日々、思うことをサラサラと。

日頃、イイな、とかおかしいゾ、とかキレイだなと思うことをサラサラと書き出してみたい。

ダサ可愛い

2006年10月21日 | 喜怒☆楽
大人が目立つ風景の中にあって、整然とした視野からちょこちょこ「はみ出す」幼児の動きが面白い。
直線と直角で動いているような場に、柔らかいカーブを不規則に描くような感じで動きだす子ども。
興味の趣くままに脇目も振らず突進していく姿は必死で清らかだ。

昔から幼児の動作を眺めていることが好きだった。飽きない。ピィーピィー泣いてるときの顔が、他人事なのでただただ可愛い。
アイドル系より、日本昔話に登場するようなダサ可愛いを見るとサインさえ欲しくなる



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こんなところに広大な雑木林

2006年10月20日 | 美術展・本
なんだか思いがけなく唐突に異次元に入っちゃったような感じ。・・これが「五島美術館」の”ある場所”を見た素直な感想です(東急電鉄創業者の五島氏が開設)

東急東横線自由が丘で大井町線に乗り換えて5分”上野毛駅”下車
5分も歩くと閑静な住宅街の一角に鎮座するように建ってます。今、墨跡・歌仙絵・李朝の陶芸など展示されてますが、目当ては「紫式部日記絵巻」。春は「源氏物語絵巻」が期間限定で展示されます。と・・もちろん展示作品は充分見応えあるものでしたが侘び寂びの作品云々の感想は伝えにくいもの墨跡は好き嫌いがはっきりしているので、チラっと見て通過するだけの作品と、しばし揺れるような気持ち良さで見惚れるものがあり、一見ヘタで乱れているような字体に多く足が止まります。墨跡は怖いくらいに性格がでてしまうような気がします。大胆豪放に見えた作品が、戻って再度眺めてみると意外に線が細かったり。

一室だけの小規模な展示だったので「庭園」も廻って見る事に。な、なんと眼下に見える「庭園」は庭園というよりも広大な雑木林ではありませんか武蔵野の多摩川に向かって傾斜しているその立地の抜群の良さ。人工的な便宜の良さというものを感じさせず、自然のあるがままをそのまま程よく遊ばせている。ゆっくり散策する途中には、あちこちに表情豊かな小さな石仏があり、のほほんと石灯籠があり、わざと配列を乱した石畳がある。日射しで輝く緑の苔を沿わせた石畳の坂を登ったり降りたりして深く吸う空気は雑木の匂いが満載。一山を濃縮してこの地に持ってきたような充実した景観。数時間かけないと廻りきれないほど味わいたいものがドッサリ
あります。掲載した画像は携帯画像なので広大な雑木林の雰囲気が撮れなくて残念です。

でも、こんな凄い庭園を要しながらHPではあっさり紹介してるだけなので分からないと思います。五島美術館

追記:「根津美術館」の庭園もgood。
追追記:作品についての詳細はTBして下さった”徒然なるままに”の方のブログをご覧になって下さい。”徒然なるままに”さん、ありがとうございます。
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ゆうさんの絵(1)

2006年10月09日 | 喜怒☆楽
友人のゆうさんの絵画です。
”とまと”を栽培しながら時々絵を描いてます。

「-朱ー 赤とんぼが秋を描く」

豊穣の稲穂の上空を赤とんぼがフワフワ飛んで遊んでます。
ゆうさんの絵はどれも油絵の具をたっぷり使い込み、層が厚くどっしり
してます
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日本への置手紙

2006年10月09日 | 映画
この本は、モンゴルからの留学生”ボヤンヒシグ”さんのエッセイ(詩)です。
 昨年?もブログで簡単に紹介しましたが、最近また読み直して新たにこの人の言葉の魅力に捕り憑かれてます・・・・と、いうことで再度掲載しちゃいます。
ボヤンさんはモンゴル大学を卒業後、北京出版社で7年勤務し、その後日本に留学し大学院で日本文学を学びます。その日本語の理解度たるやスゴイで
ボヤンさんの紡ぎだす言葉はまるで「書く」というより「描く」と表現してもいいくらいに豊かです。自由闊達に当意即妙の言葉を繋ぎ構築していきます。日本語に慣れた日本人には思いもつかないモンゴルの人ならではの言葉の解釈は斬新で、随所でキラリと輝きます

22編に分かれたエッセイの中から一つ抜粋します。
  < 天衣無縫 >
「天衣無縫」という四文字熟語がある。・・・(中略)・・・人間の第一衣装は皮膚だという哲学者がいる・・(中略)・・皮膚という衣装は何を見せ、何を隠すためのものなのか。水よりも、ため息よりも、雲よりも柔らかい感触の向こうに膨大で複雑な組織を包装している。皮膚を内側の深層から織り成し、染めているのは紛れもなく、血液、体液、骨、関節・・・様々な欲望めいたものである。見せているのは「天衣」の縫い目に違いない。すなわちデザインだ・・(中略)・・・・
・髭があるため男たちはどこかで荒っぽい。女の唇はほぼ完成されてる。・・・
目の縫い目は一番きれいその中に「眼球」という宝石がはめ込ま
れている。それが黄色であれ、碧緑であれ、青であれ、茶色であれ値が同じなのだ。その宝石の光と外側のものの光の加減によって、目は開いたり閉じたりする。
表情としての眉毛と、飾りとしての睫には文句をいう余地もない。・・・へその下には人格はないというが、今はむしろへその上に人格がない。へそというのはボタンであり、身体の上下の境目であり、母体のつながりの痕跡でもある。女には乳首というものがある。男たちにとっては、永遠にほどくことのできない炎のボタンに違いない。上手に触っても乱暴に触っても、罪の足跡はいつまでも消えない不思議な立脚点。男女の性器もわざわざ誤ったようなデザインである。・・・・・縫ったり、ほどいたりする余裕のある「消費者」まかせのデザイン.......(長くなるのであちこち略して転載しました)

在住7年の異国の留学生が記した文章は、清潔で律儀。そして思いもかけぬ方向からキラリと未知の言葉で切り取り、私の呆けた感性を刺激してくれました
 「懐情の原形 ーナラン(日本)への置手紙ー」ボヤンヒシグ著:英治出版


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