旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

「世代論」をちょっと考える 其の弐

2005-09-06 12:39:00 | 日記・雑学
其の壱の続き

■「70歳から90歳までの戦争体験論というのは益よりも害の方が多い」と指摘されている世代は、1906年~1926年、つまり明治39年から大正15年までの間に生まれた人ということになります。『日本人の全世代読本』を参考にしてどんな人たちがたいのか少し拾ってみます。


明治44年 岡本太郎(画家),北林谷栄(俳優),古田紹欽(仏教学),武谷三男(物理学),秦野章(参議員),石津謙介(服飾),鹿内信隆(フジ・サンケイ)

明治45年 矢野健太郎(数学),桜内義雄(衆議員),糸川英夫(組織工学),関根正雄(旧約学),福田恒存(評論),木下恵介(映画)

大正2年 林健太郎(歴史),金田一春彦(国語),森繁久弥(俳優),家永三郎(日本史),丹下健三(建築),吉田秀和(音楽)

大正3年 三木鶏郎(音楽),丸山真男(思想),南博(心理学),木下順二(劇作),猪木正道(政治学),松村達雄(俳優)

大正4年 柳家小さん(落語),飛鳥田一雄(社会党),山本夏彦(評論),串田孫一(随筆),市川昆(映画)

大正5年 小坂徳三郎(衆議員),会田雄次(文化史),五味川純平(小説),斉藤茂太(精神),林雄二郎(未来工学)

大正6年 千秋実(俳優),浜口蔵之助(作詞)

大正7年 田中角栄(首相),中曽根康弘(首相),鶴見和子(社会学),高橋圭三(司会),高峰三枝子(俳優),鳩山威一郎(参議員),
藤原てい(作家)

大正8年 やなせたかし(漫画),水上勉(作家),野村芳太郎(映画),金子兜太(俳句)

大正9年 長谷川町子(漫画),土居健郎(精神),川上哲治(野球),楢崎弥之助(衆議員爆弾男),森光子(俳優),大竹省二(写真),
安岡章太郎(作家)

大正10年 竹内均(地球物理),江戸家猫八(芸人),谷川健一(民俗)

大正11年 山田風太郎(作家),大森実(記者),邦光史郎(作家),水木しげる(漫画),三浦綾子(作家),丹波哲郎(霊界俳優),中内功(ダイエー),石井好子(歌手)

大正12年 司馬遼太郎(作家),千宗室(茶道),田英夫(参議員),船越英二(俳優),三波春夫(歌手),外山滋比古(英文),小林桂樹(俳優),村上兵衛(評論)

大正13年 竹下登(首相),高田好胤(薬師寺),吉行淳之助(作家),安部晋太郎(衆議員),草柳大蔵(評論),吉本隆明(評論)

大正14年 江崎玲於奈(物理学),永井路子(作家),桂米丸(落語),田中小実昌(作家),杉本苑子(作家),辻邦生(作家),森本哲郎(評論),うらべまこと(服飾)

大正15年 三浦朱門(作家),松谷みよ子(児童文),多胡輝(心理),井上光晴(作家),山岡久乃(俳優),石井ふく子(テレビ),小松方正(俳優)


■因みに、松本清張さんは明治42年(1909)生まれです。戦争体験をどこかで書いていそうな人達を列挙してみたのですが、ジャーナリストや作家名が随分落ちているのは全体的な世相を追った本だからでしょうが、どこかでこうした人達が語った戦争体験を耳にしたり読んだりしているような気がします。貴重な体験談となっている場合も有るように思えますが、こうして並べてみると、何処か共通しているトーンのようなものが出て来そうな気もしますなあ。

■岡崎・中嶋対談に戻ります。日本が知的な分野で中国に負けるのではないか?という話題が続きます。


岡崎 ……アメリカ人が30半ばの日本人と中国人のインテリと議論をして、中国のインテリのほうがはるかに話が面白いとなったら負けです。私はそうなる危険がかなりの確立であると思います。……例えば、戦争前に日本のインテリは林語堂とか宋美齢に欧米でインテレクチュアリーに負けたわけです。もちろん状況は違いますが、外国に出しても、誰とでも堂々と渡り合える人材が育ってほしいと思います。
中嶋 林語堂などを見ると、実に国際的ですが、日本は夏目漱石にしても、森鴎外にしても、あくまでも国内の人で、国際性をもちえませんでした。それだけに、日本の新しい世代には国際性を期待したいものです。


■こうして対談は終るのですが、林語堂などと言われても、誰だ?と言われそうですから、困ってしまいますなあ。最近、新渡戸稲造さんの『武士道』に注目が集まったことが有りましたが、あの本は明治33年(1900)に米国のフィラデルフィアで出版されたもので、飽くまでも欧米人に理解し易く武士道を語ったものですから、日本人が熟読するのは少々問題が有ると思います。但し、原文の英語は格調高い立派なものなので、日本人が書いた英文の見本としてなら大いに研究する価値はあるようです。岡倉天心なども活躍しましたが、どちらにしても日本が世界に語らなければならなくなった時代よりも前の人達です。

■林語堂さんは、1895年10月10日福建省生まれです。日清戦争から清朝崩壊、中華民国の建国を経験しながら、リベラル派の知識人として活躍した人です。学生運動を支持したり軍閥を批判する熱烈な文章を新聞や雑誌に発表して20年代から有名になっていた林さんは、魯迅達との交流も深めますが、ユーモアを使った風刺小説などを書くようになって魯迅とは別れます。1936年(昭和11)に家族と供にアメリカに渡ってチャイナの民俗・歴史・文化を英語で紹介し続けたのでした。彼の本は米国人にチャイナに対する好印象を植え付ける役目を果たして、それに従って米国内の日本に対する印象がどんどん悪化することになったようです。日本語に翻訳された作品も多いので、一冊くらいは読んでみるべきでしょうなあ。

■日本人が日本を上手に海外に向って語る技術を磨かねばならないのですが、それを今までに持たなかったという歴史を最初に学ばねばなりません。外から文化の良いトコ取りに努力した見事な歴史は持っていますが、こちらから発信することなどまったく考えたことがないというのが日本の歴史なのです。特定の信仰宗教団体などが、海外での熱心な布教活動などをしていますが、それだけに頼っているわけにも行かないでしょう。日本国内で歴史教科書問題一つ片付けられなければ、若い世代が胸を張って海外で日本を語ることなど出来ませんなあ。

おしまい。

日本の反核運動 其の九

2005-09-06 12:38:30 | 外交・世界情勢全般
其の八の続き

■63年7月15日にモスクワで米英ソ三国核停会議が開催されて核実験の制限が交渉され始めて、世界は核の危機が緩和されると期待したのですが、この会議の隠された目的は中国の孤立化でした。核保有国の独占的立場を守ろうとする動きは、この頃から生まれていたのです。中国は中ソ対立が表面化する前から、ソ連との対立には核武装が欠かせないと思っていましたから、密かに進めていた核開発が禁じられる事を最も警戒していたのです。

■7月17日に原水協が、社会党と共産党に大同団結を要請したのですが、翌日には赤旗新聞が「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現は「日本人民の素朴な感情を利用して原水禁運動を誤った方向に導くもので、運動は分裂し後退する。」と批判する論文を掲載します。「日本人の素朴な感情」とは「日本人は馬鹿者である。」という意味ですから、革命の前衛を自認する共産党の唯我独尊が表面化したと言えるでしょう。そして、彼らの求める運動は「悪い核」の廃絶に集中すべきで、「良い核」まで無くなってしまうと運動の意味が失われるというのが主旨です。共産主義革命には原爆が必要だと言っているのも同然の主張です。7月22日、社会党機関紙『社会新報』が共産党の論文に対して「政党の不当な優越感である。これでは原水禁運動の自主性も独立性も一切否認される。」と批判して反核運動は実質的に分裂して、8月5日の「部分的核実験停止条約」の調印が引き起こした中ソ論争が、日本にも持ち込まれて国内代理戦争の様相を呈して行きます。

■第9回原水禁世界大会の開催が計画されますが、社会党と総評は不参加でその理由は「共産党が割り当てた代表数を無視して全国的な動員体制で自らの主張を押し切ろうとした。」と発表します。共産党が実力で日本の反核運動の指導者となろうとしたのです。さすがは民主集中制の政党だと言うべきでしょうか。それに対する反発と失望は大きかったらしく、8月6日になって広島県原水協は、世界大会の運営を社会党・総評・共産党の協力が得られない事を理由に返上してしまいます。そして、統一を失った大会会場では激烈な中ソ対立が発生してしまいます。朱子奇中国代表が「部分核停条約の調印により、ソ連は反帝国主義運動と植民地諸国の解放運動支援等で世界人民を裏切った。」と攻撃すると、ソ連のジューコフ代表は「そのような攻撃こそ、中ソ共通の敵米帝国主義の利益に奉仕するものだ。台湾海峡の危機で中国を救ったのはソ連ではないか。」と応酬して、社会主義革命を守る「良い核」にも二種類有る事が衆目の前に明らかとなりました。

■これがそのまま日本国内のイデオロギー対立に飛び火します。 社会党と総評が「原水禁運動を守る国民集会」を開いて「いかなる国のいかなる核実験にも反対」のスローガンを確認して8月18日の『社会新報』紙上で「共産党が人海戦術で踏み躙った大会は無効である。」と主張すると、8月25日の『赤旗』は「社会新報の記事は第9回原水禁世界大会への誹謗であり、社会党の態度は分裂主義である。」と反論を掲載して手が着けられない状態になってしまいます。被爆国がこんな状態になって年を越えたのですが、1964年2月3日に、米国ボルダーのコロラド州立大学で「21世紀世界展広島原爆展」が開かれて原爆の実態が初めて米国で公開されました。残念ながら、これに呼応して動ける運動主体は日本には無かったのです。

其の壱拾に続く

どちらもお気の毒様 其の参

2005-09-06 12:38:01 | 社会問題・事件
其の弐の続き

■9月2日になって、ハリケーン禍の傷跡の深さが明らかとなり、それと同時にこれからますます状況が悪化する可能性が高まっている事と、この大災害は起こるべくして起こった過去の問題までが浮上して来たようです。イラクと米国を並べてお見舞い申し上げる趣旨に従うと、イラクのユーフラテス川流域で昔ながらの湿地帯が復元されたという目出度いニュースを知ったのは8月のことでした。スンニ・トライアングルの南側に位置する大湿地帯は、シーア派の人々が漁労と農業で暮らしていた場所でしたが、クウェート侵攻事件に乗じて反フセイン運動に立ち上がったとして、報復として湿地帯の上流を堰き止めて生活を根こそぎ干上がらせるというフセインさんらしい暴挙に出ていたということです。これを海外の援助で復元したというわけです。

■米国のミシシッピ川は巨大な古代文明を生み出しはしませんでしたが、統一国家を作って行く時に物流の大動脈となっていたのでした。地図を見ればミシシッピ州とルイジアナ州は呆れるほど巨大な三角州だということが分かります。実際にあの辺りをグレイハウンド・バスで走って見ると、どこまでも真っ平なだけで山などまったく見えないので大河が作った地形であることが良く分かりませんが、今回水没したニューオリンズに辿り付くと、そこがまるでオランダの低地と同じように水に取り巻かれた都市である事が分かります。有名なバーボン・ストリートから3ブロックほど歩けばそこは、ミシシッピ川の岸辺で、そこに立つと、大きな川船が引っ切り無しに行き交っているのが見えます。川の港町の風景です。船の動きで起こる三角波が間断なく堤防を叩いています。川岸に立って、視線を後の町並みに移すと、確かに水面よりも低い土地であることが分かります。

■観光客が歩く川岸周辺のフレンチ・クウォーター地区は、少しばかり高くなっていてホテルや博物館などの公的建築物が集まっていますが、川から北に向えば土地は低くなって貧しい人達が暮らす地区が広がっているようです。今回の化け物ハリケーンがフロリダ半島を越えて接近して来た時に、夏休みでボケ気味にも見えたブッシュ大統領は、気楽に「すぐに避難して下さい」と呼び掛けたのですが、これはフランス革命直前に「パンを寄越せ!」という市民の怒りに対して「パンが無いのならケーキを食べれば良いのに……」とマリー・アントワネットが言ったとか言わないとか、何はともあれそんなトボケた助言に良く似た避難勧告だったようです。日本人の中にも、占領軍以来の刷り込みで、アメリカンと聞くと自動的に大きな家と大きな自動車、広いキッチンにでっかい冷蔵庫……と連想してしまう人が多いのではないでしょうか?

■石油産業が成長するために鉄道網を密にする政策を中断して、全土を自動車道路で覆った米国ですから、経済的な理由や健康上の理由で自動車を所有していない人々は今回のような緊急移動が必要な場合には身動きが取れないのは当然でしょう。この問題は、強引かつ中途半端に自動車社会を作ってしまった日本はもっと大変です。東京都内が最たるものですが、軽自動車も入れないような住宅街の道が沢山あるのですから、緊急自動車も入れないし近所の協力で自動車を利用する事も不可能なのですから、地震や大火などで緊急避難が必要となったら絶望的な状況に置かれるでしょう。米国は自動車が入れない道は無いので、水没したニューオリンズも車高の高い軍用車や小型のボートが集められれば救助作業も進むでしょう。

■水没したのは街路と家屋だけでなく、どうやら沢山の死体が濁った水の底に沈んでいるようです。最初は数十人の犠牲者という報道でしたが、だんだん増えて数千人規模になるだろうとの予測も出ています。行方不明者の数がなかなか確認出来ないというのは奇妙ですが、水・食料・医薬品の搬入が大幅に遅れているのはもっと不思議です。予算も人員もイラクに集中しているのが原因だろう、との意見も出ているようです。イラクでは砂漠に囲まれた廃墟の中で世界の救援を待っている人々がいるのですが、一切そうした人々の姿は報道されません。そして、ミシシッピ川流域では泥水に囲まれて多くの人が世界からの救援を求めている姿が頻繁に報道されています。何だか不平等ですなあ。イラクをぶっ壊し続けている米国が、水で破壊されたというのは因縁話めいています。

■今回、多くの日本人が眼を疑ったのは略奪と銃の撃ち合いの風景だったでしょうが、外に国民共通の敵を決めて団結する時とは逆に、国内に致命的な打撃を受けた時の弱点が露呈しただけのことです。一見、平穏無事に暮らしているように見えても、仲良くなると人種差別や宗教的な対立の話が、隣近所から周辺都市の地名まで広がって行くものです。差別される側は、危機的状況になれば一種の復讐心に火が点いて当然のように略奪を始めますし、優位に立っている側は防御体制を取って攻撃準備に入ります。銃器に関する法律が西部開拓以来、変わっていないのですから、日本で言えば豊臣秀吉の刀狩り以前の状態がずっと続いているわけです。余りの略奪の激しさと、警備陣に対する発砲事件の続発で、9月2日には州知事命令で「略奪犯は見つけ次第射殺せよ」ということになったそうです。何だか、ファルージャのテロリスト狩りがそのまま本国に戻って来たような話です。

■日本政府(のお役人は)は被災の3日後に、テントや毛布など50万ドル分の援助物資を送ろうかと考えているようです。東京直下型大地震の訓練には丁度良い援助活動なのですから、備蓄している物を実際に送って見れば良いと思いますなあ。神戸の震災でも結構いろいろと学んだ日本政府が準備した装備やシステムが大災害に対して有効かどうか判断するのに役立つでしょう。余り大きく報道されませんでしたが、実際には神戸の震災直後から怪しげな人影が瓦礫の中を徘徊していたという噂はあちこちで聞かれました。国民を不安にすると誰かが考えて報道規制をしたのかも知れませんが、地域社会が崩壊している上にいろいろな国からいろいろな人が入り込んでいるのですから、東京で何事かが起こった時には、神戸や今のニューオリンズで起こっている略奪と同じような事が起こるかも知れません。

■今回のニューオリンズで逃げなかった人々には、移動手段が無かっただけでなく、行き先が無かったという話も有ります。日本の関東大震災が起こった大正時代には、東京は今よりもずっと小さい町だった上に、頑張って歩いて行ける場所に広大な農村地帯が広がっていて、東京都民の多くは地方から出て来た第一世代でしたから、町が崩壊した直後からさっさと「実家」に避難して飢えなくても済んだという話も有ります。何もかもが大きく変わってしまった東京が大災害をどうやって乗り切るのか、それを考える時に参考となる資料が無いのですなあ。ですから、今回のニューオリンズを他山の石とすべきなのです。東京都下でも想像を絶する振動に襲われれば堤防が決壊して水没する地域が有るのですから……。

おしまい。