水車ボランティア(+山家鳥虫歌)

ボランティア解説員としての見聞から始めた、ボケ防止メモ。12年目。新たに「山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)」を加える。
 

古文書講座(3)年貢割付状(2)

2011-02-26 11:53:03 | 三鷹・歴史/地史
 今回は畑。

 大沢村の年貢割付状によると、年貢が掛けられた畑の総面積は、66.1ヘクタール(上畑・2.7、中畑・9.5、下畑・36.7、下下畑・13.4、屋敷・3.7)であって、その年貢は、永31貫303文であった。

 「永」がつく貫文は年貢のみに使用する架空の単位で、永1貫は1両なのだそうだ。当時、銅銭は鐚銭(ビタセン)と呼ばれ、永1貫=永1000文=鐚4000文であった。永と鐚との関係は変動制で、幕末頃には鐚銭の下落が激しく、1両=鐚8~10千貫文にもなっていたらしい。

 とにかく、上から、永31貫303文=31.303両。又、年貢では、1両=米1俵で換算されていたらしい。 
現在の米価格を15000円/俵とした、前回の仮定を踏襲すると、上の年貢、永31貫303文は約117万円と計算される。
今日の言葉でいえば、およそ66ヘクタールの畑に対し、年総額約120万円の税金が掛けられていたということだ。

 では、この畑でどのような作物が作られていたのだろうか。子供時代の風景を思い出すと、三鷹の畑は、麦と陸稲の二毛作、ほかにはサツマイモ、キャベツぐらいだ。
第二回の講座で配布された、元禄5年9月連雀新田寺社書上村鑑帳によると、作物として、稗、粟、大麦、小麦、苅大豆、蕎麦、菜、大根、いもが挙げられている。

 大沢村の畑でも、連雀新田と同様、換金の対象にならない、自給のための作物が栽培されていたはずだ。ということを前提にすると、当時の大沢村にとって年貢の重みはかなりきつかった、と想像させる。