向いています。入園料もありません。

 森の遊園地で一番目を引くのが、高さ65mの大観覧車です。ここからは、都心のビル群から富士山、筑波山、日光の山々までの景色が展開されます。隠れた展望スポットです。

 ショッピングセンターのイオン ノア店と隣接していて、買い物帰りに気軽に遊べるのも特徴です。子供たちの歓声が響く中、骨伝導ヘッドセットを使って周囲の音声を聴きます。米軍で採用された特許技術の骨伝導製品だけあって、この空間で堪能する音声はなかなかの雰囲気を感じます。
 耳から聞こえる音声と、骨伝導を使って聴く音声とが混じり、健聴者には迫力を感じさせます。中程度までの難聴者であれば、遊園地の臨場感をそのまま体験することができるでしょう。

          ⇒ 驚異の骨伝導を体験する!

 野田市の小さな小さな遊園地と骨伝導の組み合わせにより、この体験をぜひとも皆様と共有したいと感じました。


布多天神社を骨で聴く

2012-10-19 17:48:42 | 骨で聴く巡礼旅

 調布市のパワースポット神社として知る人ぞ知る聖地が布多天神社です。調布駅から甲州街道を渡った先に鎮座しています。骨伝導ヘッドセットとともに参拝に出かけました。

 布多天神社の名がでる最古のものは、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典です。多摩地方では有数の古社になります。
 社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれているほどです。
 
 確かに境内に立つとその風格は十分に感じ取ることができます。隠れたパワースポットというのも頷けます。

 ただ現在地への遷座は、文明九年(1477年)のことで、多摩川の洪水をさけるためだそうで、その時に、御祭神、少彦名命に菅原道真公を配祀されました。

 江戸時代には甲州街道が作られます。現在の調布市周辺では、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができました。布田五宿と呼ばれました。
 この当時になると、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られるようになっていました。

 さらに明治21年に調布町となり、調布町総鎮守となりました。

 本殿は宝永3年(西暦1706年)に再建されたもので、存在感を誇るものです。不思議と気持ちのよい空気に包まれる神社で、甲州街道の騒音はここまで届きません。米軍採用の特許技術を使った骨伝導機器も、ここでは騒音対策ではなく、癒し効果を助けるための音声増幅器にピッタリかもしれません。

          ⇒ 特許技術の骨伝導製品




 多摩地方の神社は隠れたパワースポットがたくさんあって、骨伝導機器とともにもっともっと巡礼したいものです。

抜弁天を骨で聴く

2012-10-17 21:15:55 | 骨で聴く巡礼旅

 新宿の職安通りを東に進むと、抜弁天という交差点があります。地名のような感じがしますが、実はこの交差点に源義家が祈願した厳島神社があったのです。この神社こそ通称「抜弁天」です。旧鎌倉街道が通っていた場所です。

 応徳3年(1086年)、鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営しました。ここは高台になっていて、周辺地域では最も高い場所になります。そのため富士山もよく見えたようです。
 義家は遠く富士山を望みました。はるか彼方の安芸に鎮座する厳島神社に戦勝を祈願しました。

 その後義家は奥州平定を成し遂げ、その帰途、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立しました。当然ながら勧請したのは厳島神社です。

 抜弁天といわれる由来としては、義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けたという伝説にあります。
 また一説では、境内の参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」ともいわれたといいます。
 江戸六弁天、山の手七福神の一つに数えられるようになりました。

 徳川幕府5代将軍・徳川綱吉は天和2年(1682)に世継の徳松を亡くした悲しみから、貞享2年(1685)以降、数回にわたり生類憐れみの令を出しました。抜弁天の付近にも野犬のための2万5千坪の犬小屋が設置されていたようです。

 現在の抜弁天は、これだけの伝説を誇るとは思えないほど、小型の神社です。交差点の片隅に狭い境内があり、本殿もミニです。わざわざ訪れると、何だか拍子抜けしそうなほどです。しかも交通量の激しい交差点ですから、まさに都会の騒音に包まれています。

 こんな騒音対策には骨伝導機器です。
 米軍で採用された特許技術が活きます。騒音が激しく隣の人とも会話がでできないような工場内でも活躍している骨伝導ヘッドセットを使えば、神社本来の空気を感じることができるでしょう。

          ⇒ 特許技術・騒音対策の骨伝導

 新宿の骨伝導巡礼は、思わぬ発見があったり、想像と実際のギャップがあったりと、多彩な感じで実に興味深いものです。


シャリオグランディスを骨で聴く

2012-10-16 07:21:54 | 骨で聴く名車

 シャリオグランディスは三菱自動車工業が製造・販売していたミニバンですが、1997年以前のモデルはシャリオ、1997年から2003年までのモデルだけがシャリオグランディスという名称でした。その後の2003年からのはシャリオの名が消え、グランディスとなりました。

 今ではミニバンはごく当たり前のクルマとなっていますが、日産のプレーリーと並んでミニバンの先駆けといわれたクルマです。

 特徴的なのは、当時としてはこのクラスで初のインパネシフトを採用し、全車に2400cc DOHC16バルブ・GDIガソリンエンジンを搭載していたことです。さらに3000cc V6 DOHC24バルブ・GDIガソリンエンジンを搭載した「ロイヤル」シリーズも追加されます。

 このGDIエンジンには電子制御スロットルが採用されているものの、変則的な機構になっています。というのも、スロットルセンサーがアクセルペダルに接続するのではなく、エンジンルーム内にあるからです。そのため、アクセルペダルからスロットルセンサーの間にアクセルワイヤーが介在することになっています。

 GDIエンジンはガソリン直噴エンジン(Gasoline Direct injection engine)で、ガソリンをシリンダー内に、高圧で直接噴射するエンジンのことです。「筒内噴射」方式と呼ばれるものです。




 ファミリー層に人気なミニバンですが、ガソリン直噴エンジンは高圧インジェクターによってノイズが発生してしまいます。エンジンのノイズがカタカタ、カチカチという音が聞こえます。ファミリー向けのミニバンとしては違和感を感じるかもしれません。

 ここではやはり骨伝導機器を積極的に活用したいものです。爆音のような騒音ではありませんが、ディーゼルエンジンに近いノイズは、バスよりトラックのような音を感じるかもしれませんから、骨伝導で快適に乗るのは悪くありません。

 米軍で採用された特許技術により、シャリオグランディスをより堪能してみると、まだまだ魅力的なクルマです。

          ⇒ 特許技術の骨伝導製品

 シャリオグランディスは1998年3月にはおよそ1万1000台の売り上げを記録したことがあります。三菱としては大ヒットを記録したクルマで、今でも多く見かけることがあります。

代々木八幡宮を骨で聴く

2012-10-13 17:00:08 | 骨で聴く巡礼旅

 鎌倉時代、2代将軍・源頼家の側近・近藤三郎是茂の家来で荒井外記、智明が、頼家公暗殺の後、名を宗祐と改め、この地に隠遁しました。主君の菩提を弔って暮らしていましたが、建暦2年(1212年)8月15日夜、霊夢の中で八幡大神の託宣と宝珠の鏡を感得し、元八幡の地に小さな祠を建て、鶴岡八幡宮を勧請したのが、代々木八幡宮の創始とされています。

 草創以来、社僧の手によって管理され、天保元年(1644)には伝養律師が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、 三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれています。

 明治維新以降になると神仏混淆が禁止されたことで、村社に列せられるようになりました。江戸時代からの稲荷社、天神社の末社に加え、旧代々木村にあった小さな神社が合祀されるようになり、現在の代々木八幡宮となりました。

 現在では多くの車が疾走する山手通りに面した小高い丘に代々木八幡宮はあります。都会の神社で、しかも交通量の多い通りに面しているとなると、骨伝導機器の出番です。米軍で採用された特許技術が大いに活かされる環境といえます。

          ⇒ 米軍採用の技術満載・骨伝導製品

 しかし参道から奥へと進んでいくと、鎮守の森を形成する聖域は、騒音に包まれてることはなく、静寂とまではいかなくても、落ち着いた雰囲気が漂っています。とても気持ちの良い環境です。遺跡もあり、古来より人々の生活と聖域をつくっていただけのことはある空気に包まれます。そういう意味ではパワースポットといえるでしょう。

 

西向天神社を骨で聴く

2012-10-12 14:24:52 | 骨で聴く巡礼旅

 新宿区の聖域を骨伝導機器とともに散策し、参拝することにしました。最初に訪れたのが西向天神社です。
 西向天神社は正式には大久保天満宮といい、古来より東大久保村の鎮守社でした。

 場所は都営地下鉄大江戸線東新宿駅の東側になり、徒歩で約5分程度の位置です。職安通りから南に入ると木々が生い茂る高台が現れます。その斜面に西向天神社は鎮座しています。
 クスノキやケヤキなど木々が茂る境内は結構広く、鎮守の森を形成しています。境内に隣接した公園もあります。太田道灌の山吹の里伝説で知られる紅皿碑と富士塚があり、雰囲気としては、古き良き時代の懐かしい神社といった感じです。幼少時に遊んだ神社の境内の面影をとどめているのは、何とも微笑ましいものです。
 また、境内には神仏習合時代の名残らしい不動明王の石像もあり、さらには宇多田ヒカルの母親で歌手の藤圭子のデビュー曲「新宿の女」(昭和44年)の歌碑もあります。

 菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請した神社で、西向天神社という名は、社殿が西方(京都)を向いていたからつけられたものだといわれます。俗称として棗天神というのもあり、寛永年間(1630年代)に、三大将軍・徳川家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた西向天神社の社殿等の修復のために金の棗の茶入れを下賜して再興を促した、という伝承によります。

 この西向天神社に参拝し、周囲の音声を骨伝導で聴きます。それまでは骨伝導サングラスでお気に入りのBGMを聴きながら散策します。騒音対策はそれほど必要な神社ではありませんが、骨で聴くことで雰囲気をより堪能します。
 集音マイクから骨伝導スピーカー、そして脳へと伝わることで、骨伝導サングラスで聴くBGMとは異なる癒し効果も得られたようです。さすが特許技術の骨伝導スピーカーです。

          ⇒ 特許技術の骨伝導製品

 新宿の聖域は古き良き時代の数を運び、骨伝導の威力により拡大されます。

布施弁天を骨で聴く

2012-10-08 05:13:03 | 骨で聴く巡礼旅

 上野の寛永寺弁天堂、藤沢の江島神社とともに関東三弁天のひとつに数えられのが、布施弁天です。寛永寺や江ノ島といった有名な場所ではなく、千葉県柏市の利根川に近いのどかな地にあります。平坦なエリアで、そこだけこんもりとした山になっているので、まるで古墳か海に浮かぶ小さな島のような印象を持ちます。

 開運・パワースポットとしても霊験あらたかなこの布施弁天へ、最先端技術満載の骨伝導機器とともに参拝に出かけました。

 正式名称は紅龍山布施弁天東海寺で、大同2年(西暦807年)に弘法大師空海御作といわれる弁財天像をご本尊(秘仏)として開山された祈願寺です。
 布施弁天のいわれ(縁起)は、伝説に彩られ、古からパワースポットを形成してきたことを裏付けるものといえます。



 大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れました。赤い龍の手には土塊があり、それを捧げて島を造りました。島の東の山麗からは、その後不思議な光が夜になると射すようになったといいます。そんなある日、天女が村人の夢に現れました。

「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」

 と告げました。
 夢から覚めた村人が光をたどっていくと、そこに三寸の尊い御像があったのを見つけました。早速、天女の言いつけどおり、藁葺きの小祠を建てておまつりするようになったといいます。

 このエピソードは、弘法大師空海が関東巡錫のとき、この地を訪れた際に耳にすることになりました。空海はすぐに小祠に赴き、

「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」

 と感嘆せられたといいます。

 空海ここに寺院を造り、山を紅龍山、天女の利益にあやかり「布施」という地名を付けました。そして京に帰った際、嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。

 弘仁14年(823年)、嵯峨天皇は空海の話にいたく感動されました。布施弁天に田畑を寄付し、堂塔伽藍を建立されるようにしました。さらには勅願所にまでしたのです。
 勅願所とは寺社としては別格の扱いで、天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社です。

 その後100年近くが経過した承平年間(931年~938年)、平将門の兵火のため焼失されてしまいました。それに対して、討伐軍の武将が弁財天を信仰し、尊像奉持し、平将門の乱を制しました。そこで布施弁天を再興しました。
 本尊の弁才天は松の木の上に避難し難を逃れていたことから松光院と名付けられるようになりました。

 この後も天災や戦乱で興廃を繰り返すことになった布施弁天ですが、現在の本堂が完成しまたのは、本多豊前守により享保2年(1717年)のことでした。




 赤い龍の伝説から、仏教界の巨星・弘法大師空海、嵯峨天皇、平将門の乱の平定等々、のどかな場所に建つ寺院とは思えないような歴史に彩られているのは、それだけここに宿るパワーの大きさを証明しているかのようです。

 本尊の弁才天は庶民にも親しまれているものですが、梵名でサラスバティといい、インドの大きな河に名づけた聖河の呼び名であるとも言われています。河そのものに対する自然信仰が発祥で、河を神格化してきたことに由来すると言われます。
 これは古代文明がすべて大河とセットとなっていることからも分かるように、大河こそ文明を生み出した母であり、インドではインダス川、メソポタミアではチグリスとユーフラテスの二つの大河、エジプトはナイル川です。

 また弁才天は七福神の一つにも数えられています。それで余計に身近な存在になっているともいえますが、仏教の経典『大日経』では、二臂(二本の腕)をもち、琵琶を奏でる天女姿となっています。しかし布施弁天はインドから中国に渡った『金光明最勝王経』に説かれている八臂弁才天で、剣、弓、矢、斧など武器を持った戦闘神、守護神の風体です。

 剣は冴えわたった知恵を現し、また煩悩を断ち切るめに知恵の利剣です。
 玉はいわゆる宝珠で、財宝、心の幸せを与える宝です。
 弓と矢は、それぞれ心の魔、煩悩などを退治する知恵を改良するためのものです。

 功徳広大無辺である布施弁天が霊験あらたかなのは、むしろ当然のことかもしれません。

 米軍採用に特許技術を活用した骨伝導機器も、それぞれの用途に応じた活躍をします。工場やクルマ、バイクの走行中の騒音環境での驚異の威力、伝音難聴の方の気軽な補助器具としての大活躍などです。

          ⇒ 驚異の骨伝導パワー

 個人的に大好きな布施弁天には、約20年ぶりに行きました。感慨無量で、しかも今回は骨伝導機器と一緒だったので数百倍のパワーを授かった気分です。


代永山円乗院を骨で聴く

2012-10-02 17:56:24 | 骨で聴く巡礼旅

 玉川八十八ヶ所霊場の50番札所である代永山円乗院は東京の大動脈・環七の近くにあります。交通量の激しい環七ですが、場所が世田谷区代田という閑静な住宅街なせいか、騒音はあるものの境内には都会ならではの独特な静寂に包まれています。
 骨伝導ヘッドセットとともに巡礼にいきました。

 せたがや社寺と史跡より一部を引用すると、

「新編武蔵原土記稿」には円成院境内除地1町6段11畝余と記載され「村民古クヨリモテルト云記録アリ、ソレモ寛永二年(1625)以来ノコトヲ載タレド、ソレヨリ上ノコトノ、シルサズ、菅村民七人円成院ト共ニ小名本屋舗ノ地ニアリテ耕作ヲ勤ムト云々、サレバ此村草創ノ比ヨリノ寺ナルベシ」とあり、いわゆる代田7人衆などにより寛永初期頃までに代田村村民の菩提寺として創建維持されてきた、百姓持ちの寺と思われる。享保年間(1716~1736)に炎上再建されたが、昭和20年の空襲により再度回禄の災にかかる。現本堂は昭和29年移建されたものであるが、その前身は台東区橋場総泉寺(秋田佐竹侯菩提寺)の旧本堂であった。狩野探信筆の襖絵(文政8年)などがあり、江戸後期の建築物であろう。風土記稿にみえる観音堂は戦災時まで存していたが惜しくも炎上した。本尊不動明王は享保炎上後同18年(733)12月再造されたもの、門前に斉田東野筆弘法大師1000年遠忌の大石碑がある。並立する庚申塔2基は区立守山小学校敷地から移したものである。1月15日境内で三土代会主催で代田餅搗や曲搗保存のための餅搗会が行なわれている。世田谷区内で数少い弥生時代追跡である円乗院遺跡は同院裏手のほぼ南面する丘陵端で発見され、昭和3年調査されたときには竪穴住居3が確認され多数の弥生後期の土器が出土した。

 と、なっています。
 興味深いのは世田谷区内で数少い弥生時代追跡があることで、はるかな古の時代から人々の痕跡の残る地に、真言密教の聖地があることでしょうか。

 新編武蔵風土記では、「新義真言宗にて世田ヶ谷村勝國寺の末寺、代永山と號す、開山開基ともに詳ならず、本堂は八間半に七間庫裏へ立つつけたり、本尊は不動明王此像は享保十八年十二月造立せしより云り、是によれば昔の本尊はいつの頃にかうせて再造せしことしるべし、村民古くよりもてると云記録あり」ということで、庶民との関わりが続くことで、歴史の連続性を感じることができます。

 現在では冒頭にも述べたように環状七号線(環七通り)のすぐそばで、人だけでなくクルマの流れをも包容する存在としている感じです。

 そんな寺院に骨伝導を使って「聴く」ことで、騒音対策、米軍採用の技術がはるか弥生時代から続く「音」を感じることができる気がします。特許技術の骨伝導機器だからこその威力かもしれません。

          ⇒ 米軍採用・特許技術の骨伝導製品

 世田谷の寺院に深い歴史が隠され、クルマが疾走する騒音とともに次の時代へと引き継がれていくのかもしれません。