骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

二子玉川駅を骨で聴く

2016-01-27 09:44:02 | 骨で聴く鉄道駅
東急田園都市線と大井町線が乗り入れ、急行停車駅の二子玉川駅。
駅名の変貌が激しい歴史を持った駅です。

もともとは玉川電気鉄道の玉川停車場として開業しました。
さらに目黒蒲田電鉄の大井町線が延伸したことで、停車場に隣接して二子玉川駅が開業することになりました。

玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併し、当時の玉川第二遊園地(のちに二子玉川園)も読売新聞とタイアップして「読売遊園」に改称しました。これに伴って、「よみうり遊園駅」に改称しました。

次に東京横浜電鉄が目黒蒲田電鉄と合併し、二つの駅名を統一して、「二子読売園駅」に改称しました。
これが戦局の悪により遊園地が閉鎖されたことから、「二子玉川駅」に改称しました。
戦後になって遊園地が復活すると、「二子玉川園駅」に改称しました。

現在の名称「二子玉川駅」に改称されたのは、2000年(平成12年)で、このときに東急新玉川線が田園都市線に統一されました。
ただ田園都市線ももともとは大井町線が長津田駅まで延伸されることによります。

当時の新玉川線が田園都市線と完全な直通運転になったのは1979年でした。
現在の形になったのは田園都市線複々線化工事と大井町線の溝の口延伸でした。1994年から駅改良工事が実施され、1999年に1・4番線を田園都市線、2・3番線を大井町線というよに、乗り換えがスムースに行く機能的な駅に生まれ変わりました。



玉川第二遊園地や玉川プールなど、都内の行楽地として開発された街であるがゆえに、駅名の変遷もそれに関係しているといえます。
ちなみに玉川第二遊園地は二子玉川園となり、映画館「二子東急」も設けられました。
1985年の二子玉川園が閉園した後は、跡地にスポーツ施設やナムコ・ワンダーエッグ、いぬたま・ねこたまなどのテーマパークが建設されました。
しかしのちに再開発が進み、再開発地域全体が「二子玉川ライズ」と命名され、「二子玉川ライズ・バーズモール」、「二子玉川ライズ・オークモール」、「ドッグウッドプラザ」、「二子玉川ライズ・ショッピングセンター」、「二子玉川ライズ・ステーションモール」、「二子玉川ライズオフィス」、「二子玉川エクセルホテル東急」、「二子玉川ライズ楽天クリムゾンハウス」、「二子玉川蔦屋家電」、「109シネマズ二子玉川」、「イッツコムスポット&スタジオ」など、続々とオープンしています。
楽天の本社も移転してきました。

行楽施設から複合型の開発エリアとなった二子玉川駅には、やはり世界最先端・米軍採用・特許技術の骨伝導機器が似合います。
喧噪の中、最先端の性能と街を味わってみたらいかがでしょうか。
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八津御嶽神社を骨で聴く

2016-01-26 12:23:19 | 骨で聴く巡礼旅
東京の中野区本町に鎮座する八津御嶽神社へ米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットとともに訪れました。
「800余年の永きにわたる歴史を刻む社」ということですが、この外観は伝統的な神社とは全くことなることに驚きます。

八津御嶽神社の歴史は後鳥羽天皇の御代・文治元年(1185年)までさかのぼるということですから、かなり古いことは間違いありません。

源 頼朝により、全国に守護・地頭を置くことが定められ、甲州東河内領谷津村岡田乃郷字八津に八津多聞左ェ門藤原時種が地頭職として着任しましました。甲州東河内領谷都村岡田乃郷字八津は、現在の山梨県南巨摩郡南部町に相当し、この地方のシンボル的なものとして宝生山があります。

八津多聞左ェ門藤原時種が、屋敷の北側に「民心の統一と所領安穏・五穀豊穣」を祈念して小さな祠を建立しました。それが御嶽神社で、鎮守としました。これが八津御嶽神社の起源とされています。

守護・地頭職制度が廃止された後も御嶽神社だけはこの地の鎮守として残りました。
中野区のこの神社は分社という位置づけですが、開教祖・山本如流で、この地に鎮座する前には「宝生教」でした。




山本如流は、1868年(明治元年)に山梨県南巨摩郡南部町に生まれ、1912年(明治45年)から宗教家の道を歩み始めました。
1918年(大正7年)に東京都墨田区浅草橋に教会を設けてからは、本格的な布教活動に身を投じていき、ついに1921年(大正10年)に神託を受け、「霊動霊感の伝授」が開発されたといわれます。



現代的なビルがいわば本殿になるのでしょうが、すぐ隣に参拝用の祠もあります。
注目すべきはおみくじです。
他の神社では見られない光景です。



都会の神社はビルと一体化していたり、ビルの屋上や1階の専用スペースを設けて祠があったりしますが、ここはまさにビルそのものが神社です。寺院では現代的な建築がありますが、神社としては珍しいといえます。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットを使い、ある意味で異質な空間を骨で聴きます。
何ともいえません。

瘡守稲荷神社を骨で聴く

2016-01-25 11:34:57 | 骨で聴く巡礼旅
昨日ご紹介した瀬田玉川神社から北へ徒歩約5分。
左手に小さな公園が現れます。単なる公園ではなく、鳥居もあり右に直角に曲がる参道も続いています。

 → 瀬田玉川神社を骨で聴く

瘡守稲荷神社です。
入口には「かさ守稲荷広場」とあります。少ないながら遊具もあります。
木々にかこまれているせいか、今の季節は寒いのと寂しそうな雰囲気です。



樹令100年余の大欅があり、その傍に小さな社殿があります。
稲荷神社ですが、祭神として老人の石像(全身2尺位)が安置されているようです。しかし、これについて史実になるものは、何もないようです。祭神、石像の作者、神社の創設が不詳という謎の神社です。

しかし、江戸時代には病平癒の社として多くの参詣者があったようで、「多摩川のきれいな石を持ちかえり、病気が全快すると多摩川から石を拾い、倍にしてかえす習慣があった」といいます。

謎の神社ではあるものの、名称になっている「瘡」とは皮膚病や性病を表す文字で、この地に住む人々を病気から守るために創建したという説はかなり信憑性が高いように思います。
なぜなら、二子玉川に多くの人々が娯楽を求めて集まり、遊郭が増えたたという歴史があるからです。
性病だけでなく、次第に伝染病に対しても病気平癒の願いが込められ、この神社への崇敬が増したと考えられます。

現在は瀬田玉川神社の飛地境内末社になっているようです。

病気平癒といえば、超高齢化社会を迎えた現代では、最先端医療の発展に支えられていることに気づかされます。
しかし高齢者の衰える部分で、聴力については補聴器がどれだけ高性能になっても、嫌がって、装着してくれないことが多くあります。
そこが視力低下に対するメガネと決定的に異なる点です。

強要して使ってもらうものでもないとはいうものの、実は本人より周囲の人が会話できないことでストレスになっています。
本人のためでもあるものの、家族や介護する人にも快適な環境が欲しいところです。

そこで、骨伝導音声増幅器です。
単なる骨伝導機器ではありません。米軍採用・特許技術のレベルの性能です。
医療認定も受けましたが、手軽に使える汎用性に変更しています。骨伝導きくちゃんです。

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ちなみにこの瘡守稲荷神社ですが、参道が曲がっているのは区画整理の関係なのか、謎の祭神が怨霊なのか、それも分かりません。

瀬田玉川神社を骨で聴く

2016-01-24 14:18:36 | 骨で聴く巡礼旅
二子玉川という場所は、東京都世田谷区の南西に位置しています。
北側が緩やかな丘陵になっていて、南側は多摩川です。基本的に住宅地ではありますが、世田谷区では珍しい大型商業施設を中心として、街が賑わっている特殊な場所ともいえます。

最近では駅の東側を中心に再開発が進められ、二子玉川ライズショッピングセンターが開業したり、楽天の本社移転があったり、再開発はまだまだ進行中です。

元々この街は、江戸時代には多摩川の渡し船(「二子の渡し」)により栄えた場所で、後に世田谷随一の歓楽街、東京有数の行楽地へと変貌していったという歴史を持っています。

そんな二子多摩川の繁華街から丘陵に沿って登った地に、瀬田玉川神社は鎮座しています。





瀬田と玉川という二つの地名がついていますが、これはこの地が明治22年に付近の7つの村と合併して誕生した玉川村の大字となりましたが、昭和7年の世田谷区成立の際に玉川町と分離し、玉川瀬田町となったことからも分かります。ちなみにその後、町域変更を重ね、昭和46年に瀬田、玉川と二つの住居表示に変わりました。

この瀬田玉川神社は、永禄年中(1558〜1570年)に、当時の村の下屋敷に創建されたといわれます。
寛永3年(1626年)に長崎四郎左衛門嘉国が寄進して現在地に移転しました。

国分寺崖線上の丘陵地帯で、比較的高い場所にあることから、長らく御嶽神社と呼ばれていたそうです。
明治7年(1874年)には村社となりました。しかし明治39年(1906年)の勅令の神社合祀に基づいて、明治41年(1908年)、八幡社、熊野社、大神宮(天祖社)、六所宮などを合祀することになりました。

玉川神社と呼ばれるようになりましたが、後に瀬田玉川両地区の氏神様となり、瀬田玉川神社と呼ばれるようになりました。
大正3年(1914年)に社殿は改築され、大正12年(1923年)の関東大震災の被害で補修されました。




境内は決して広いわけではありませんが、村の鎮守だった貫禄のようなものを感じます。
今では周囲に建物が多くあり、高い位置にあっても景色が一望できるとは限りませんが、山に登ってきた気分も味わえます。

冬の澄んだ空気を吸い込み、周囲の音声を耳だけでなく骨でも聴きます。
世界最先端の米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドホンから、変貌する二子玉川の街を見守っている鎮守のい声が聞こえてくるようです。

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ちなみに楽天の本社移転前、品川の本社には何度かお邪魔させて頂きましたが、この二子玉川のほうが似合っていると感じるのはなぜでしょうか。IT系の無機質から、ショッピングの雰囲気に変わったからかもしれません。
単なる個人の感想ですが、、、、

満行寺を骨で聴く

2016-01-23 14:20:36 | 骨で聴く巡礼旅
在原業平や准后道興の歌に詠まれ、30余りの社、300の坊社など七堂伽藍を備えていたといわれる満行寺は、かつては十二天村にあり、いつのころか現在の場所へ移転したことで、周辺を野寺村と称するようになったといわれます。
現在の埼玉県新座市野寺の地名の由来となった寺院です。



在原業平の歌

「武蔵野の 野寺の鐘の声聞けば 遠近人ぞ 道いそぐらん」

この歌に登場する野寺にある鐘こそ、満行寺の鐘で、実は伝説に彩られたものでした。

文字で残っている伝説としては、「日本伝説叢書・北武蔵の巻」にあります。

ある村人が、とても大きなむかごのできた芋づるを見つけ、さぞかし大きなヤマノイモだろうと掘ってみると意外と小さいものでした。
村人は、そんな筈はない、もっと大きい筈だと思い、さらにに掘っていきました。
すると驚いたことに、古鐘が出てきました。
この古鐘は、満行寺の前に建っていた野寺の和尚が、兵火によって失われるのを恐れて池の中に埋めた野寺の鐘だったのです。
この野寺の鐘を沈めた 所は「鐘ヶ淵」と言われるようになりました。

ちなみに鐘ヶ淵があったとされる場所は現在、野寺園と言う釣堀になっています。

「鐘ヶ淵」にちなむ伝説はまだあります。
昔、満行寺の鐘を盗んで村民を脅かそうとした男がいました。
ところが、楼上から鐘をおろしたところで旅人が来たため、男はとっさに池の中に隠れてしまい、その拍子に鐘を紛失してしまいました。
次の日、鐘がなくなっていることに気付いた寺の小僧たちが、慌てて鐘を探しましたが結局見つかりませんでした。
その事件があってから、鐘が隠されていると言われる寺の近くの池を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになったとい伝説です。

弁慶の出てくる伝説もあります。
弁慶が野寺の鐘を京の都に持っていこうと試みました。
しかし、さすがの弁慶でも重かったため、引きずって持って行かざるをえませんでした。
そのため、京に着いた時には、鐘の突起がなくなっていたという伝説です。



この鐘については、「新編武蔵風土記稿」にも以下のような記述もあります。

「是も鐘の名所なりといふ、此鐘いにしへ國のみだれによりて、土のそこにうづみけるとなん、其ままほりいださざりければ、おとに聞野寺を問へば跡ふりて、こたふる鐘もなき夕哉」




観光地ではありませんが、これだけ伝説に包まれた寺院であれば、わざわざ訪れてみるのも良いのではないでしょうか。
その際に米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットをぜひお供に!
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ちなみに満行寺の向かい側が武野神社です。
 → 武野神社を骨で聴く



用賀駅を骨で聴く

2016-01-22 17:22:32 | 骨で聴く鉄道駅
東京急行電鉄田園都市線の用賀駅に米軍採用・特許技術の骨伝導イヤホン・マイクとともに降り立ちました。

地下駅ですが、駅舎の代わりに特徴的な入口があります。
また、駅の構造は複雑で、地上の道路の形状に合わせてホームがカーブする部分に設置されていたり、上りホームの非常口からは直接地上に、また下りホームの非常口からは南口につながる地下通路に出られるようになっています。

現在は田園都市線ですが、以前は新玉川線という名称でした。
さらにその前、1969年までは東急玉川線(玉電)の用賀停留所でした。現在の上りホーム先端付近の地上に相当する場所です。
この区間は専用軌道でした。そのため上りホームには出札窓口を備えた駅舎もあり、上下ホームの間には構内踏切もありました。
路面電車のイメージの強い玉電ですが、実は用賀停留所については駅らしい雰囲気があったといえます。



現在の用賀駅に直結する世田谷ビジネススクエアは車両基地が建設されることなくなったため、その跡地にできたようです。
また地下駅でありながらも用賀駅バスターミナルもあり、都内の地下駅というより、私鉄の駅がたまたま地下にあるといった雰囲気といえます。

乗降客もそれなりに多い駅なのでラッシュ時には人であふれます。
喧噪の中、スマホで電話するには骨伝導イヤホン・マイクが最適です。
見た目は単なるイヤホンでも、骨伝導マイクによりそのまま口元に何もなくての通話が可能です。
用賀駅には似合う米軍採用の世界最先端技術です。

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同じ東急でも東横線とは全く異なる歴史と雰囲気を持った田園都市線の中でも、用賀駅は少しだけ異質な感じがするのはまだまだこれから発展する街だからなのでしょうか。分かりません。

武野神社を骨で聴く

2016-01-21 16:51:29 | 骨で聴く巡礼旅
埼玉県新座市野寺という場所は、東京都の西東京市に隣接しています。
新座市の中心部より都内にある西武池袋線の駅との繋がりが多く、生活圏としては都内という印象です。
しかしそんな新座市野寺ですが、八幡山と呼ばれる丘陵の山上に祀られた神社が、なかなか荘厳な雰囲気を持っています。

丘陵の崖下に旧別当満行寺があり、かつては、『風土記稿』によると「その比は七堂伽藍甍をつらね、鎮守正八幡宮又白山権現・稲荷・富士浅間辨天以下三十余座の末社及び三百所の坊中僧侶充満して、念誦の聲断ざりしとぞ」と記しているほどの規模でした。

八幡山の麓から湧き出る清水があり、この水のおかげで周囲一帯の耕地が潤されたことが想像されます。
そんなことから耕地の安泰を願って水源のあるこの山上に祀られたと推測されています。

残念ながら訪れたときは残雪の影響で確認できなかたのですが、落差10mくらいの崖地の下に湧水の池があるようです。
池から出た清水は、環状に弁天堂を取り囲み水の女神を守っています。



江戸時代初期の「正保の絵図」にも、八幡社参道下の湧き水とそこに祀られる辨天社が掲載されています。

さて、この武野神社ですが、比較的新しく明治41年に、栗原村の浅間社、石神村の氷川社など近郷の五社を、野寺村の八幡社と合祀して新たに建立された神社です。



江戸時代の絵図に掲載されているのに、なぜ明治に建立か、といえば、もともとこの地は、古くは誉田別命を祭神とする八幡社の社地でした。従って八幡社は鎮座いしていたことになります。
ただこの創建年代は不詳で、江戸幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』では、社殿の修復を平安時代の康平6年(1063年)におこなったと記されていますから、かなりの古い歴史があるのは間違いないでしょう。





境内には男坂と女坂もあり、斜面に鎮座する神社らしい雰囲気が漂っています。

社伝によると、永承6年(1051年)に起った前九年の役に、八幡太郎義家は父の頼義に従って阿部氏の反乱を鎮めるために奥州に向かった際、その途中でここへ立ち寄って戦勝を祈願したとあります。
源氏の八幡信仰と関係して、関東ではよくある伝説です。
八幡太郎義家は祈願したあと、社殿を再建して北向きとしたといいます。




寛永15年(1638年)にも社殿を再建しています。このときに名主の村田善左衛門が銅板の棟札を寄進したといいます。
宝暦8年(1758年)には地頭の小野佐渡守が社殿の造営を行ったといいます。



井の頭通りから北上する道路が、このすぐ近くまで開通しました。
新宿線と池袋線の二つの西武線をトンネルで潜り、三鷹方面から新座方面に向かうのには、開通前とは比較にならないほど時間短縮できるようになった道路です。

その一方で、これだけの歴史と雰囲気を持った神社が続いているのが何ともうれしくなります。
骨で聴きます。

米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドホンを使って、周囲の音声を耳だけでなく骨からも聞きます。
癒し効果です。

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神明氷川神社を骨で聴く

2016-01-15 11:44:22 | 骨で聴く巡礼旅
米軍採用・特許技術を誇る骨伝導専門メーカーのテムコジャパンは杉並区にあります。
その本社ビルの前を東西に延びる通りが方南通りです。この通りを東に進むと中野区に入り、中野通りの交差点を超えた先、左手に少し住宅街に入った場所に、神明氷川神社が鎮座しています。

この地域は昔、雑色村といいましたが、以前に訪れた多田神社と共にこの地の鎮守社でした。

  → 中野・多田神社を骨で聴く

この神明氷川神社は、文明元年(1468年)太田道灌が江戸城鎮護のため武蔵大宮氷川神社より勧請したといいます。
毎年祭日には、太田家より玉串を捧げられていたといいます。



境内には伊藤金左衛門像があります。
昭和34年の樽谷清太郎勤作だそうですが、一般には知名度はないでしょう。何でも府議会議員などを歴任した中野の名士だそうです。



また、百度石もあります。
一般にお百度参りとは、願いを叶えてもらおうとする仏さまや神さまに、100回お参りして祈願することをいいます。
通常は、参道の入口から本堂までの間を往復しますが、この百度石があればそこを基点として本堂までを往復することになります。



ここは小学校と隣接していて、下校時間に訪れると子供たちの声がよく聞こえます。
世界最先端の骨伝導技術を誇る本社の延長線のような場所に鎮座していますから、ここは敬意を表して子供たちの声も含めて骨で聴きます。
耳だけでなく骨から脳に伝わる感覚が、この神社の何ともいえない落ち着いた感じを演出します。

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練馬大鳥神社を骨で聴く

2016-01-14 11:10:15 | 骨で聴く巡礼旅
練馬では酉の市で賑わう大鳥神社ですが、小さな街中の神社とは思えないほど、新年も初詣の人が多く訪れます。

広徳寺や東神社に続いて練馬への訪問です。

実はこの大鳥神社が鎮座している場所は、東神社のすぐ隣に位置します。
(→ 東神社を骨で聴く

社伝による伝説があります。
正保2年(1645年)、中荒井村に三羽の鶴が飛来し、村人は瑞祥なりと歓喜して保護しました。
しかし、開村の旧家森田文庵の邸内で死んでしまいます。そこで村人は鶴は霊鳥なので小祠を造りその霊を祀ることにしました。
これがのちに社殿を建立することになり、その際に和泉国堺の一の宮・大鳥神社の分神を勧請し、合祀しました。
これが練馬の大鳥神社の起源であるといわれています。

近隣の人々の崇敬が篤く、現在でも11月の酉の市は大変賑わっています。




境内は狭く、商店街の一角にある場所柄、それほどの雰囲気は漂っていません。
ただ注目すべきものがあります。
石造の薬師如来の小祠です。

舟形光背浮彫の座像で、「安永5年6月16日、矢嶋源八造」の陰刻があります。
もともとこの石薬師如来は、現在の豊玉北5-23の往来に面した場所にあったようです。方角と距離でいえば、南へ約500mになります。したがって、直接この大鳥神社とは関係ないといえます。ただ不思議なのは、いつ頃この境内に移って来たかは不明だというのです。

薬師如来信仰は古くからあり、万病を治癒し、延命を願うものです。特に目の病に効があるといわれ、大鳥神社の境内でも香華が絶えません。

そんな大鳥神社の米軍採用・特許技術の骨伝導音声増幅器を持ち込みました。
装着して感じるのは、集音マイクの方向から聞こえるかすかな喧噪です。指向性があるため、補聴器のように周囲すべての音声をひろいません。練馬駅に近いことから、雑踏もあり、その生活感はこの神域の活力を感じます。
むしろ骨伝導機器でいえば、携帯電話などで騒音の中でも聞こえる、あるいは雑音を発信しない骨伝導ヘッドセットや、骨伝導イヤホンマイクのほうがお似合いの場所といえます。

そんな世界最先端の骨伝導機器ですが、いよいよ9周年記念キャンペーンも大詰めです。
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円満山広徳寺を骨で聴く

2016-01-13 12:47:39 | 骨で聴く巡礼旅
東京の練馬区桜台の住宅街にありながら、そこだけ異質な空気を漂わせている寺院があります。
広徳寺です。

臨済宗大徳寺派で、箱根湯本早雲寺の子院として建立されました。
元亀、天正の時代、(1570年-1592年)だといわれています。場所は現在の神奈川県小田原市でした。
天正18年(1590年)、徳川家康に招かれ、神田昌平橋の内に建立された際、広徳寺と称するようになりました。
寛永12年(1635年)、下谷へ移転し、江戸時代には「ビックリ下谷の広徳寺…」といわれるほどの隆盛を誇りました。塔頭15院を擁すほどの巨大寺院でしたが、明治維新後に衰退していきます。
関東大震災後には、区画整理の関係で現在の練馬区桜台に移転をはじめ、昭和53年に完全に移転が完了しました。
移転前の下谷には、徳雲院、宋雲院の2院が現存しています。




開山は北条氏政の子である岩槻城主・太田氏房が明叟和尚を小田原に招いたことによるもので、小田原城が落城したとき(1590年)に焼失したと伝えられています。




現在の境内は都内にあるとは思えないほどの雰囲気を持っています。
石神井川に沿った高台に位置し、まるで山奥のような雰囲気もあります。ナラやケヤキ、松の樹木のほか、竹林に見事に茂っています。
禅寺としてまさに最適な環境で、静寂そのものの環境です。



本堂の裏には広徳寺共葬墓地があります。
剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳(十兵衛)父子の墓、徳川将軍家の茶道指南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓の墓をはじめ、会津藩主・松平氏、柏原藩・織田氏、阿波藩・蜂須賀氏らの旧大名の墓石もあります。

その他にも、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂、江戸時代の詩人・菊池五山、菊池秋峯、大内熊耳などの墓所もあります。



禅の修行場でもあるからでしょうか、広徳寺境内は参詣謝絶となっています。

そんな広徳寺を骨で聴きます。
米軍採用・特許技術の骨伝導ヘッドセットを使い、禅の修行場の静寂を耳だけでなく骨からも聞きます。
都会の住宅街で異質な空間を堪能できます。

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東神社を骨で聴く

2016-01-12 11:53:50 | 骨で聴く巡礼旅
1912年(大正元年)に設立した神社なので、歴史があるわけではありませんが、知る人ぞ知る神社です。
教派神道の一派である神道枎桑教に属する神社で、名称が東神社です。
「冨士講」を「冨士一山教会」に統合し、1882年(明治15年)に教派名を「神道枎桑教」と命名して誕生しました。

練馬の街中に鎮座しています。
1912年、皇居の北西(戌亥)の方位にあたる現在の東京の練馬にある豊玉の地に、天津神の天照大御神と、国津神の八大龍神を奉戴し鎮座したといいます。




町の鎮守様というわけではなく、街中にあるからといってよく目にする神社ではありません。
日本古来の神道が本来的に受け継いできた鎮魂のお伝えを実践していくのが目的で、東神社のページから引用させていただくと、「『言霊』と『中今』と『鎮魂』をキーワードに、人間が自ら心を開放し、魂を調え発揮する方法として、古来より伝承されてきた鎮魂作法と神道の本来のあり方を、志ある方にお伝えしています」とのことです。

何といってもここではお水取りです。
特に金融関係に不思議な霊験があると有名でなのです。

境内の中央に『開運出世金融祈願』の石塔があります。この石塔は東西南北の方向によって文字が刻まれています。この塔の頭部から天明神水が流れています。この水は飲料も出来るようです。

とにかく不思議な雰囲気です。

祭神は天照大御神と八大龍神です。
八大龍神とは霊峰富士山を本宮として鎮座する、「神仏両道」に通じる守護神で、仏法の法華経では八大龍王とも称し、釈尊の眷属として無限なる力を発揮する守護神だそうです。



練馬の喧噪から少し離れ、異世界を体感できるのは間違いありません。
いつものように世界最先端技術がつまった骨伝導機器でこの異空間を骨で聴きました。

下北沢ルルドの泉を骨で聴く

2016-01-06 14:47:10 | 骨で聴く巡礼旅
世田谷区の下北沢で意外な穴場ともいうべき聖地へと向かいました。
下北沢カトリック教会にあるルルドの泉です。

場所はスズナリ劇場の裏側に位置します。
ところでスズナリ劇場といえば、小劇場演劇専用の劇場で、本多一夫の意志により、自宅近くのアパート「すずなり荘」の2階部分を改築することで、自身が主催する俳優養成所「本多スタジオ」の稽古場として誕生しました。本多劇場グループ系列で最初の劇場になります。
現在、下北沢が「演劇の街」とも呼ばれていますが、その起源となったのが、この歴史的なスズナリ劇場です。

そんな劇場のまさに裏手にカトリック教会はあります。
道路側から見ると、どこにでもある教会のようですが、坂を上り、裏庭に出るとそこは別世界です。





1858年2月11日、フランスのルルド村の少女・ベルナデッタ・スビルー(ベルナデット・当時14歳)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、聖母マリアが出現しました。
ベルナデッタは目の前に現れた若い婦人聖母とは思っていませんでしたが、この出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始めるようになりました。

聖母はベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言いました。
近くに水が無かったため、近くの川へ行こうとしたとことろ、聖母が洞窟の岩の下の方へ行くように指差しました。
そこは泥水が少し湧いている場所でしたが、次第にそれは清水になって飲めるようになりました。これがルルドの泉の始まりです。のちにその泉の水は病を癒やすと評判になっていきました。




下北沢のカトリック教会には、このフランスのルルドの泉を再現したような場所があります。
喧噪の下北沢の街中に隣接する場所です。ここに足を踏み入れるだけで異空間にさまよい込んだ気分になります。
何ともいえない荘厳さです。



再現されたルルドの泉ですが、実は洞窟に泉はありません。
それでも下北沢に突然現れたこの空間は、わざわざ見に行くだけの価値があります。

今回も骨伝導巡礼として、音声増幅器のきくちゃんと骨伝導ヘッドホンをお供にしました。この不思議な空間を骨で聴きます。
集音マイクでとらえる音声は街のものです。それもごくかすかです。
しかし、耳だけでなく骨から聞こえる音声には、なぜか聖母の声が届いてきそうな気分にもなります。

米軍採用・特許技術の骨伝導機器の威力をルルドの泉で感じます。
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少林山達磨寺を骨で聴く

2016-01-04 11:56:51 | 骨で聴く巡礼旅
「鉄のモニュメント」(1910年)、「ガラスの家」(1914年)などの作品で世界的評価を受けた表現主義の建築家・都市計画家ブルーノ・タウトのデスマスクが眠る少林山達磨寺。

世間一般では七草大祭だるま市で知られ、テレビの中継もこのときに集中する寺院です。
しかし、ブルーノ・タウトの逸話や、その歴史など、実はかなり興味深い場所でもあります。
新年最初の骨で聴く巡礼旅は、この少林山達磨寺からスタートします。

ブルーノ・タウトといえば、桂離宮を世界に広めた最初の建築家としても知られ、当初は京都、次に仙台で日本での仕事をしていましたが、井上房一郎の招きにより、高崎市に移りました。
この期間が約2年間で、達磨寺境内の洗心亭で過ごしていました。ここでは、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かした作品を発表したり、東京・銀座の工芸品の店「ミラテス」で販売を始めたりしました。日本橋の丸善本店と大阪大丸では「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」の開催もありました。

しかし本来の建築家としての仕事では、日本国内ではあまり恵まれませんでした。
1936年、トルコからイスタンブール芸術アカデミー建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、建築の仕事が出来るということで日本を離れることになりました。

送別会の挨拶でタウトはこう言ったといわれます。

「私はもはや健康ではない、再び日本に帰ることはできないだろう。日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」

イスタンブールでは日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍しましたが、1938年、気管支喘息のため死去しました。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られましたが、タウトの遺志を果たすため、翌年9月15日にデスマスクを少林山に納めました。



タウトが滞在していた洗心亭には碑があります。

「Ich libe die Japnische Kultur」

さて、この達磨寺ですが、かつては前橋藩酒井公の領地でした。その時代には観音を祀る草葺きの小さなお堂があっただけでした。
十一面観世音菩薩像で、行基の作といわれ、厄除け・安産・子授けなどに御利益があるとされていました。そのため、小さなお堂だけしかないにも関わらず、参拝者が絶えなかったようです。

延宝年間(1673―1680年)、このお堂の前を流れる碓井川が氾濫し、大洪水となりました。
水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけ、不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみました。

すると、奇異な形の黒光りする大きな古木であることが分かり、引き上げてみると、お香のような良い香りまでしました。
これを霊木として観音堂に奉納しておきました。

延宝8年(1680年)の春、この地に一了という老行者がやってきました。
村人がここに来た訳を尋ねると、一了は不思議な夢の話をしました。

それによると、ある時、達磨大師が夢枕に立たれて言われたそうです。

「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい」

鼻高というのは、当時の村の名前です。
一了はこの夢のお告げの通りにここへ来たというので、村人はすぐにあの霊木だと気がつきました。すぐに観音堂に案内しました。
一了は感激し、沐浴して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地の拝礼を三度する、一刀三礼という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。

完成した達磨像を観音像と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりませんでした。
そんな時、碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れついたので、村人達はまた観音堂に運びました。
一了は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。

村人達は

達磨大師が鼻高に現れた! 

と噂をするようになりました。
そのため、達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたりました。

「活然大師(達磨大師)出現の霊地」

といわれるようになり、村の人達が「少林山」と呼ぶようになったそうです。

当時の前橋藩では第5代藩主・酒井雅楽頭忠拳でしたが、たまたま領地巡見の際にこの霊勝を知り、少林山の達磨像に参拝し、ついにここに寺を建てることを発願しました。
厩橋城(前橋城)から見て裏鬼門の方位に位置していることから、まさに絶好の場所でした。

しかし、幕府の方針で新しく寺院を建立することは厳しい規制がありました。
そこで酒井雅楽頭忠拳は、宗教政策を進めていた徳川光圀、いわゆる水戸黄門に進言することにしました。
その結果、水戸の天徳寺(後の祇園寺)で曹洞宗寿昌派を興した中国からの渡来僧・心越興儔禅師を少林山に迎え、禅の道場を開くことにしました。

ところがそう簡単には実現できませんでした。
元禄7年、心越禅師は病に倒れ、翌8年に遷化されてしまいました。
そこで、元禄10年に心越禅師の法嗣で高弟の誉れ高い天湫和尚を向かえ、「少林山達磨精舎」と名付けました。名目上は、寺院ではなく、禅の道場として開創したのです。

そのため草創の頃は「少林山達磨寺」という名称は使えず「少林山達磨精舎」「少林山達磨禅窟」「少林山達磨禅刹」などと称していました。

中国曹洞宗の流れの道場として建てられた関係で、今でも日本的寺院という雰囲気ではなく、中国的な雰囲気が保たれています。

享保16年(1731年)長年の念願であった寺院に昇格することができました。
今でもありそうな裏技で、それが実現できたのです。
そのからくりとは、現在の高崎市箕郷町富岡にある長純寺の末寺・鳳台院の伽藍が川の氾濫で倒壊し、境内地も押し流されてなくなってしまいました。このときに水戸の祇園寺の進言で、その名義を譲り受けるようにしたのです。
この離れ業により少林山鳳台院達磨寺となりましたが、のちに現在の少林山達磨寺となりました。
宗教法人が売買される現代と共通するような逸話といえるかもしれませんが、達磨寺の場合は、そのおかげで名実ともに寺院となれたことは歴史的に意味のあることといえます。



達磨寺の境内で最も古いのが観音堂です。
開創のころは黄檗鉄眼版の一切蔵経を納めた「無尽法蔵」という名称の経蔵で、寛政4年(1792年)に大改修が行われ、開山・心越禅師が中国より奉持された尊星板梓と北辰鎮宅霊符尊をお祀りする霊符堂となりました。
古びた感じがなかなかの雰囲気を出しています。

この達磨寺は黄檗宗です。
インゲン豆でおなじみの隠元禅師によって開かれ、本山は黄檗山万福寺です。全国に450ヶ寺の末寺があるといわれますが、同じ禅宗でも臨済宗や曹洞宗と異なり、あまり馴染みがないかもしれません。

そんな達磨寺を骨で聴きます。
初詣客で賑わう境内で、中国風の銅鑼の音が響きます。
耳だけでなく骨からも脳に伝えることで、この寺院の歴史やブルーノ・タウトのことも考えてみるのも良い気がします。

また高齢者の参拝には安全性も含めて骨伝導音声増幅器のきくちゃんの活用もおすすめです。
人込みの中でスマホで通話するなら、耳に入れるだけの簡単装着・骨伝導イヤーマイクEM21もおすすめです。

少林山達磨寺、ぜひ骨伝導機器とともに訪れてください。