いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

閉鎖国家とドーピング。 closing and doping state

2016-02-15 19:40:12 | 日記
 (1)ドーピング(doping)違反は五輪ソウル大会でのカナダのベン・ジョンソン選手が100メートル金メダルをはく奪されたことで象徴的な純粋なスポーツ哲学にいろんな勧誘やアウトロー(outlaw)が存在する不条理を思い知らされた。

 それからスポーツ五輪は興業性、プロ化が加速して人間本来の原始的な身体的機能、能力の極限の表現というよりは、つくられた科学的サイボーグ(cyborg)としての超時限、時空的なアスリートの祭典として注目を集めることになった。
 記録は大幅に伸びて、記録的に勝つことがスポーツスピリットではなくて仕事としての収入につながるステータスとなっていく。

 (2)ドーピングが五輪の金メダルをはく奪する絶対的な違法で理不尽(unreasonableness)な行為であることを象徴的に目の当たりにして、しかし今またドーピング疑惑がこれほどに世界的に深く暗く組織的に進行していることになっているとは驚きだった。

 ロシアでは国のスポーツ組織をあげてのドーピング疑惑がかかわったアスリートからの告発で続々とあかるみに出て、国際問題化している。

 (3)このままではロシアは世界のスポーツイベントから締め出される公算が強く、常に米国とスポーツ覇権を争ってきたロシアの不在は興味、関心をそぐものではあるが、それ以上にスポーツ大国ロシアの手段を選ばない勝利至上主義への落差、落胆の方が大きくて、当然のように純粋なスポーツ哲学を期待するスポーツパラダイム(paradigm)としては受け入れるわけにはいかない。

 これまでの数々の歴史、記録を彩(いろど)ってきたロシアアスリートたちがやはり純粋なスポーツ哲学とは無縁であったのかはわからないが、ロシアの閉鎖性国家(closing state)が大きく影響力を与えてきたのは間違いない。

 (4)社会主義国家としての個人権力者崇拝、一党独裁政治の中で思想、信条、理念が完全制御されて国家権力による国民支配体制が統制力を持つ国の中で、スポーツではドーピングが国威発揚(つまり米国に対抗)する手段として勝利の方程式として利用されてきたわけだ。

 今回の国の組織的なドーピングにかかわったアスリートたちからの告発は、そういうロシアにも変化があらわれはじめた兆候といえそうだ。

 (5)いまだにプーチン大統領の支持率は数字上は不自然な圧倒的なものがあり独裁制に変わりはないが、若者中心に政権批判の集会デモも報じられてかってのように国民締めつけばかりではなりゆかない、情報化社会での旧ソ連の崩壊による分離独立国家体制の歴史がある。

 かろうじてロシア政府が国民の支持を集めているとすれば、豊富な天然資源を活用した経済自立、欧州などへの経済影響力による国民生活の安定とプーチン大統領の立ち回りのよさによる外交手腕での国際政治での米国を凌(しの)ぐリーダーシップ力だろう。

 (6)国の組織ぐるみのドーピングにかかわったロシアアスリートたちの良心、信念はどこからきたものかはロシアの閉鎖性国家体制からよくわからないが、ひとつは人間本来の持つ純粋なスポーツ哲学、健康健全理念がかかわっていたのではないのか。

 人間がアスリートサイボーグ化される恐怖ははかりしれないストレスであり、当事者は人間破壊の恐怖にさらされていたことは想像できるところだ。
 
 (7)国家として使い捨て統制できない、代わりが利かない特殊能力と純粋な人間判断能力との落差の不安、ひずみを国家統制できなかった不幸な当然の帰結であった。
 時を同じくして清原和博容疑者の違法薬物事件が社会問題化しているが、日本も意外とプライバシー偏重で閉鎖性社会問題を抱えているのかもしれない。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする