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日々、思うことをサラサラと。

日頃、イイな、とかおかしいゾ、とかキレイだなと思うことをサラサラと書き出してみたい。

解明・・・小股の切れ上がったいい女とは

2009年12月04日 | 喜怒☆楽
「小股の切れ上がったいい女」の言葉を聞くたび目に触れるたびに
(現在、あまり使われなくなっているが)自分の曖昧な解釈が気になっていた。
”スカっとあっさりタイプで加えて粋な女”というところかな?でも
どうして小股なんだ?と・・小股が引っかかるんである。
(以前にも拙ブログでネタにしたことがあるが)

この疑問が昨昨日、やっとスッキリ解明した(朝日夕刊やなせたかし氏コラムより)
広辞苑には
 「女のすらりとした粋なからだつきをいう」とあるようだ。
しかし、切れ上がるという感じがしっくりこない。

やなせさんのデザイン学校時代の師である西田正秋先生(美術解剖学)
という方が黒板に浮世絵美人の後姿をサラサラ描きこう言ったのだという。

浮世絵を見れば分かるが当時は首筋が美しいというのがセクシーで美人だった。
首が白く長く、うなじにふた筋の髪の筋がくっきりとして、小さな股
のように見える。小股の切れ上がった美人というのはこういう女性を形容
したのだ

そこでやなせさんは続ける。
ぼくは心の底から納得した(私も心の底から納得した
・・・中略・・・襟首の髪の生え際は襟足というではないか。
小さい足の小さい股。鋭角的にスッキリとしたラインはまさに切れ上がる
という語感である

やなせさん、長年の曖昧がスッキリ解明されました
襟足美人かぁ・・・と脳内に様々な女優を描いてみた。
「蝉しぐれ」の木村佳乃さんが綺麗な襟足していたなぁ。






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還るということ ーそして、私たちは愛に帰るー

2009年12月03日 | 映画
「そして、私たちは愛に帰る」 2007/ドイツ・トルコ
    監督・脚本 ファティ・アキン
見事な脚本です
2007/カンヌで最優秀脚本賞受賞。



”国内に多くのトルコ系移民を抱えるドイツとEU加盟問題に揺れるトルコ、
そんな両国の社会情勢を背景に、ドイツとトルコにまたがって絡み合う3組
の親子の葛藤と絆を綴るヒューマン・ドラマ・・・”
                     -オールシネマよりー

息子を一人で育てあげたトルコ人の初老の父親と教授の息子。
トルコ人の娼婦と政治活動をしてトルコを追われたその娘。
ドイツ人の母親とその娘の学生。
この3組の親子それそれ6人がリンクしストーリーが展開していく。

まず舞台はドイツ。
同郷(トルコ)の娼婦と出会った父親は、娼婦の稼ぎの同額を支払うという
条件で同居を求める。大学教授の息子ネジャット(バーキ・ダヴラク)はそんな
父親を感情を押さえ冷静に対処するように努めている。
息子は娼婦との対話でその抱えている状況を知ることになる。
最愛の娘のために学費を稼ぐ必要があり、そのためには娼婦をも厭わない
という姿勢に微塵の揺らぎがない。この人の常に口元をきつく引き締めて
いる表情が印象的だ。
やがて、同居するうちにある諍いが原因で父親は娼婦を危めてしまう。
思わぬ結果で罪を負ってしまった父親は刑期を終え故郷へ戻る。
息子は父を案じトルコへ訪ねてみるのだが、そこで新たな展開がある。
感じの良い書籍を売る店舗が売りに出ていて、息子はこの店舗を購入する
ことにし、教授職を辞めここで居を構えることを決心する。
この過程は唐突ではなくいささかも奇を衒った感じはない。
”導かれた”という感がある。そんな雰囲気がこの書店の内装にある。
(こんな書店があったら度々通いたい。好ましき雑多感!)↓



娘アイテン(ヌルギュル・イエシルチャイ)は政治活動(テロリスト)をしてトルコを
追われている。そんな追われる生活の中、ドイツ人の女学生ロッテ
(パトリシア・ジオクロースカ)と出会う。
女学生はアイテンの持つ独特の強さ危うさに惹かれていく。


女学生の母(ハンナ・シグラ)はこんな二人を危惧して見ている。
リベラルな風情をもつこの母親は、トルコの問題はEU加盟で解決できる
と説くのだが、気持ちの固いアイテンとは平行線のまま交わることがない。
やがて、この母親の危惧は現実のものとして表れる。
娘がアイテンの依頼で活動中に誤って撃たれてしまう。
悲嘆に暮れた母親は娘が撃たれたトルコへ向かう。

娘が一時部屋をレンタルしていたのはあの元教授ネジャットの家。
そんな経緯で母親とネジャットは出逢うことになる。
二人には共有できる感情がある(根に同じものを持っている)
それぞれの人生を経て、人の繋がりを得て、巡りめぐって
辿り着いた二人(いや、3人)。男女の仲という括りではなく、人が生きる
道で出会うべき人と会ったのだ。
この場所で母親は娘の描いた思いを知ることになる。
娘が賭したアイテンを救い出し、お互いの理解を得て再会した場所は、
今はネジャットが経営するあの店だ。
こういうシーン作りがとても上手い。
例えば、母親とネジャットが部屋の窓から眺めるその目線の先には
モスクに祈りに向かう人々が石階段を降りてくるシーン(画像参照)も
示唆的だ。


息子ネジャットとドイツ人の母親の静かな演技がとてもいい。
激情で人を傷つけないように抑制する自制心。
悼んでいる人に語りかけるきっかけを託す短い言葉。
哀しみと許しを讃え豊かに感情を伝えてくる。










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千切りキャベツのトラウマ

2009年12月01日 | 喜怒☆楽
私が高校生だった頃の話です。

電車通学が面倒で、学校の近所に住む高齢の伯母の家に下宿
していた時期がある。
伯母の家には他に医大生が数人下宿していて、
家事を手伝うことを条件に許可を得たという経緯があった。
そういう訳で高校生としては結構マメに家事労働をした。
朝起きたら家内の掃除をしてから登校し、帰宅したら夕食の手伝い。
こういうことを自宅ですると嫌々モード全開になるのだが
他家ではさほど気にならなくなる。
・・・って、正直に言おう。
やはり医大生を目の片隅に意識していた・・・と思う
加えて伯母が森繁久弥の女性版といった風情なので
手伝っていて「ふふふ・・」とか「アハハ」と和やかな独特の
雰囲気が面白くもあった

ある日、夕食の手伝いをしていて「キャベツを千切りにして頂戴!」
と頼まれた。普段、自宅では百切りキャベツくらいの太さで通用
していたのでかなり慎重に細く細く包丁を入れた。
その成果は「これで、どうだ!!」という程の自信作であった。
しかし・・・
  ・ 
  ・
伯母は無情にも「千切りって言ったのに?」と怪訝な顔をする。
”聞き違い”をしたと思ったらしい。
聞き違いで太く切ってしまったのと、千切りのつもりで太く切った
のでは大違いである。
私はこのとき内心かなり焦った
いい加減をホコホコと見過ごしてきた我が母を呪った
自分の信じてきた世界の狭さにうろたえた
と、瞬時にそんなことが頭の中を駆け巡った。

未だに”千切りキャベツ”は私の辿り着けない領域だ。
出来る人にはどうってことないかも知れないが、至難の業だ。
上手い人が切るとフワっと盛り上がるんですよねぇ
家人は「刺さる」と嫌味を言う・・・

追記:下宿は3ヶ月ほどで止めました。
   続けていれば千切りキャベツ上手くなっていたと思うのだが。
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