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ネットラーニングHD、ネットラーニング、WIWIW、Phoenix Consulting、各代表取締役 岸田徹

東海道線夜行各駅停車

2011-12-29 23:08:57 | Life in Tokyo
きょうの羽田は、帰省客であふれていました。

第二次世界大戦がおわったころ、日本の農業人口は45%ほどだったと記憶しています。そして、高度成長期に農村から都市へ人口の大移動がおきました。農業人口は、10%を割っていきました。

集団就職の列車が上野に到着したのも、そのころです。

そこで、年末には、大規模な帰省という移動が発生しました。

わたしが東京に出てきたのは、1960年代のはじめです。東京ー京都間は、急行で9時間半かかりました。乗車券が700円、特急券が300円であわせて1,000円です。1964年の東京オリンピックに新幹線も開通しました。

学生のころは、旅費を節約するために、23時30分東京駅発の鈍行にのります。各駅停車ですが、真夜中の駅はとばしてゆっくり走り続けます。年末12月31日と30日は、座りきれない満席状態です。座れないと、立ったまま徹夜になってしまいます。しかし、よく観察していると、混む日が、30日か31日か、毎年いれかわっている。その裏をいけばなんとか座れます。

もちろん、新幹線ができても、乗るのは夜行各駅停車です。アルバイトと考えると、その差額は割が良い。そのうちに、神戸までの各駅停車が廃止になり、大垣行きが最長の各駅停車になりました。大垣でそのまま、神戸行きの始発にのりつぐことができるとはいえ、眠りが中断され、寒いホームで乗り換えることになりました。

そういえば、東海道線でもまだ蒸気機関車が走っていました。トンネルに入ると、あわてて窓を閉めます。

移動の規模もコストもずいぶん変わりました。当時の東京・京都間の新幹線交通費と現在のアメリカ西海岸までの格安エコノミーの往復交通費をくらべた場合、平均の給料に占める比率は同じぐらいではないでしょうか。時間もそうですね。西海岸まで、9時間もあれば到着します。当時の東京・京都の距離感は、現在のアメリカ西海岸との距離感と同じくらいに思えます。



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