きょうの朝のNHKニュースで、『少女の友』創刊100周年を記念して、かつて大人気だった雑誌の一部が復刻出版されるという報道がありました。50年前にマンガにおされて廃刊になった雑誌の復刻版をもとめて、2000名もの署名が出版社によせられたそうです。
それを聞きながら、子どものころの人気雑誌『少年クラブ』『少年』を思い出しました。やはりマンガにおされて廃刊になった。
当時、毎月、新しい雑誌が出る日がまちどおしかった。
いま、小中学生のころ夢中で読んだ連載小説を思い出すと、情報について考えさせられるものが多かったことに気がつきます。
そのひとつは、ロンドンの少年が波止場でひろったトランクにインドの新聞がはいっていたというもの。サメかなにかが呑み込んだものらしく、汽船よりも1か月もはやく不作によるインド綿花の大暴騰を知ってしまう。その情報の時差をいかして、その少年が大金持ちになる話しでした。
もうひとつは、日米の少年の草野球親善試合。日本チームは、相手が日本語がわからないのをいいことに、サインを全部大声で連絡しあう。つぎは、スクイズだぞ!などと。日本少年チームは、大敗します。実は、米国少年は日本語を知っていたのです。これも、情報がテーマの小説です。
さらにもうひとつは、電話もない山奥の一軒家に銃を持った男がふらりとやってきた話。両親と住む少年は、外の情報が唯一はいるラジオで男が殺人犯であることを知る。男は、知られたことをまだ知らない。外の情報の隔離とそれを知った少年。これも情報がテーマの小説です。
これらの小説を読んだことにより、子どものころから、情報の意味を考え続けています。
あのころ、なぜ、小中学生向けの小説に、情報の意味を考えさせるものが多かったのかはよくわかりません。しかし、きょうの報道では、『少女の友』の連載小説は、太宰治や川端康成のような一流のものばかりだったそうです。
それを聞きながら、子どものころの人気雑誌『少年クラブ』『少年』を思い出しました。やはりマンガにおされて廃刊になった。
当時、毎月、新しい雑誌が出る日がまちどおしかった。
いま、小中学生のころ夢中で読んだ連載小説を思い出すと、情報について考えさせられるものが多かったことに気がつきます。
そのひとつは、ロンドンの少年が波止場でひろったトランクにインドの新聞がはいっていたというもの。サメかなにかが呑み込んだものらしく、汽船よりも1か月もはやく不作によるインド綿花の大暴騰を知ってしまう。その情報の時差をいかして、その少年が大金持ちになる話しでした。
もうひとつは、日米の少年の草野球親善試合。日本チームは、相手が日本語がわからないのをいいことに、サインを全部大声で連絡しあう。つぎは、スクイズだぞ!などと。日本少年チームは、大敗します。実は、米国少年は日本語を知っていたのです。これも、情報がテーマの小説です。
さらにもうひとつは、電話もない山奥の一軒家に銃を持った男がふらりとやってきた話。両親と住む少年は、外の情報が唯一はいるラジオで男が殺人犯であることを知る。男は、知られたことをまだ知らない。外の情報の隔離とそれを知った少年。これも情報がテーマの小説です。
これらの小説を読んだことにより、子どものころから、情報の意味を考え続けています。
あのころ、なぜ、小中学生向けの小説に、情報の意味を考えさせるものが多かったのかはよくわかりません。しかし、きょうの報道では、『少女の友』の連載小説は、太宰治や川端康成のような一流のものばかりだったそうです。
自分の目で見、検証するという作業をせずに
左右される人々があまりに多く、少々危機感を覚えずにはいられません。
もっとも自分自身も左右されやすいので反省の日々ですが...
戦前に似た風潮と表現する人もいるようです。
>情報の鵜呑み
「いまの小学校では円周率は3と教える」とか「昭和30年代は世の中が平和だった」とか。
鵜呑みにされ、ひとり歩きしていく情報をよく観察すると、正しい情報よりもそっちのほうが、魅力的であり吸引力があることに気づきます。
鵜が呑むのにはそれだけの理由があるんだなあ、と思います。
いっぽうで、ものがたりのなかではしばしば「真相」こそが魅力的であり、読み手は真相を知る登場人物によりそってなりゆきを見守ります。その疑似体験の繰り返しは、人に「情報を鵜呑みにしてはいけない」という教訓を刷り込むんじゃないかと思います。
ところが現実の世界では、真相は味気なく、つまらなく、また人々の楽しい気分や安心感をだいなしにします。
それに耐えて真相を追うかどうか。その基礎力はものがたりが養うのだとわたしは確信しています。
読書家でなくても字が苦手でも、低俗なものが嫌いでも、人はものがたりを必要としてしまう、だからいろんな人の咀嚼力に合わせたものがたりジャンルがあるのだろうなあと思います。