旅限無(りょげむ)

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日本の反核運動 其の八

2005-09-05 20:10:04 | 外交・世界情勢全般
其の七の続き

■62年7月8日に米国がジョンストン島で超高空核実験に成功すると、7月21日には、ソ連が核ミサイルの水中発射に成功します。これで核弾頭の運搬方法に関してはソ連も海中に進出したので、米国に対する核攻撃オプションは圧倒的に有利になりました。米ソ共に全面核戦争は有り得るものとして実際に核兵器を投げ合う準備を着々と進めていた事態に対して、8月6日の原水禁世界大会では「ソ連の核実験に抗議せよ。」という至極当然の要求が出されますが、これを絶対に受け容れられないとして社会党・総評代表が退場して政治勢力の分裂が決定的になりました。平和と憲法9条が大好きな人達は原爆も大好きだったようですなあ。

■更に広島大会では、米ソ両国に抗議電報を打つ事を議決しましたが、ソ連・中国・北朝鮮の代表5人が退場して国際的な連帯も消滅してしまいました。この時までは、この三国は表面上は仲が良かったわけです。8月11日になって社会党が「原水禁世界大会混乱の原因は日共(日本共産党)と中国代表に有る」との見解を発表して反核運動は社共対立の具として弄ばれ始めます。政治的な混乱と反核運動を分離しようと努力していた広島原水協は、独断で8月18日に米ソ両国に対して核実験中止の電報を送りました。しかし、見落としてはならない事が日本の工業界では進んでいました。国内の混乱を他所に、茨城県の原研では国産第一号大型研究用原子炉が9月12日に稼動して日本にも「原子の火」が灯ったのです。原子力発電所から廃棄される放射性物質は、原爆の材料となりますから、日本の原発行政には常に米国の神経質な監視の目が光っていました。冷戦時代の西側も一枚岩ではなかったということです。

■9月18日の日本原水協全国常任理事会が、先の社共対立で流会となってしまいます。市民の素朴な声から始まった反核運動が当初の目的を見失って、それぞれの思想的な尻尾を持つ政治勢力の思惑によってずたずたにされたのです。そして、10月21日には、広島市原爆被害者協議会が会則の目的から「原水禁運動」を削除してしまうという窮地に追い込まれてしまいます。市民を置き去りにして、政治家や学者達の反核運動がイデオロギー対立と政治的な主張の齟齬(そご)によって暴走したのです。

■日本が核廃絶の道を完全に見失って迷路に入った時に、世界は全面核戦争の危機に立たされれる事になります。それが10月22日に起こった米国による全面海上封鎖に至った「キューバ危機」の勃発です。ソ連の核兵器が平和目的に使用されると言い張る人々からも、実際に米国の喉元に核ミサイルを並べるソ連の行動を積極的に支持する声は上がりませんでした。机上の空論と政争の道具に堕落した反核運動は、現実の核戦争危機に対して何の発言も出来なかったのです。キューバ危機前日に日本の反核運動が完全に空中分解してしまった事実は忘れてはなりません。

■現実の核の危機に対して、身内の主導権争いで混迷するような脆弱な体質では対処不能である事を少しは学んだらしく、10月28日にソ連のフルシチョフ書記長がキューバからミサイルを撤去する決意をすると、11月5日に広島市原水協が原水禁国民大会への参加を決定して運動が再統一される気運が生まれたのでした。ソ連が折れれば原水禁も軟化するようになっていました。しかし、年が明けて1963年2月21日になると、日本原水協が「原水禁運動の統一と強化について」という声明を発表して、社会党や総評等13団体が声明の完全支持を声明すると、翌22日になって内野共産党統一戦線部長が、喉元過ぎると熱さを忘れたかのように、


「原水協声明の中に〝いかなる国のいかなる核実験にも反対〟という表現が残されているのは誤りだ。」

との談話を発表します。ここで「良い核」と「悪い核」の区別が明確に提示されたのです。では、「良い核」とは何かと言うと、3月10日に核禁広島県民会議が「中共が核武装すれば東西間の溝は深まり核停協定の締結は不可能になろう。我々は中共の核武装に強く反対する」と決議しているので、共産党が敢えて言及を避けた「良い核」は中国の物だったと分かります。6月19日に、原水協の活動再開に関しては社会党・総評・共産党の三者が一致しますが、互いの主張には何の変化も無かった事が間も無く判明します。

其の九に続く

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