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『最後の早慶戦』

2008-08-04 13:39:21 | 読書/新聞/映画など
さそわれて、映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』の試写会を見てから、DVD『英霊たちの応援歌ーー最後の早慶戦』を購入して観ました。

さらに、笠原和夫・松尾俊治『最後の早慶戦』(ベースボール・マガジン社、2008年7月31日、1600円+税)を買って読みました。太平洋戦争がはじまって2年もたたないうちに、敗色濃厚となり、卒業をくりあげさせられた学生たちが、死を覚悟して戦場に向かいました。

1943年9月22日、文系学生の徴兵猶予の撤廃、繰り上げ卒業と皇軍への動員が発令されました。その夜、東条英樹首相は、ラジオで「一億総員戦闘配置につけ」と国民に号令をかけました。入営と入隊の日取りは、陸軍が12月1日、海軍は12月10日でした。

さらに10月2日には、在学生でも20歳になったものの12月1日入営が発表され、早稲田では約六千名の学生が無期休学の手続きをして戦場へむかうことになりました。

このような緊迫した状況のもとで、快晴の10月16日早稲田の戸塚球場で最後の早慶戦が開催されました。結果は、練習不足の慶応に早稲田が10対1で快勝。両大学応援団が「若き血」「都の西北」と相手の校歌を歌ってたたえあうなかで、やがて、「海ゆかば」の厳粛なうたごえが全スタンドにひろがり、早稲田の森にこだました。

大伴家持による万葉の古歌「海ゆかば、水漬く屍、山ゆかば草むす屍・・・」選手だった大島さんは、「試合中は・・何もかも忘れていたが、・・『海ゆかば』をきいて、ああやはり戦争に行くのかと、また現実に引き戻された」と当時をしのぶ。増山さんは、「もう生きて還れない。野球も終わりだ。そんなことを考えているとジーンと熱くなって・・・」と回想する。

最後の早慶戦に出場した早大ナインの4名が戦没、慶応は全員が生還した。早稲田野球部は先輩をふくめると、30名が戦死。慶応野球部の戦死は20名でした。

慶応の申し入れにたいして、早稲田当局の禁止をおしきって最後の早慶戦を実現させた早稲田野球部の飛田穂洲顧問は、1953年1月15日、「戦没球友諸君に捧げる」という文章を書いています。
「・・そして諸君はついにわれわれのもとに帰ってこない。・・・政治の偏在がさせた一部の野心家の無謀な計画が幾百万の尊い命を奪い取って、・・・幾千万の同胞を塗炭の苦しみの中に投げ込み、家なき浮浪生活に喘がせた。・・・いくさそのものは誤っていても、諸君の行った決死行に咲いた野球魂は永く永く後進選手の胸に刻まれてのこらねばならない。・・・切に切にご冥福を祈り、併せて末永く学生野球を守護したまわらんことを乞いねがう!」





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