オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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Ballyが作った「回胴式遊技機」の話

2022年10月09日 21時13分14秒 | 風営機

現在のナウなヤングの中にはその名前すら知らない人も多いかもしれませんが、拙ブログでしばしば言及している米国のゲーム機メーカー、バーリー(Bally)社は、かつては世界の娯楽機市場を席巻したビッグでジャイアントなコングロマリットでした。

どの程度ビッグでジャイアントだったかと言うと、例えば米国の経済誌フォーチュンは、1981年に発表した「米国法人ビッグ500」において、バーリーを「売上高398位、純利益では273位」に位置付け、ゲームマシン紙1983年10月1日号は「拡大続けるバリー社 レジャー産業全般へ、すでに21社を傘下に」として、「AM機とギャンブル機の製造部門を中心にしながら、遊園地、アーケードゲーム場、カジノの経営と手を広げ(中略)国内における直接の子会社は16社、外国では日本、オーストラリア、ヨーロッパなどで6社を子会社としている」と報じています。

Ballyのロゴ。「ベリーシェイプ(Belly Shape:どてっ腹型)」とも呼ばれる特徴的なロゴは、日本のオールドファンにはピンボール機やメダルゲームのスロットマシンで馴染み深い。

日本のAM業界でも早い段階から「Bally」のブランド力は知れ渡っており、その絶大なネームバリューにあやかって、社名に「バーリー」を名乗る(パクる)企業が複数あったものでした。なお、バーリーの日本での正統な子会社は「バリー・ジャパン」と言いましたが、設立年が特定できません。おそらくはメダルゲームブームが発生する1972年以降だと思うのですが、ご存じの方がいらっしゃいましたらご教示いただけますようお願い申し上げます。

そのバーリーが最も栄えていたのは、1960年代半ば以降から1980年代後半にかけての間で、1990年前後頃からはグループ企業の売却に次ぐ売却で四分五裂し、徐々にその勢いを失っていきました。今でもバーリーの名前やロゴは、例えばNHK-BSでの大リーグ中継で時々表示される「Bally Sports」などで見かけることはありますが、それらは名前を受け継いでいるだけで、中身は全く別物です。また、ラスベガスの老舗カジノホテル「トロピカーナ(Tropicana)」は、つい先月「Bally Corporation」に買収されましたが、これもかつてのバーリーとは関係がありません。

さて、話は変わりますが、日本の回胴式遊技機(今でいう「パチスロ」)の「0号機」は、1977年に発売された「ジェミニ」から始まりました(関連記事:「アメリカンパチンコ」・ジェミニ)。

ジェミニは、もともとバーリー社製品の部品を日本国内にディストリビュートしていた会社が、バーリーの筐体や部品を流用して作ったものでした。ジェミニの開発者である角野博光氏は、この時のバーリーとのやり取りを、「(技術介入のあるスロットマシンは)『我々の計画では、そんなものは世の中でありえない』と言われました。取り敢えず一応は『やってもいい』ということになって、デザインからメカまで同一の等しい機械を作ったわけです。足りない部品に関しては当時バリーから供給してもらいました」と語っています(関連記事:歴史の語り部を追った話(5):現代パチスロの祖先とバーリーの関係・その3 二つの「バーリー」)。

ジェミニが発売されたのは1977年ですから、このやり取りがあったのはそれ以前のこととなります。おそらくは1975年前後ころか、ひょっとするとそれよりさらに1、2年程度前のことであったかもしれません。その時点で「そんなものはありえない」と言っていたバーリーは、しかし、1980年の春に、「ギャラクシー」という回胴式遊技機を発表し、日本国内で販売を始めました。

バーリー製回胴式遊技機「ギャラクシー」の発表を報じるゲームマシン紙1980年4月1号の記事と、筐体画像の拡大図。

実はこれは青天の霹靂と言うわけではなく、バーリーは1977年の時点で既に日本の風営機向けとしたスロットマシンの開発を行っていました。ゲームマシン紙1977年11月1日号では、その年の秋に行われたアミューズメントマシンショウに関する記事の中で、「風営をめざすスロット『スーパースター』が展示され、話題を呼んだ」と報じています。

ゲームマシン紙1977年11月1日号の記事「各社出展内容一覧」より、バリー・ジャパン社の部分。手前にスキルストップボタンが付いていると思しき2台の「スーパースター」が見える。背後に見えるのは右よりフリッパー・ピンボールのエイトボール、イーブル・ニーブル(EM版)、それにビンゴ・ピンボール(機種不明)。

米国バーリーの日本法人であるバリー・ジャパンは、日本のAM業界事情を本国に伝えるリサーチ活動も行っていたので、以前にはありえないと思っていたことが日本で現実化しようとしていることを知り、急いで参入してきたということなのかもしれません。

あるいは、ジェミニ開発者に対する米国側の窓口が、どうもバーリー本体ではなく、バーリー製品をディストリビュートする「バーリー・ディストリビューティング」であったと思われる節があり、その社長であるサイ・レッド関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(3)米国内の動き)は電子ゲーム機の開発に意欲的であったので、バーリーではなくバーリー・ディストリビューティングが動いた、ということなのかもしれません。

当初の回胴式遊技機はみんなバーリーの筐体や部品を流用した「アップライト筐体」だったので、その供給源であったバーリー社にはさぞ大きなアドバンテージがあったことと思います。しかし、バーリーのギャラクシーが発表された同じ年の夏、従来のパチンコ台の島に取り付けることを前提とする「パチスロパルサー」(尚球社)が発表されました。パチンコ店は、導入のために店舗の改造を要したアップライト筐体とは違い、現状のまま導入できる「パチスロ」を大いに歓迎し、それ以降開発される回胴式遊技機はみなこれに倣うようになりました。従ってバーリーの「ギャラクシー」は、アップライト型の回胴式遊技機の概ね最後の製品と言うことになりますが、そのせいか、ワタシは「ギャラクシー」をパチンコ店で見た記憶がありません。果たしてギャラクシーは一般のパチンコ店に設置されたのでしょうか。どなたかご覧になったことがある方はいらっしゃいませんでしょうか。

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「パチスロ」がすっかり定着した後の1990年代、欧州のエレクトロコイン社、米国のIGT社、豪州のアリストクラート社など海外の大手スロットマシンメーカーが続々と日本のパチスロ市場に参入し、当時は話題となりましたが、それよりもずっと以前に海外企業によるパチスロへの参入が試みられていたのは、ワタシにとって意外な事実でした。

最後にもう一つ付け足し。時期は特定できませんが、バーリーは、メダルを使用するアレンジボールによく似たコンセプトのゲーム機を開発していたことを比較的最近知りました。情報源は、前回の記事でもご紹介したカナダのCaitlynですが、これについてはまだ詳しいことを述べることができないので、その事実を忘れないためのメモを残すに留めておきます。それにしても、あのビッグでジャイアントなバーリーは、案外日本の市場も意識していたんだなあと思わせられます。


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