骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

西伊豆・旧戸田村を骨で聴く

2008-07-31 11:00:19 | 骨で聴く癒しの世界

 戸田と書いて「ヘダ」と読む静岡県田方郡戸田村は、2005年に隣の沼津市と合併して村が消滅しました。この読み方は近くにある部田神社に由来しているといわれています。

 人口が約3,800人、面積34.92 km²の駿河湾に面する漁村は、伊豆では新しい(1986年)温泉が湧き出しています。泉質は、ナトリウム・カルシウム-硫酸塩泉で、源泉温度は52℃という立派な温泉です。しかし歴史のないことと、交通の不便さから伊豆ではマイナーな温泉といえるでしょう。

 むしろ戸田の代名詞といえば世界最大の現生節足動物であるタカアシガニといえるかもしれません。大正初期の頃から底引き網漁でタカアシガニが水揚げされていましたが、当時は見向きもされていませんでした。それを1960年、戸田村の地元旅館主人が「タカアシガニ料理」を始め、名物となったという経緯があります。

 こんな西伊豆の旧戸田村を散策しました。
 写真はタカアシガニ料理を堪能した店から、何でもない路地に入った場所で撮影しました。珍しい光景も風光明媚なものも何もありません。

 でも、この画像が戸田村のイメージに繋がります。不思議なものです。
 消滅した村は都市の一地域となりましたが、生活に大きな変化があるわけではありません。昔からある日常が繰り返されているのです。
 一瞬でムダを利益に変えている仕事をしていると、変わらないもの、変える意味のないものに惹かれている自分に気づきます。だから何の変哲もない写真が重要なものに思えてきたのかもしれません。

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 そして耳ではなく骨から聴く村の音も影響します。骨伝導は新たな側面を見せてくれるようです。

                 

リザン・シーパークを骨で聴く

2008-07-30 11:28:43 | 骨で聴く癒しの世界


 沖縄県恩納村の谷茶にホテルを新築するときのことです。
 インドの神・シェリ・グル・ナーナク・デヴ帰依者である聖グルムク・シンが、「愛と犠牲の人生を生きた無名の偉人の名を冠すべし」と言われました。
 そこで琉球王国時代の三司官・謝名親方利山(シャナウェカタリザン)にちなみ、リザン・シーパークと名づけられたそうです。

 現在、エメラルドグリーンの海に面したプライベートビーチを持つ巨大なリゾートホテルとして、国内だけでなくアジア各国からも旅行者が集まります。

 利益創出の日常から少し離れ、リラックスの時間です。

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 そして波の音を骨で聴き、朝日の光を浴びます。

                                 


残波岬を骨で聴く

2008-07-29 10:38:58 | 骨で聴く巡礼旅

 残波岬は、沖縄県の読谷村の北端に突き出た岬です。
 高さおよそ30mほどの断崖絶壁が続いています。その長さは約2kmにわたります。雄大な景観ですが、暗い海と違い、青く広がる海も背景から、優雅させ感じます。
 青い空を背景にすれば、白亜の灯台との配色は絶妙になります。ここはまた東シナ海に沈む夕日の名所としても知られていますが、残念ながら訪れたのは晴天の午後のため、夕日の素晴らしさを目にできませんでした。

 この灯台は、1974年(昭和49)3月30日に設置されました。白色塔形(円形)コンクリート造りで、高さは30.61m、平均海面から灯火までが40.03mの巨大なものです。大人150円、小人20円で上まで登ることができますが、当然エレベーターはありません。粟国島、渡名喜島、久米島などを望むことも可能なようです。

 周辺にはアダン群落やクサベトラ群落などの亜熱帯植物群落も見られます。
 断崖から磯釣りをする人もかなりいます。またダイビングでも人気スポットのようです。

 しかし1945年太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍は残波岬を目印に読谷海岸に上陸した歴史もあります。暗い歴史の1ページも担っている場所なのです。

 歴史の音と観光スポットとしての歓喜の声が、骨を通して交差します。複雑な音色です。ここは骨伝導巡礼の旅路に組み入れようと思いました。

 灯台の手前にある巨大なシーサーに戻り、「残波岬いこいの広場」の遊具、自転車、レストラン、売店、バーベキューなどの設備を見ながら漠然と考えます。日常のビジネスでの利益拡大と、骨で聴く歴史と観光が、大自然の中でどんな意味があるのか?

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水牛を骨で聴く

2008-07-28 15:25:55 | 骨で聴くビジネス

 沖縄ではお茶うけとして黒糖が昔から好まれています。
 それは原料であるサトウキビの生産と関係しているからでしょう。

 サトウキビの汁を煮詰め、石灰をくわえ、固めます。単純ですがこれでミネラルが豊富に含まれた甘いお菓子に出来上がるのです。

 サトウキビの汁を搾るのに、以前は水牛にひかせていたようです。
 昔の製糖のようすを復元している琉球村で、そんな水牛に会いました。
 水牛は力づよい動きをします。角もあるせいか迫力満点ですが、とてもやさしい目をしています。

 水牛は比較的粗末な食べ物で成長し、一般的な牛よりも沼地での行動にも適応しています。そのためアジア各国で耕運機代わりの労働力として水田で見かけることがあります。
 沖縄ではサトウキビの汁を搾るだけでなく、由布島や竹富島では観光用に水牛車として用いられています。

 まさに「エコ」であり、家畜本来の役目をしていることが分かります。
 労働力として、また動力の代わりとして、改めて水牛を見直したくなります。

 最先端のビジネスもこの視点は重要かもしれません。

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首里城を骨で聴く

2008-07-24 11:00:35 | 骨で聴く巡礼旅

 琉球王朝最大のグスク(城)が首里城です。
 創建年代は明らかではないものの、最近の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定されたそうです。14世紀といえば、本州では鎌倉時代末期から南北朝、室町時代と続く『太平記』の時代に相当します。
 

 日本の城というよりも中国のイメージが湧いてきます。門や各種の建築物が朱塗りされているせいかもしれません。

 一番有名な「守礼門」などは、城内に入る前に完全な異国情緒で出迎えてくれるようです。ちなみに「守礼門」とは、そこに掲げられた扁額の「守禮之邦」からきている俗称のことで、本来は「上の綾門」というのだそうです。

 城壁も本州の城とは異なりますが、琉球王朝そのものは戦乱に明け暮れたわけではなく、聖域を守る意味もあったのかもしれません。

 城であり、王宮であり、信仰対象の聖地でもあった首里城は、沖縄の歴史に燦然と輝く場所だといえるでしょう。骨で聴く場所としては最適です。

 また、首里城周辺は那覇市内を見下ろす高台になっていて、南国の光が情け容赦なく射してきます。みやげ物売り場も観光客相手の食堂もエアコン全開です。
 地球温暖化防止だけでなく不況の今、空調のコストを下げたいものです。

 
                          


秘湯の自噴泉を骨で聴く

2008-07-22 18:22:33 | 骨で聴く癒しの世界

 福島県の秘湯・二岐温泉へ行きました。
 ここでは何といっても、源泉が湧き出しているところが、そのまま浴槽になっている、極めて貴重な自噴泉に入りました。熱めの湯でしたが、源泉の鮮度がこれ以上ないほどでの極上で、足のむくみなど一発でとれた気分です。

 携帯電話も圏外になるような山奥の温泉は、泉質だけでなく雰囲気も最高に二重丸。東京からはるばる行った価値がありました。

 湯治客が多いのも頷ける秘湯は、貴重な自然と文化の遺産です。
 
 利益創出のための打ち合わせで訪れたのですが、温泉も堪能して、骨でも聴いて、とにかく最高なのです。

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 次回も行くことになりそうです。
 きちんとした仕事をしたいと思います。

                       

桜海老かき揚げ天丼を骨で聴く

2008-07-10 11:39:53 | 骨で聴く体験記

 駿河湾の特産であるサクラエビをかき揚げにした天丼を食べました。味噌汁と漬物がついて1,300円でした。

 場所は三島で、三島駅南口から西へ少し歩いた場所の店でした。駐車場から近かったので、何気なく入って食べたのですが、さすが特産品のサクラエビだと思って、超感激でした。

 うまい。

 うまさにコトバはいりません。
 グルメレポーターではないので、これで十分な気がします。
 この食感を骨で聴くことはもちろん、味の堪能もすべてです。

 三島へはコストの削減コンサルタントで行きました。一瞬で年間70万円の営業利益を創出して、とりあえず次のステップです。
 こんな状況で食べるサクラエビこそ、駿河湾からの贈り物です。

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恩納村を骨で聴く

2008-07-04 11:04:05 | 骨で聴く癒しの世界


 沖縄県の恩納村に滞在しています。
 さすがに日差しが眩しく、日本屈指のリゾート地にいることを実感させられます。

 西暦2000年の九州・沖縄サミットの際、当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンや、ロシアのプーチン大統領などが滞在した村です。

 村としての人口は1万人にも満たないほどで、決して大きな自治体ではありませんが、大型のリゾート関連施設が林立し、村とは思えない雰囲気があります。

 久しぶりに南国気分を満喫し、癒しの空間を堪能しています。
 海と空の青さに脳波を刺激する波の音が、ビジネスの戦場からひとときだけ開放してくれます。コストの削減による営業利益創出方法も、今日だけは休息です。

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 骨で聴く癒しの世界は、こんなリゾート地では百倍のパワーを発揮しています。

                      


土肥金山を骨で聴く

2008-07-01 14:39:33 | 骨で聴くビジネス

  西伊豆の土肥金山です。

 伊豆半島には、土肥金山だけでなく縄地金山等の金山がいくつかあり、佐渡金山と並んで徳川幕府の草創期を財政面で支えていました。

 ただ、土肥金山の発見についてははっきりと分かっていないそうです。
 一説では天正5年(1577年)、北条氏の配下・富永三郎左右衛門政家の手代・市川喜三郎が土肥大横谷・日向洞・柿山・鍛冶山・楠山などで本格的な金山の開発を行ったのが始まりとされています。
 天正18年(1590年)に北条氏が滅亡すると、その後は関東に移封された徳川家康の領地となりました。
 慶長11年(1606年)には甲斐の国出身の大久保長安が伊豆金山奉行に任じられました。大久保長安の功績は大きく、彼の導入した新技術で金銀の生産高が飛躍的に伸ばすことに成功しました。
 この時代が土肥金山の第1期黄金時代といえるかもしれません。
 なぜなら、慶長18年(1613年)に大久保長安の没すると、金山は急速に衰え、ついに宝永2年(1625年)に休山してしまったのです。

 では、この大久保長安とは何者だったかというと、もともとは武田氏の猿楽師・大蔵太夫新蔵の次子で、幼名を藤十郎と称したようです。武田氏滅亡後、父の跡を継ぎ、猿楽衆・金春太夫として徳川家康に仕えました。
 そこで家康に認められたことにより、家康の重臣・大久保忠隣の側臣にまで出世しました。さらに大久保の姓まで許されることになり、大久保十兵衛長安と名乗ることになったのです。
 さらに慶長8年(1603年)には従五位下に叙せられ、石見守を授けられました。

 大久保長安は鉱山の知識が豊富でしたが、これは宣教師を通じて学んだといわれています。アマルガム法などの当時としては最新の製錬や採掘技術を駆使し、土肥金山の発展に大いに貢献したのです。

 第2期黄金期は明治39年(1906年)、神戸の実業家・長谷川五郎に始まりました。長谷川五郎は外国の技術者を招き、探鉱を行いました。
 大正6年(1917年)には土肥金山株式会社に設立し、金銀の高品位鉱を重点的に採掘していきました。

 しかし昭和6年(1931年)、長谷川五郎が亡くなると、住友鉱業株式会社の傘下に入ることになり、土肥鉱業株式会社として昭和22年(1947年)までその系列下で活動することとなりました。

 系列を離れてからは周辺探鉱にも力を入れましたが、生産量は次第に減少していくことを抑えられませんでした。そこで昭和34年(1959年)には三菱金属株式会社が経営に参画することとなりました。
 しかしながら、金山としては高品位鉱の枯渇という問題があり、外的要因として金価格の暴落が訪れ、この三菱金属時代も長く続かず、ついに昭和38年(1963年)に採掘を中止し、翌年の昭和40年(1965年)に閉山に至りました。

 閉山から7年後の昭和47年(1972年)、土肥鉱業は、土肥マリン観光株式会社と改名し、観光事業として再出発することtなりました。今では土肥温泉への旅行客にはおなじみの定番スポットとなりました。

 金山の歴史を見ると、現代ビジネスの商品ライフサイクルが思い浮かびます。
 そのためにもこの歴史の流れは大いに意味があるといえるでしょう。

 営業利益を簡単に上げる方法はありますが、ライフサイクルとの関連まで考慮に入れないと、場当たり的な手当てになるかもしれません。それでもまずは利益を上げてください。

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 そして骨で聴きます。骨伝導も金山との関係で見ると興味深いものがありそうです。