骨で聴く異世界

耳を使わずに「聴く」世界を旅します。耳をふさいでいても聴こえる世界です。

高麗神社を骨で聴く(第2回・参拝編)

2013-08-30 10:21:21 | 骨で聴く体験記
前回の歴史編(→ 高麗神社を骨で聴く・第1回)に続いて、いよいよ境内へと入って行きます。もちろん旅のお供には骨伝導ヘッドセットです。

ちなみに「太王四神記(태왕사신기)」がNHKで放映されていたときには、高句麗が隆盛を極めた広開土王の物語だったことと、ペヨンジュンが出演していたことから、女性からの問いあわせと参拝客が多くなったこともあるようです。

歴史編でも述べましたが、参詣した政治家が次々に総理大臣になったという出世パワーが漲る高麗神社ですが、小泉元首相の父で、逓信大臣だった小泉又次郎氏も参拝し植樹をしていました。本人は首相にはなれませんでしたが、息子がなったのもこの神社のパワーのお陰でしょうか。

政治家だけでなく、他にも皇族、財界、学者、作家など、多くの有名人が参拝していることでも知られます。決して有名とはいえない埼玉の一神社でありながら、それだけの参拝者を集めるのは全国的に見ても珍しいことかもしれません。



境内はそれなりの広さがありますが、決して大きいわけではありません。
むしろ山の斜面を左手に見て、平坦に本殿へと続く参道は緑の葉を揺らす風が吹き抜けて心地よく感じます。

境内を抜けると国指定重要文化財の「高麗家住宅」があります。



高麗家は高麗神社の神職を代々務めてきた旧家です。
その住宅が境内の隣接地にあり、重要文化財に指定されているのです。

建築年代は、慶長年間(1896年~1615年)と伝えられ、少なくとも17世紀のものであることは確実であると指摘されています。
茅葺きの入母屋造りの平入りで、間取りは、土間と5つの部屋で構成されています。

特徴的なのは大黒柱(棟持柱)がないことです。
細い柱で梁を支えていて、桁と柱には杉、梁にはケヤキ・松が用いられています。

こんな貴重な家屋も含めて出世パワーの漲る高麗神社への参拝は価値があるものといえます。夏の終わりに出かけてみてはいかがでしょうか?

その際は、米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導ヘッドセットをぜひお忘れなく。

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乃木神社を骨で聴く

2013-08-29 12:35:43 | 骨で聴く巡礼旅
昨年訪れた乃木公園(→ 乃木公園を骨で聴く)では、神社側には行けなかったため、今年は改めて参拝に出かけました。

地下鉄乃木坂駅に直結した乃木神社は平成25年で創建90年を迎えます。
乃木夫妻が明治天皇大葬の日に、自刃した邸宅の隣地に鎮座しています。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社になています。

大正2年に当時の東京市長・阪谷芳郎男爵を会長として中央乃木会を設立されました。
乃木将軍ご夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠とすることを目的としていました。乃木邸内の小社にご夫妻の御霊をお祀りし、毎年9月には祭儀を斎行し、青少年への研修会も開催することとなりました。乃木ご夫妻の精神を永世に伝えようという活動が始まったのです。

大正8年には神社の設立申請の許可を受け、乃木邸の隣地を購入し、正式に乃木神社が誕生しました。



乃木将軍の御神徳といえば、「忠誠」です。
これは、自らに対してだけでなく、父母に、国に対して、誠を貫かれたということです。これは我々日本人が大切にしてきた精神を表しているといえます。

また、妻として乃木将軍に殉じられた静子夫人は、常に将軍の意を体して忠孝・質素・仁愛の志が厚く、内助の功を尽くされたことで知られます。そのため、世の尊崇を集め、夫婦和合の神としても祀られています。

夏が少しずつ終焉に向かっている8月下旬、乃木神社はひっそりとしていました。騒音対策としての骨伝導ヘッドセットの出番はありません。
しかし周囲の雰囲気が耳だけでなく骨からも脳へ伝えることで、骨伝導機器の威力は感じられます。

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東京の中心部で、六本木からも近い場所に鎮座しています。日本人のアイデンティティを考え直すには実にマッチした神社といえます。

フェアレディZ(S130型)を骨で聴く

2013-08-26 10:54:48 | 骨で聴く名車
昨年のS30型(フェアレディZ S30型を骨で聴く)に続いて、今年はS130型のフェアレディZを骨伝導で「聴く」ことにします。

今でも時々見かけることがあり、たまたまこの週末でも目にすることになりました。
ロングノーズ・ショートデッキスタイルを先代のS30型から継承し、見た目の印象を大幅に変えることなく、ややワイドサイズとなりました。正常進化させたスタイルといえます。

搭載されたエンジンは、2.0Lと2.8Lの日産伝統のL型エンジンでした。排出ガス規制の影響が残っていて、どちらも現在から見れば非力なエンジンといえるかもしれません。
それでも1981年のマイナーチェンジでは、2.8Lエンジンの圧縮比をアップさせ、フリクションを低減するなどの改良により10馬力ものパワーアップに成功しました。ただそれでも出力表示は155馬力で、現在の同程度の排気量のクルマからするとファミリーカー並みかそれ以下ともいえます。

ただ当時のクルマの中では別格に「速い」部類に入るクルマだったのは間違いなく、テレビドラマ『西部警察』では、ガス圧開閉式セミガルウィングウィンドウに改造された「スーパーZ」として使用されたりしました。

そしてついに翌1982年には、歴代フェアレディZとしては初めてのターボエンジンが登場します。L20ET型2.0Lターボエンジンです。
このとき、国産車初の60%扁平タイヤが装着されました。サイズは215/60R15でした。これも今ではミニバン程度のタイヤですが、当時は『超ワイドタイヤ』と呼ばれたほどでした。

何とも時代を反映する名車といえます。
そしてこれは。現在の目で単純にスペックを比較するだけでは見えない魅力を持つクルマです、当時、憧れだったという人も多いでしょうし、今、改めて運転しても結構楽しめます。旧車には馴染みのクルマです。

そんな名車の排気音を骨伝導ヘッドセットを通して聴いてみると、当時の思い出とともに色々と感慨深いものを感じさせてくれます。今回は思わぬ出会いとなりましたが、それだけに一瞬で当時の時代を蘇らせるパワーに脱帽です。


高麗神社を骨で聴く(第1回・歴史編)

2013-08-23 04:53:03 | 骨で聴く巡礼旅
かつて中国東北部南部から朝鮮半島北部に栄えた国家に高句麗がありました。
歴史の教科書以外ではあまり目にすることがなく、馴染みがあまりないかもしれませんが、この国の最盛期は5世紀の「広開土王」、「長寿王」治世の約100年間といわれ、領土も満洲南部から朝鮮半島の大部分という巨大さを誇っていました。

この時代の高句麗の強勢ぶりをうかがうことができるのは、中国吉林省集安県にある「広開土王碑」です。

当然ながら隋や唐という大国からの侵攻を受けてきました。それをことごとく撃退してきましたが、最終的には唐と新羅の遠征軍により滅亡しました。

その高句麗から日本に渡ってきた人物で、高麗王若光がいます。

若光が渡来した年代については、「日本書紀」から天智天皇称制5年(666年)10月だと推測されます。その中の記述で、高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があるからです。
「続日本紀」の文武天皇大宝3年(703年)には、「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されています。

高句麗は西暦668年に滅亡していますから、若光は滅亡前後の高句麗からの渡来人で、高句麗王族の一人だといわれれています。

その若光は、元正天皇霊亀2年(716年)に武蔵国高麗郡の首長として赴任してきました。現在の埼玉県日高市を中心とした地域です。中世以降は郡域が拡大し、日高市だけでなく、鶴ヶ島市、飯能市・川越市・入間市・狭山市のそれぞれ一部が高麗郡の範囲となっていきました。

現在は宅地化され、鉄道も整備された地域ですが、当時の高麗郡は未開の原野だったようです。
若光は、日本各地(駿河、甲斐、相模、上総・下総、常陸、下野)に移り住んだ高麗人(高句麗人)1,799人をこの地に集結させ、高麗郡の開拓に当たりました。

ちなみに、703年に高麗若光が大和朝廷から王姓が下賜されたという伝説まであります。
高麗若光が高句麗王族の一人として王姓を認められたというものです。
王姓についての真偽はともかく、高麗若光は、官位は従五位下・高麗郡大領であったのは事実です。

その若光も高麗郡で没し、高麗郡民はその徳を偲びました。
若光の御霊を「高麗明神」として祀り、高麗神社の創建となりました。

以来、高麗神社は若光の子孫が代々宮司を務めてきました。
現在の宮司は60代目とのことです。

現在の高麗神社は「出世明神」とも呼ばれるようになりました。
それは、浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが高麗神社に参拝した後に相次いで総理大臣となったことに由来します。
パワースポットとしても人気があり、年間約40万人の参拝者があるようです。

大学時代から個人的に高麗神社については、様々な思い出があり、随分と久しぶりに訪れることになりました。そこで改めて歴史について思いをはせてみました。

駐車場にクルマをとめ、境内に方に向かうと、将軍標(チャンスン)があります。これを目にするだけで懐かしさがこみ上げて来ます。
チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口の魔除けです。日本では他で目にしないせいか、高麗神社に来たという感激を味わえます。

ちなみにこの将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたもので、自分が最初に参拝に来た大学時代にはありませんでした。その後はむしろこれがシンボル的に記憶に刻み込まれてきました。

さて、今回は歴史だけで何も「骨で聴く」ことはしていません。
次回に境内を散策し、骨伝導ヘッドセットとともに高麗神社をご紹介していきます。

安房崎灯台を骨で聴く

2013-08-21 12:08:03 | 骨で聴く癒しの世界
昨年の夏に続いて三浦半島から城ヶ島に渡りました。

島の西端、長津呂崎にある城ヶ島灯台は昨年の雨の被害が多い時期に訪れました。今年は正反対の方向、東端に位置する安房崎灯台へと向かいました。やはり雨の被害が多いというニュースに溢れる時期での訪問となりました。

     ⇒ 城ヶ島灯台を骨で聴く

安房埼灯台は白亜円形の小型灯台です。
安房崎という地名も変わっていて、相模湾から浦賀水道、房総半島、つまり安房の国を望む地ということで名づけられたといわれます。ここはまさに風光明媚の地です。

周辺はゴツゴツした岩礁が発達し、夏の時期は磯遊びを楽しむ家族連れで賑わっています。カニや小魚を取ったり、タイドプール(潮溜まり)も多いことから、その中での泳いだえいすることも可能です。

この灯台の歴史は江戸時代の1646年(慶安元)にまで遡ります。
しかし、1676年(延宝6)には、安房崎灯台に代わり、島の西端の長津呂崎に灯明台を移すことになりました。城ヶ島灯台の前身で、1870年(明治3年)に城ヶ島灯台が建設されました。

戦後になり、改めて1962年(昭和37年)に安房崎灯台として設置され、初点灯したという歴史があります。

本当に小さな灯台で、三浦半島ではやはり昨年訪れた観音崎灯台とは比べようがないほどの規模です。それでも存在感はあり、むしろ小さいからこそこの風光明媚な景色に溶け込んでいるのかもしれません。

     ⇒ 観音崎灯台を骨で聴く

この時期は天候が急変することから、海へ行くのは注意が必要となっています。
携帯電話を片手にというのも磯遊びには適していないでしょうから、ハンズフリーで自動着信の骨伝導ヘッドセットHG40SAN-TBTが最適です。
耳もふさがずBluetooth(ブルートゥース)接続なので、余計なコードもありません。

海での情報に携帯電話を利用する際は、骨伝導ヘッドセットはお勧めです。

     ⇒ 耳をふさがないBluetooth接続の骨伝導ヘッドセット

小さな灯台とともに大きな夢を抱きつつ、日常のストレスを軽減できれば最高です。

鵜の木駅を骨で聴く

2013-08-09 12:27:01 | 骨で聴く鉄道駅
東急多摩川線の鵜の木駅に骨伝導ヘッドセットとともに降り立ちました。
久しぶりの多摩川線です。

2010年4月に沼部駅を訪れて以来となります。(沼部駅を骨で聴く

上下線で改札が別になっていて、改札を入ると各ホーム間の行き来できないのは沼部駅と一緒です。
ホームの長さは3両分で、現在の多摩川線は3両編成の電車しか走っていませんから問題ありません。しかし、以前はこの路線は目黒と鎌田を結ぶ目蒲線で、その時代の電車は4両編成でした。そのため、目黒寄りの1両はホームをはみ出してドアが開きませんでした。
大井町線の九品仏駅と同じでした。(九品仏駅を骨で聴く

東京法務局城南出張所の最寄り駅で、駅のすぐ傍には多摩堤通りが走っています。
地味な町の駅といった印象ですが、小規模な昔ながらの商店街、駅前にはスーパーやチェーン店、と、私鉄沿線の駅らしい貫禄はあります。

文政9年(1826年)に編纂された新編武蔵風土記稿によると、

「鵜ノ木は荏原郡の南にあり、村名の起こりは村内鵜ノ森明神の社あるによれりと土人は云えり」

と書かれています。地名の由来は神社にあることになります。
しかし、ここに書かれている明神社とは、何なのか? どこに存在したのか?

実は現在では分かっていません。

また鵜の木の地名の由来として、鵜が非常に多く住み着いていて、豊かな森が広がっていた事から自然発生的に呼ばれたともいわれています。

なかなか行く機会の少ない鵜の木の町と駅ですが、熱い太陽が照りつける中、周囲の音を骨伝導ヘッドセットで聞いてみて、不思議とのどかな気分になれます。
この街の「気」が伝説の神社に守られているのでしょうか、それとも米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導機器がそうさせているのでしょうか。

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天竜峡・弘法堂ポットホールを骨で聴く

2013-08-05 03:25:33 | 骨で聴く巡礼旅
昨年も取り上げた天竜峡へ、再び骨伝導機器とともに訪れます。

信州・伊那谷の名勝・天竜峡は、天竜川の激流により川底の岩を浸食した跡が各所に残されています。しかも川底だった場所が、はるかに見上げるような位置になっているから驚きです。

これは地殻変動で隆起したことが原因で、天竜峡では有名な龍角峯の上にあるポットホール(甌穴)も、峡谷のはるか上方に存在します。

ポットホールとして有名なのといえば、木曽の寝覚の床や埼玉の長瀞渓谷の岩畳が挙げられるでしょう。どちらも「骨で聴く異世界」では骨伝導機器とともに訪れたことがあります。

     → 天竜峡を骨で聴く
     → 寝覚の床を骨で聴く
     → 上長瀞駅を骨で聴く
     → 地質学を骨で聴く

天竜峡には水ぼれ岩というポットホールがあります。
今回はその岩のすぐ近くにある弘法堂へと向かいました。



水ぼれ岩のある場所に小さな弘法堂があり、読んで字のごとし、弘法大師・空海が祀られています。水や地質関係から、弘法大師の名が出てくるのは頷ける話です。

弘法様のお祭りが古くからあったそうですが、長らく途絶えていて、平成13年に復活したそうです。

弘法大師といえば、骨伝導ヘッドセットとともに多くの寺院・伝説地を巡りました。こちらもしばらく途絶えていたので、ここで復活です。
米軍採用の特許技術を駆使した骨伝導機器は、当時、最先端の密教だけでなく、土木や様々な産業にも関係した技術を持ち込んだ弘法大師・空海との相似に注目です。

     → 米軍採用の骨伝導機器