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西伊豆の土肥金山です。
伊豆半島には、土肥金山だけでなく縄地金山等の金山がいくつかあり、佐渡金山と並んで徳川幕府の草創期を財政面で支えていました。
ただ、土肥金山の発見についてははっきりと分かっていないそうです。
一説では天正5年(1577年)、北条氏の配下・富永三郎左右衛門政家の手代・市川喜三郎が土肥大横谷・日向洞・柿山・鍛冶山・楠山などで本格的な金山の開発を行ったのが始まりとされています。
天正18年(1590年)に北条氏が滅亡すると、その後は関東に移封された徳川家康の領地となりました。
慶長11年(1606年)には甲斐の国出身の大久保長安が伊豆金山奉行に任じられました。大久保長安の功績は大きく、彼の導入した新技術で金銀の生産高が飛躍的に伸ばすことに成功しました。
この時代が土肥金山の第1期黄金時代といえるかもしれません。
なぜなら、慶長18年(1613年)に大久保長安の没すると、金山は急速に衰え、ついに宝永2年(1625年)に休山してしまったのです。
では、この大久保長安とは何者だったかというと、もともとは武田氏の猿楽師・大蔵太夫新蔵の次子で、幼名を藤十郎と称したようです。武田氏滅亡後、父の跡を継ぎ、猿楽衆・金春太夫として徳川家康に仕えました。
そこで家康に認められたことにより、家康の重臣・大久保忠隣の側臣にまで出世しました。さらに大久保の姓まで許されることになり、大久保十兵衛長安と名乗ることになったのです。
さらに慶長8年(1603年)には従五位下に叙せられ、石見守を授けられました。
大久保長安は鉱山の知識が豊富でしたが、これは宣教師を通じて学んだといわれています。アマルガム法などの当時としては最新の製錬や採掘技術を駆使し、土肥金山の発展に大いに貢献したのです。
第2期黄金期は明治39年(1906年)、神戸の実業家・長谷川五郎に始まりました。長谷川五郎は外国の技術者を招き、探鉱を行いました。
大正6年(1917年)には土肥金山株式会社に設立し、金銀の高品位鉱を重点的に採掘していきました。
しかし昭和6年(1931年)、長谷川五郎が亡くなると、住友鉱業株式会社の傘下に入ることになり、土肥鉱業株式会社として昭和22年(1947年)までその系列下で活動することとなりました。
系列を離れてからは周辺探鉱にも力を入れましたが、生産量は次第に減少していくことを抑えられませんでした。そこで昭和34年(1959年)には三菱金属株式会社が経営に参画することとなりました。
しかしながら、金山としては高品位鉱の枯渇という問題があり、外的要因として金価格の暴落が訪れ、この三菱金属時代も長く続かず、ついに昭和38年(1963年)に採掘を中止し、翌年の昭和40年(1965年)に閉山に至りました。
閉山から7年後の昭和47年(1972年)、土肥鉱業は、土肥マリン観光株式会社と改名し、観光事業として再出発することtなりました。今では土肥温泉への旅行客にはおなじみの定番スポットとなりました。
金山の歴史を見ると、現代ビジネスの商品ライフサイクルが思い浮かびます。
そのためにもこの歴史の流れは大いに意味があるといえるでしょう。
営業利益を簡単に上げる方法はありますが、ライフサイクルとの関連まで考慮に入れないと、場当たり的な手当てになるかもしれません。それでもまずは利益を上げてください。
まずは超簡単な利益創出法 そして骨で聴きます。骨伝導も金山との関係で見ると興味深いものがありそうです。