(1)法治国家というと善良な管理者による正義万能社会のように映るけれども、裁判はそもそも人が人を裁く不条理(unreasonableness)の世界だ。
裁判判断、量刑は判例に従って整合性がはかられて、たとえば殺人事件も被害者が1人の場合と2人以上のときとでは判例では原則有期刑(被害者1人)か最高無期、死刑(同2人以上)かの大きな違いがある。
人間の命の価値(value of a personal life)は誰も決めれない(最高裁判断による判例が基準)というのが正解なのだろうが、裁判では被害者1人と2人以上とで量刑に裁量判断の区分があり、人間の命の価値基準に目安が設定されているという不条理性だ。
(2)川崎中1殺害事件で横浜地裁は裁判長が「手口の残虐性は際立っている」(報道)としながら「成育環境から生じた年令不相応の『未熟さ』が殺意の形成に影響している」(同、『』は本ブログ注)として、犯行当時18才だった犯行リーダー格の少年に懲役9~13年の不定期刑を言い渡した。
不定期刑とは今後の更生の度合いを見てその範囲内で刑期が確定する量刑だ。殺害された少年は当時13才で、加害者18才の今後の成長、成育の可能性の大きさと比較して13才の少年の命の価値が9~13年というのは見合ったものなのか、やはり不条理の世界としかいいようがない。
(3)日本の刑法は報復主義をとらないのでそれに見合った量刑という理論、理念はないが、被害者1人と2人以上の命の価値に差異を設けたり、被害者のこれからのあったであろう人生は考慮されずに加害者の人生、更生に光が当てられる裁判判断、判例には人が人を裁く不条理を思い知らされるものだ。
当時18才の加害者の年令は今夏の参院選から選挙投票権が与えられる年令であり、これに合わせて成人年令を18才に下げることも国会で検討されたこともある。
国会でも一般社会(世論調査)でも今日的社会状況から18才を大人(成人)とみなすことには反対意見が多くて、未成年者としての取り扱いが妥当との判断がある。
(4)近年は未成年者による凶悪犯罪も目につくようになって、少年法の趣旨に添って一般社会人とは異なった基準での対応がとられている。
当時13才の少年を「手口の残虐性は際立っている」方法で殺害し、当時18才の加害者少年の量刑が懲役9~13年判決となるのであれば、その「不条理性」、『未熟』さは家族制度の理念から保護責任者の「親」が過重負担すべきものともいえる。
ことに今回の殺害事件は「成育環境から生じた年令不相応の未熟さが殺意の形成に影響している」と言うなら、親の成育、保護責任の大きさはなおさらのことだ。
(5)判例は過去裁判からの歴史の中で人間の命の価値をいつの時代でも公平、公正、平等に扱う裁量基準とするものであるが、今後仮に成人年令が下がることによって単に年令比較では過去と整合性がとれなくなる事態は生じるので、裁判も人間の命の価値について普遍的、合理的、正義的に判断基準を考え整理する必要に迫られるだろう。
それは死刑廃止論に対しても世界的、時代的、えん罪的な見地からの要請でもある。
(6)人が人を裁く裁判の不条理の世界の中で、せめて求められるのは哲学、司法哲学、人間哲学だ。
人の命を数量でおもんばかる、年令でおもんばかる合理性だけでなく、もちろん報復主義の理念は認められないが、犯罪責任の取り方について被害者の心情も取り込んだ普遍的、理論的、正義的な判断基準体系、判例を示すべきだ。
裁判判断、量刑は判例に従って整合性がはかられて、たとえば殺人事件も被害者が1人の場合と2人以上のときとでは判例では原則有期刑(被害者1人)か最高無期、死刑(同2人以上)かの大きな違いがある。
人間の命の価値(value of a personal life)は誰も決めれない(最高裁判断による判例が基準)というのが正解なのだろうが、裁判では被害者1人と2人以上とで量刑に裁量判断の区分があり、人間の命の価値基準に目安が設定されているという不条理性だ。
(2)川崎中1殺害事件で横浜地裁は裁判長が「手口の残虐性は際立っている」(報道)としながら「成育環境から生じた年令不相応の『未熟さ』が殺意の形成に影響している」(同、『』は本ブログ注)として、犯行当時18才だった犯行リーダー格の少年に懲役9~13年の不定期刑を言い渡した。
不定期刑とは今後の更生の度合いを見てその範囲内で刑期が確定する量刑だ。殺害された少年は当時13才で、加害者18才の今後の成長、成育の可能性の大きさと比較して13才の少年の命の価値が9~13年というのは見合ったものなのか、やはり不条理の世界としかいいようがない。
(3)日本の刑法は報復主義をとらないのでそれに見合った量刑という理論、理念はないが、被害者1人と2人以上の命の価値に差異を設けたり、被害者のこれからのあったであろう人生は考慮されずに加害者の人生、更生に光が当てられる裁判判断、判例には人が人を裁く不条理を思い知らされるものだ。
当時18才の加害者の年令は今夏の参院選から選挙投票権が与えられる年令であり、これに合わせて成人年令を18才に下げることも国会で検討されたこともある。
国会でも一般社会(世論調査)でも今日的社会状況から18才を大人(成人)とみなすことには反対意見が多くて、未成年者としての取り扱いが妥当との判断がある。
(4)近年は未成年者による凶悪犯罪も目につくようになって、少年法の趣旨に添って一般社会人とは異なった基準での対応がとられている。
当時13才の少年を「手口の残虐性は際立っている」方法で殺害し、当時18才の加害者少年の量刑が懲役9~13年判決となるのであれば、その「不条理性」、『未熟』さは家族制度の理念から保護責任者の「親」が過重負担すべきものともいえる。
ことに今回の殺害事件は「成育環境から生じた年令不相応の未熟さが殺意の形成に影響している」と言うなら、親の成育、保護責任の大きさはなおさらのことだ。
(5)判例は過去裁判からの歴史の中で人間の命の価値をいつの時代でも公平、公正、平等に扱う裁量基準とするものであるが、今後仮に成人年令が下がることによって単に年令比較では過去と整合性がとれなくなる事態は生じるので、裁判も人間の命の価値について普遍的、合理的、正義的に判断基準を考え整理する必要に迫られるだろう。
それは死刑廃止論に対しても世界的、時代的、えん罪的な見地からの要請でもある。
(6)人が人を裁く裁判の不条理の世界の中で、せめて求められるのは哲学、司法哲学、人間哲学だ。
人の命を数量でおもんばかる、年令でおもんばかる合理性だけでなく、もちろん報復主義の理念は認められないが、犯罪責任の取り方について被害者の心情も取り込んだ普遍的、理論的、正義的な判断基準体系、判例を示すべきだ。