旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

『女王の教室』が終了しました

2005-09-18 01:23:27 | 社会問題・事件
■日本テレビの『女王の教室』というドラマが終了しました。TBSでは『ドラゴン桜』という学園ドラマが前日に終了しました。バブル期以降、熱心にドラマなど見なくなって久しいのですが、スポンサーが降りただの、賛否両論で世間が騒いでいるのと、新聞の文化面や社会面にも記事が載る騒ぎなので、何回かは見てみました。『ドラゴン桜』の方は、もともとコミック漫画の原作をテレビで実写化した作品とのことで、主演の阿部寛さんに全面的にオンブに抱っこの印象が強く、コミックだから言える台詞にテレビが完全に頼り切っているような違和感も強かった印象です。野際洋子さんが熱演した校長先生は、オリジナル脚本ならば不可能なノイズでしかないような気もします。

■テレビの学園ドラマと聞くと、『金八先生』シリーズの嫌な印象が強いので、何を今更、と思ってしまうのですが、今回の二本は、理想に燃えて作家が現場を無視して理想の夢を見るだけの学園ドラマではなかったようです。少なくとも、商売としての私立高校という「現場」と、子供を育てる家庭が崩壊している日本の学校の「現場」を強く意識していたようなので、数回は始めから最後まで鑑賞することが出来ました。ちょっと前に、『積み木崩し』の裏話をドラマ化した番組が放送されましたなあ。舘ひろしさんのミス・キャストが響いて支離滅裂な作品になっていたようで、半分弱見ているのも辛い番組でした。しかし、週刊誌があれこれと穂積さん一家の崩壊をレポートしていた頃を思い出しながら、情報の再確認には役立ったのは確かです。『積み木崩し』という本とドラマの危険性を誰も気付かずに、出版社とテレビ局、確か映画まで作ったのではないでしょうか?貴重な脇役を演じていた穂積さんが、「教育評論家」になってしまったのを本人の責任にするのは残酷すぎる。そんな単純な事を、これだけの時間が過ぎた後でテレビでドラマ化するというのはどうなのでしょう?

■売れれば良い、視聴率さえ取れれば良い。それを反省するのも出版社やテレビ局の責務だと思うのですが、現実はそんなに甘くないのでしょうなあ。まるで他人事のように、穂積さんがテレビで罪を重ねていた頃の風景を再現して見せるテレビ局というのは、本当に恐ろしいところだと良く分かりました。話題を集めていた『金八先生』にも、学校の現場を混乱させた罪が有るはずなのですが、フィクションの強みで、小さな事件が日本中の学校で起こっても、それが『金八先生』の悪影響だとは誰にも指摘できないまま、時は過ぎ去ったようです。日教組のバイブルとなるべく書かれた『金八先生』は時が経て見直すほどに異様な作品です。何度も続編やスペシャル物も作られたようですが、正直なところ、数本の作品をじっくり見たのが日本ではなく、隣の社会主義国だった事も影響しているのかも知れませんが、金八先生に教えを受けた生徒達は、どんな大人になるのだろう?と考えると頭が混乱してしまったのを覚えています。

■中学生の妊娠問題を扱った時に、幼い母親を演じた女優さんが、大変な騒ぎを起こして人生を傷だらけにして商売にしているのは、単なる偶然なのでしょうが、それほど違和感は無いのが不思議ですなあ。実に信頼の置けない「視聴率」ですが、一応参考にすると、初回の放送で、『ドラゴン桜』は17・5%で、『女王の教室』は14・4%と記録されています。今時、「女王」などと聞いたら、「是非見よう!」と言うのはちょっとした勇気が必要だからかも知れませんが…これが第2話から逆転を繰り返しながら推移したようです。どちらも、最後のハッピーエンドを保障しない作りになっているので、再放送やらソフト化で人気が出る可能性が有ります。

■どちらの作品も、学園物(一般化して語るほど観てはいませんが)の約束事を全部捨てる事から筋が作られているので、これまでの甘ったるい学園物を制作した全ての人々を弾劾する意味を持っていると考えて良いでしょう。最後に『仰げば尊し』を小学生が発掘して合唱するという筋は、この歌を抹殺しようとした人達に説明か改心を要求しているのでしょうし、「聖職ではなく労働者だ」と言い出した人達には全話を通して疑問を投げ付けてもいるでしょう。例の『金八先生』がろくに授業もやらないで、子供にはどうしようもない「世界平和」やヒューマニズム憲法を語って聴かせる場面が評判だったそうですが、それは学徒動員や小国民教育と同じ、否、それ以上に苛烈な共産主義国家の革命家養成教育と同根の大間違いなのだと、今になって分かっても、随分と犠牲者が沢山おりまして、その犠牲者がマスコミの中で重鎮になっていたりするので、まだまだ清算は先のこととなるでしょうなあ。

■近々、どこかの月刊誌でこの二本の学園ドラマを特集してくれるでしょうが、是非とも『論座』に期待しますなあ。今まで、二冊しか買ったことが無いのですが、しぶとく自己弁護をする人達を結集してくれたら、是非とも購入したいと思っています。有能な塾教師達は、手を変え品を変えしながら、生徒に勉強の意義を語る使命を持っているので、なかなか哲学的な出し物を持っている人が多いものです。逆に、「公務員」に安住していて、聴かせる話などぜんぜん持たない学校教師が多いのも事実です。「ゆとり」教育の本当の目的は何だったのか、そして、単なる教員の労働条件改善の必要が出て来て乱暴に週休二日制度を導入した帳尻合わせで、後から取って付けた様な理屈を工夫しただけなのか、その辺の事情を検証しないと、このドラマが突きつけた問題は解けません。どちらのドラマの主人公も、自分の生活を持っていないのが印象的でした。ですから、『金八先生』ブームの轍を踏んで、作り物を理想化して本当の学校に虚像を追い求めるようなバカなことが起こらない事だけを願っております。

■この二本のドラマを実際の教員の皆さんが熱中して観ている姿は想像したくないものですなあ。それにしても、『女王の教室』の主人公は勉強してましたぞ!


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『敬老の日』を考える

2005-09-18 00:10:18 | 社会問題・事件
■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、敬老の日は兵庫県が発祥の地のようです。
敬老の日は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、1947年から、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。「としより」という呼び方はひどいということで、1964年に「老人の日」と改称された。1966年に国民の祝日「敬老の日」になった。だから、「母の日」のように外国から輸入されたような記念日と違い、「敬老の日」はニュージーランドなど諸外国にはない。
なお、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日であるとか、元正天皇が養老の滝に御幸した日であるとかいう俗説もあるが、どちらも確かではない。

■この「俗説」の方が気になって調べて見ると、それほど簡単に切って捨てられない意味が有りそうです。
http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/09/keiro.htm
に詳しく解説されていますが、抜粋しますと、

(1)聖徳太子説
聖徳太子が大阪に四天王寺を建てた時、ここに四天王にあわせて、敬田院・ 悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置したといわれています。その内の 悲田院というのが今でいえば老人ホームで、この悲田院ができたのが9月15日であったため、この日が選ばれた…
なお、悲田院・施薬院はのちに光明皇后も奈良の興福寺内に設置しています。こちらは年代が分かりました。養老7年(723)のことのようです。…更には天平2年(730)には皇后官職に施薬院、左京・右京にも1ヶ所ずつ悲田院が設置されたようです。(養老7年はまだ聖武天皇は即位していない。つまり光明子が皇太子妃の時代である。故にひょっとしたらこれは光明皇后ではなく元正天皇の事績
かも知れない)

(2)養老の滝説
美濃の国にお酒の好きなおじいさんと、孝行な息子がいました。…この息子はきこりをしていたのですが、ある時足を滑らせて谷間に落ちたところ、そこに酒の流れる滝があるのを見つけました。息子は喜んでこの酒を持ち帰り、おじいさんにたくさんお酒を飲ませてあげました。
そのことを聞いた元正天皇は霊亀3年(717)9月その地に行幸、そのきこりを役職に取り立ててやるとともに、これを瑞兆として11月17日元号を養老と改めたとのことです。この故事にもとづき、全国的に9月中旬頃に地域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが以前から行われており、そこで9月15日を敬老の日に定めたというもの。
続日本紀の記録はこうなっています。
・9月11日、天皇は美濃に向けて出発した。
・9月18日、天皇は美濃に到着した。
・9月20日、天皇は多度山の美泉をご覧になった。
・天皇は行幸に同行した者に者を賜った。行幸に協力した地元の人の税金を免除した。下級役人を1階級昇進させた。
・11月17日次のように詔した。
 9月に美濃の美泉に行った。手や顔を洗うと肌がなめらかになるようであった。痛いところを洗うと痛みが取れた。聞くところによればこれを飲んだ者は白髪が黒く戻ったり、目の見えないのが見えるようになったり、病気が治ったりしたという。昔後漢の光武帝の時にも似たような話があったそうである。これは瑞兆である。よって改元して養老とする。

■儒教の徳目である「孝」を意識した良く出来た話で、大陸の文明国に負けない国を作ろうとしていた時代の熱気が伝わる話でもあります。9月には秋分の日も有るので、春にの連休に対応させて秋の休日を増やしたのかも知れません。その秋分の日は、

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋分の日(しゅうぶんのひ)は国民の祝日の一つ。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としている。9月23日ごろ。
1948年公布・施行の祝日法によって制定された。…1947年までは、秋季皇霊祭という祭日だった。仏教各派ではこの日「秋季彼岸会」が行われ、宗派問わず墓参りをする人も多い。
ということは、「敬老の日」の方が一年早く制定されているのです。仏教よりも神道文化が先行したと考えるのは行き過ぎでしょうが、盆と正月しか休日らしい休日が無かった時代が終わって、新しい時代が始まる時期に続々と「国民の祝日」が制定されたわけですが、敗戦後、昭和40年ぐらいまでは「旗日」と読んで、町や村には日の丸が飾られたのでした。日捲りカレンダーにも、国民の祝日の紙には必ず交差した日の丸が描かれていました。

■祝日ごとに必ず日の丸を揚げるかどうかは、ややこしい問題に巻き込まれそうですし、遠出をしたりすると出し入れが面倒臭いので、すっかり日の丸が減ってしまいました。そもそも、戦後に急増した高層住宅には国旗掲揚に適した場所は無く、鯉幟(こいのぼり)と同様に垂直な壁には似合わない上に、強い風で飛ばされたら危険ですから日の丸を揚げる高層住宅を見ることは無いようです。日の丸を揚げようと運動している人達が、この問題をどうやって解決しようとしているのかは知りませんが、土地付き一戸建てを購入しても、目の前を自動車が行き交うので、立派な日の丸を突き出していたら、交通の邪魔ですなあ。イデオロギー問題よりも、のんびりと人々が歩いていた時代と共に、国旗の掲揚は消えて行ったのではないでしょうか?

■閑話休題。主題は「敬老の日」です。


 衆院選で、勤め先の大阪府岸和田市にある特別養護老人ホームの入所者の投票用紙に勝手に候補者名などを記入、投票したとして、大阪府警捜査2課は17日、公選法違反(投票偽造)の疑いで、貝塚市窪田、同ホーム職員芳野剛容疑者(42)を逮捕した。
 同容疑者は「介護保険法の改正に熱心な候補者の当選が、入所者にいいことだと思った」と容疑を認めている。
(時事通信) - 9月17日


 千葉県富津市の独り暮らしの無職男性(82)のキャッシュカードを使い、郵便貯金から勝手に現金を引き出すなどしていたとして、千葉地検は16日までに、窃盗や詐欺などの罪で、男性の元ホームヘルパー長尾俊子容疑者(46)=同県君津市大和田=を起訴した。この日の追起訴分を含め、引き出した額は計約4100万円に上るが、「男性に頼まれた」などと否認しているという。
 同容疑者については、嫌疑不十分でいったん不起訴処分となったが、検察審査会が審査を開始したことから、再捜査が行われていた。(時事通信) - 9月17日

■このような事件は、毎日のように日本の何処かで起こっているようです。先日は、一人の民生委員の女性に凄まじい容疑が掛かる事件が有りました。詐欺商法のターゲットも老人です。郵便貯金を世界一の金融機関に育て上げた貯金好きの古い日本人達と。世界に冠たる「土地本位制」に頼りながら強化して来た古い日本人達が、若い世代の食い物にされている世相が良く分かります。100歳という一つの目安を政治的に偽造して、粗品と祝い金を送る下卑た人気取り政策が日本中で実施されています。しかし、余りに100歳以上の御老人が増え過ぎて、天下の厚生労働省でも計算違いをして恥をかいて見せましたなあ。「少子高齢化」を問題視しているのに、長寿を祝っている嘘くささが破綻した時が心配です。

■既に、祖父母と日常生活を共有する経験の無い日本人が大半を占めるようになって、老人は全て「他人」としか思えない国民が半分以上になっても、取って付けた様な「敬老の日」をカレンダーに印刷している事を考え直した方が良いのではないでしょうか?「元気な老人」を焚き付けて、無理な山歩きに引き込んで荒稼ぎする仕事も増えました。そして、命懸けの山岳救助の対象は、その8割が高齢者だという馬鹿馬鹿しい現実も有ります。交通事故や駅の転落事故、そもそも都市が多くの高齢者が暮らす事を想定などしていないのです。「敬老の日」を存続させて、嘘くささが消えるような国に返る運動を起こすのか、「姥捨て」伝説を復活させて覚悟を固めて9月の休日を一つ削除するのか、本気で考えるべきではないでしょうか?

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